第二章 三十回目の敗北と、三か月後の宣戦布告
「はい、オワリの終わり。三十回目も俺に触れることは叶わなかったな」
木剣が、乾いた音を立てて地面を転がった。
俺の手は痺れ、右肩は重く、呼吸はひどく乱れている。対するカルミアは、庭先の雑草でも眺めているような顔をしていた。
「お前、少しは疲れろよ」
「俺はお前より七年長く生きて、そのうち十年近く剣を握ってる。比べるな」
「二十五歳と十八歳の差って、そんなにでかいのか?」
「剣に関してはな」
三日前、俺は異世界で騎士になった。
そして現在、三十回連続でカルミアに負けている。
魔法が使えるかもしれない。
何か隠された能力があるかもしれない。
そんな期待は、木剣を握った初日に消えた。
腕力は普通。反射神経も普通。痛みも感じる。訓練のあとには腹が減るし、朝から走れば翌日には筋肉痛になった。
「転生特典はないのかよ」
「転生したとは言ってねえだろ」
カルミアが、俺の木剣を拾って投げ返す。
「そもそも、お前は死んでねえ」
「そうだった。玄関から落ちただけだった」
「それを普通は、落ちただけとは言わねえんだよ」
訓練は朝と午後に一度ずつ。午前中は、フリシアが屋敷の書庫で領地の記録を読み、俺はカルミアの手伝いをする。昼食は三人で食べ、午後は剣。夕方には、俺がこの世界の言葉や地理を教わる。
生活の形が、少しずつできていった。
屋敷には、思っていたほど使用人がいなかった。父親であるゼフィランサスが亡くなり、領地の手続きが滞っている。必要最低限の人間を残して、多くは親族の元や王都へ引き上げていた。
昼食の席で、俺はフリシアに尋ねた。
「領主って、毎日こんなに書類を読むのか?」
「毎日ではありません。今日は少し多いだけです」
「それ、昨日も言ってなかったか?」
「昨日も少し多かったのです」
カルミアが鍋からスープをよそいながら口を挟む。
「姫様は父親が死んでから、一日も休んでねえよ」
「カルミア」
「事実だろ」
フリシアは、木のスプーンでスープを混ぜた。
「父の代わりにならなければと思いました」
「父親の代わりになる必要はないんじゃないか?」
「では、何になればいいのでしょう」
問い返され、俺は黙った。
「分からない。でも、父親の真似をするのと、フリシアがフリシアとして領主になるのは、たぶん違う」
彼女は、しばらく俺を見ていた。
「変な人ですね、オワリは」
「よく言われる」
「でも、嫌いではありません」
その言葉で、俺は危うくスープを喉に詰まらせた。
そんな穏やかな日々が、三日で終わった。
午後の訓練を始めようとした時、屋敷の門が勢いよく開いた。
「さあぁて、君たち元気かなー? 突然の訪問、失礼するよぉーぅ!」
声の主は、緑色の髪を長く伸ばした男だった。
緑の瞳。細身の身体。高価そうな服。笑顔だけを見れば、観客の前で芝居をしている役者に近い。
だが、彼の背後にいる四人の気配は、冗談ではなかった。
黒髪の少女が、大剣の柄に手を置いている。
白髪の少女は、武器を持たずに周囲を観察している。
全身を鎧で覆った男は、彫像のように動かない。
そして、彼らの背後に置かれた旗には、バラウェル領の紋章が描かれていた。
「私の名前はぁ、ジギタリス・フォン・アドラメレク! バラウェル領の領主をしているよぉ!」
カルミアが、フリシアの前へ出る。
「アザレア王国バラウェル領、現領主ジギタリス卿。随分と急な訪問だな」
「ゼフィランサス卿がお亡くなりになったと聞いてねぇ。領主の席が空いたなら、近隣の者が手を挙げるべきでしょう?」
「フリシアは、もう領主だ」
「王都の承認がまだだろう?」
ジギタリスは、懐から一枚の書状を取り出した。
「私は、正式な領地争奪戦を申し込む。三か月後、エクセア領の統治権を賭けて、私の四騎士と戦ってもらおうじゃないか」
背後の黒髪の少女が、身体に似合わない大剣を少しだけ持ち上げた。
「ジギっち、話が長いよ。もうやっていい?」
「ダメだよ、ネモ姉。フィラとの約束を忘れたの?」
白髪の少女が、姉の腕を抑えた。
「ネモ、フィラ。じゃれ合いはそこまでぇ」
ジギタリスが二人を紹介する。
「黒髪のネモ。白髪のフィラ。二人で一枚の、たいへん面白い駒だ。そして、黙っている彼がムスカリ。最後の一人、ロベリアは今日は来ていない。四騎士は、四つの剣で一組なのさぁ」
鎧の男――ムスカリが、わずかに顔を動かした。
赤い瞳のカルミアと、黒い瞳のムスカリ。
二人の間を、俺には見えない過去が通り過ぎたように感じた。
「エクセア領は、私がいただくよぉ」
「フリシアの土地を、ゲームみたいに言うな」
俺が口にすると、ジギタリスの顔がこちらを向いた。
「おや? 見慣れない顔だ。誰かな?」
「俺は、フリシアの騎士だ」
「騎士?」
ジギタリスは楽しそうに笑った。
「それは、ずいぶんと新しい駒だねぇ」
ジギタリスが指を鳴らした。
空気が一度、薄く揺れる。
次に瞬きをした時、門の前にはフリシアと俺たちしか残っていなかった。
「消えた?」
「転移系の魔法だ。あいつ自身が使ったのか、誰かに使わせたのかは分からねえ」
カルミアは、消えた四人が立っていた場所を見つめていた。
「あの鎧の男は、誰だ?」
「ムスカリ。バラウェル騎士団長だ」
「知り合いなんだな」
「昔の仲間だ」
「仲が悪いのか?」
「仲が良かったから、今はややこしい」
カルミアはそれ以上、何も言わなかった。
フリシアは、門の外を見ていた。
「三か月後……」
「怖いか?」
俺が聞くと、彼女は少しだけ考えた。
「怖いです。父が亡くなってから、怖くない日はありません」
「でも、降参はしないんだな」
「あなたが、あの場で剣だと言ってくれたから」
「俺はまだ、木剣しかまともに振れないぞ」
「それでも、剣は剣です」
翌日から、訓練は一日二回になった。
カルミアは俺の弱点を一つずつ潰した。足が開きすぎる。肩に力が入りすぎる。視線が相手の武器へ吸われる。攻撃の後に止まる。
俺は、同じ失敗を何度も繰り返した。
「また同じだ」
「身体が覚えるまで、同じことをするしかねえ」
「カルミアは、最初からできたのか?」
「俺だって、木剣を振って師匠の足を何度も踏んだ」
「想像できないな」
「俺を何だと思ってる?」
「最初から強い人」
「それは、強くなる前の人間を知らねえだけだ」
午後の訓練が終わったあと、フリシアは書庫から出てきた。
「今度は、私が言葉の勉強をお手伝いします」
「会話はできているから、もう十分じゃないか?」
「固有名詞や地理が分からないと、戦場で困ります」
紙へ、エクセア領の地図を描く。
東にガルラ山。北に湖。中央にセウブケス。西の境界にバラウェル領。
「大樹の都は、正式にはセウブケスという都市の中心部です。大樹街ウーチアは、樹の内部にある十五階層の街の名前」
「ややこしいな」
「あなたの世界にも、似たような名前の場所はあるでしょう?」
「あるけど、俺は地理が得意じゃない」
「では、オワリは世界が変わっても地理が苦手なのですね」
「変わらないものもあるってことだ」
その日の夜、食堂には三人分の食器が並んだ。
フリシアは、父親の死後に屋敷から離れた使用人たちの名前を挙げた。カルミアは、村々の道と水場の位置を説明した。
俺は聞きながら、知らない世界の中へ少しずつ足場が増えていくのを感じていた。
その夜、俺は木剣を壁へ立てかけたまま、宣戦布告の言葉を何度も思い出していた。
三か月後、白鐘平原で四人の騎士と戦う。
数字だけなら、勝負になる気がしない。俺は一人前の剣士ではないし、フリシアは戦う領主ではなく、カルミア一人では四人を相手にできない。
それでも、フリシアは降参しなかった。
俺は机の上に置いた紙へ、覚えたばかりの地図を描いた。中央にエクセア。西にバラウェル。東にガルラ山。セウブケスの位置は少しずれたが、今はそれでいい。
紙の端へ、俺は三つの名前を書いた。
フリシア。カルミア。オワリ。
三本の剣。
まだ一本は木剣で、一本は十年以上の経験を持ち、一本は領主の首飾りに守られているだけだ。それでも、空欄のままよりはましだった。
「増やせばいい」
小さく呟く。
翌朝から、訓練の内容を変えることにした。剣を振るだけではなく、誰かを守るための位置取りを覚える。フリシアが書類を読んでいる間、俺とカルミアは屋敷の門から中庭までの距離を測った。襲撃者が来た場合、どこで迎え、どこまで下がれば守護宝珠の範囲に入るのかを確認する。
「剣が弱いなら、弱いなりに戦場を選べ」
カルミアが言った。
「強い奴の真似をするな。自分が生き残れる場所を作れ」
「それって、逃げるってことか?」
「生き残るための移動だ。逃げるかどうかを決めるのは、その後だ」
俺は地面に引いた線を見つめた。
領主争奪戦は、剣を交える日までに始まっている。
勝つためには、まず自分たちが何を守り、どこで踏みとどまるのかを決めなければならなかった。




