第一章 落ちてきた騎士
二度目に目を覚ました時、部屋にはフリシアしかいなかった。
彼女は椅子に座り、俺の様子を窺っている。眠っていたのか、長い睫毛の下に疲れが残っていた。
「また起きたか」
「カルミアさんが呼んできます。今度は、もう眠らないでくださいね」
「善処する」
返事をした直後、扉が開いた。
白髪の男が入ってくる。赤い瞳。腰には紋章の入った剣。仕立てのよい服の上からでも分かる、無駄のない筋肉のつき方をしていた。
カルミアは、あとで二十五歳だと知った。
「お、意識が戻ったか。落下の衝撃で頭の中まで壊れてなきゃいいが」
「初対面の人間に対する言葉として、それはどうなんだ?」
「口が動くなら問題ねえな」
男は、からからと笑った。
「カルミアです。この屋敷で騎士をやってる」
「騎士……」
視線が、彼の腰の剣へ吸い寄せられる。
本物の剣だ。装飾品ではない。柄には使い込まれた傷があり、鞘の金具も何度も修理された跡がある。
「ここはどこだ?」
「アザレア王国、エクセア領。領主邸だ」
「アザレア王国……」
聞いたことのない国名だった。
「そして、俺たちの目の前にいるのが次期領主、フリシア・アンジュ様」
「次期?」
フリシアが、膝の上で手を握った。
「父が亡くなったばかりで、正式な領主として認められるための手続きが残っています」
「亡くなったって、病気か?」
「鉱山の落盤事故です」
答えが返ってくるまでに、一拍あった。
その短い間で、彼女がどんな顔をしていたのかを、俺は見ないふりをした。
「それで、俺はどうしてここに?」
「庭に落ちてきた。正確には、屋敷の上空から落ちて、フリシア様の守護宝珠が衝撃を散らした。だから大きな怪我がなかった」
カルミアが、フリシアの首元を指した。
そこには、細い首輪のような装飾品があった。中央に埋め込まれた青白い宝珠が、呼吸に合わせるように淡く明滅している。
「俺を運んだのは?」
「俺だな。フリシア様が近づこうとして、逆に宝珠の結界に弾かれたから」
「姫様が自分で運ぼうとしたのか?」
「姫なんて大層なものではありません」
フリシアが、少しだけ眉を下げる。
「私のことはフリシアで構いません。カルミアや父の側近たちは、私をフゥと呼びます。もし親しくなれたら、あなたもそう呼んでください」
「じゃあ、今はフリシアで」
「はい」
彼女が笑った。
「それで、あなたの名前は?」
「星野終。十八歳。出身は……日本」
「ニホン?」
「遠い外国だと思ってくれ」
嘘ではない。
ただ、本当のことを言っても理解されるとは思えなかった。
異世界から来た。玄関を開けたら落ちた。スマホは圏外。
口にすればするほど、俺のほうが変な人間に見える。
「魔法は使えるか?」
カルミアが聞いた。
「たぶん使えない」
「飛行魔法を使った形跡もない。そもそも、服装から何から妙だ。まあ、今は事情のある一文無しってことにしておくか」
「一文無しというのは正しい」
所持品は、圏外のスマホと家の鍵だけだった。
鍵を見つめていると、元の部屋の玄関が脳裏に浮かぶ。テーブルの上に置いたままの食器。洗濯物。新しい生活を始めたばかりの部屋。
帰る方法は、まだ見つかっていない。
その事実に、ようやく恐怖が追いついてきた。
フリシアが、俺の顔を覗き込む。
「戻りたいですか?」
「戻りたいかどうかも、まだ分からない。戻れるなら戻りたい。でも、今は何もできないからな」
その答えを聞いて、フリシアはしばらく黙っていた。
そして、背筋を伸ばす。
「あなた、私の騎士になりませんか?」
「……騎士?」
「誰かを守る剣です。カルミアのように、私のそばにいてくれる人」
「俺は剣を握ったこともないぞ」
「それでも、今のあなたには行く場所がありません。私たちも、人手が足りない。お互いに、今すぐ必要なものを持っていないのなら、必要なものを一緒に探すことはできます」
まっすぐな言葉だった。
同情で誘っているのではない。俺を役に立つと決めつけてもいない。ただ、空から落ちてきた俺を、ここに置いていく選択肢を考えていないのだ。
「騎士ってのは、剣で戦うだけじゃないんだよな?」
「ええ。見張り、護衛、交渉、荷物運び。剣を使わない仕事のほうが多い日もあります」
カルミアが肩をすくめる。
「だからって、空から落ちてきた兄ちゃんにすぐ任せる仕事じゃねえけどな」
「では、試してみます」
フリシアは、ベッドの脇に置かれた木剣を手に取った。
「あなたが嫌になったら、いつでも断って構いません。私も、あなたが無理だと思ったら断ります」
「ずいぶん正直だな」
「騎士に嘘をつかれるのは困りますから」
俺は木剣を受け取った。
軽いはずなのに、手の中でひどく場違いに感じる。
「俺は自慢じゃないがお気楽主義でね」
木剣を握り直す。
「なるよ。あんたの騎士ってやつに」
「ありがとうございます、オワリ」
その日、俺は異世界で初めて、誰かの名前を呼んだ。
屋敷の中を案内されたのは、昼食のあとだった。
俺が借りることになった部屋は、領主邸の客室の一つだった。窓からは中庭が見える。部屋の隅に小さな机があり、机の上には紙と羽根ペンが置かれていた。
「文字は読めるか?」
カルミアが聞いた。
「まったく読めない」
紙に書かれた文字は、見慣れない形をしている。けれど、会話はなぜか通じる。
「会話はできるのに、文字は無理なのか」
「不思議ですね」
フリシアが紙へ手を置いた。
「会話のほうは、守護宝珠が言葉の意味を補正している可能性があります。文字まで変換する力はないのでしょう」
「つまり、俺の脳内に翻訳機が入っている?」
「翻訳機というものが分かりません」
「俺の国の便利な道具だ」
「その便利な道具が、今のオワリにはないのですね」
フリシアが、机の上のスマホを見た。
「これは?」
「スマートフォン。時計、電話、写真、地図、音楽。いろいろできる」
俺は電源を入れた。
電波は圏外だが、画面は表示される。撮影した写真を開くと、引っ越し前に撮った実家の台所が出た。
フリシアは、写真の中の風景を興味深そうに見た。
「これは、あなたの家ですか?」
「そう。俺が出てきた場所だ」
「帰りたいですか?」
また同じ問いをされた。
「分からない。帰りたいけど、帰る方法がない。だから、今はここでできることをする」
それは強がりだった。
けれど、何もできないと認めるよりは、少しだけ前を向ける気がした。
夕方、フリシアは屋敷の食堂へ俺を招いた。
料理を用意したのはカルミアだった。焼いた肉、野菜の煮込み、固いパン。食材は見慣れないものが多いのに、味付けは不思議と家庭的だった。
「カルミアは騎士なのに、料理もするのか?」
「領主邸の使用人が減ったからな。剣だけ振ってれば飯が出てくる生活じゃねえ」
フリシアが、食前に手を合わせた。
「いただきます」
俺も、つられて手を合わせる。
「いただきます」
カルミアが少し驚いた。
「それもニホンの習慣か?」
「食材や作った人への礼儀みたいなものだ」
「なら、覚えておくか」
カルミアも手を合わせた。
「いただきます」
フリシアが、少し嬉しそうに笑った。
食事のあと、俺は庭で木剣を握った。
「騎士になると言った以上、最低限の姿勢は覚えてもらう」
「いきなり?」
「明日からでもいいが、明日になったら明日で嫌になる」
カルミアは木剣を構えた。
「剣は、相手を殺すためだけの道具じゃねえ。抜く前に、抜いた後のことを考える。振る前に、振った先に誰がいるかを見る」
「ずいぶん道徳的だな」
「剣を振る奴が、それを考えなくなったら、ただの危険な人間だ」
木剣が、俺の手から飛んだ。
「今のは、考える前に振ったからだ」
「考えている間に斬られたら?」
「だから、考えなくても身体が動くまで繰り返す」
「それって結局、三十回負けるまでやるってことか?」
「三十回で済めばいいな」
その夜、俺は新しい部屋のベッドへ横になった。
天蓋の布が、風もないのに少し揺れている。
帰れないかもしれない。
それでも、朝になれば訓練がある。フリシアは領地の書類を読む。カルミアは食事を作る。俺は、まだ何もできない。
何もできないなら、できることを増やせばいい。
俺は、机の上に家の鍵を置いた。
元の世界へ戻るためのものなのか、もう戻れない場所を思い出すためのものなのか、まだ分からない。
眠りへ落ちる直前、廊下の向こうで小さな音がした。
金属が触れ合うような、かすかな音だった。
俺は起き上がり、部屋の扉を少しだけ開けた。廊下の先にある窓辺へ、フリシアが立っている。月明かりを背にしているせいで表情は見えなかったが、首元の守護宝珠だけが青白く光っていた。
「眠れないのか?」
彼女は振り返った。
「オワリこそ。明日は朝から訓練でしょう」
「昼間に寝たからな」
「二度も気を失えば、そうなるかもしれませんね」
フリシアは、宝珠へ指を添えた。
「これは、アンジュ家の直系に伝わる守護宝珠です。持ち主の危険を遠ざけ、魔力の流れを整える。普段は、ただの首飾りに見えます」
「俺が落ちた時、俺まで守ったのは?」
「宝珠が、オワリを敵だと判断しなかったからです。あるいは、私がそう願ったからかもしれません」
「願いで動くなら、ずいぶん人間らしい道具だな」
「父は、道具にも使う人の心が残ると言っていました。私は、迷信だと思っていましたが」
彼女は窓の外へ顔を向けた。
屋敷の下には、暗い村が広がっている。灯りは少なく、遠くで犬が一度だけ鳴いた。
「父が亡くなってから、宝珠が重く感じるのです。以前は、守られていると思っていました。でも今は、父の代わりに私を見張っているような気がします」
「見張ってるんじゃなくて、フリシアが倒れた時に気づけるようにしてるんじゃないか」
「同じことでは?」
「違う。見張られてるなら、逃げられない。守られてるなら、倒れても戻ってこられる」
自分でも、うまく言えているとは思わなかった。
フリシアは、しばらく黙っていた。それから、宝珠を服の内側へ戻した。
「では、オワリが倒れた時は、私が戻します」
「それ、俺が騎士になる話と逆じゃないか?」
「騎士も、倒れることはあります」
「カルミアが聞いたら、俺を倒す前提で訓練を増やしそうだ」
「その時は、私も一緒に頼みます。少しだけ手加減するように」
窓から差す月明かりの中で、彼女が笑った。
俺は、自分の部屋へ戻る前に、廊下の壁へ背を預けた。
帰る場所を失ったから、騎士になる。
それだけではない気がしていた。
フリシアは俺を必要としている。俺もまた、彼女が一人で立ち続けないようにしたいと思い始めている。理由としては、まだ頼りない。けれど、理由はあとから増えていくものなのだろう。
翌朝、カルミアに起こされるまで、俺は久しぶりに深く眠った。




