プロローグ 俺の週末、日常の終末
ピピピ、ピピピ。
目覚まし時計の電子音が、薄暗い部屋の中で何度も跳ね返った。
布団の中から手を伸ばし、枕元を探る。指先が時計を見つけたところで、俺は一度、目を閉じた。
今日は何曜日だったか。
そんなことを考える自分に、少しだけ笑う。高校を卒業して、引っ越しを終えたばかりの春。曜日を気にして動くような予定は、まだ何もなかった。
それでも、目覚ましは鳴る。
生活というものは、予定より先に形だけ整っていく。
「……朝か」
声に出してから、天井を見上げた。
見慣れた天井――ではなかった。
白いクロス。窓から差し込む、見慣れない角度の光。部屋の隅に積まれているはずの段ボールも、壁際に立てかけたままの姿見もない。
代わりにあるのは、木製の梁と、細かな彫刻を施された天蓋だった。
俺は勢いよく身を起こした。
「……どこだ、ここ」
頭が痛いわけではない。夢の中にいるような浮遊感もない。シーツの肌触りも、空気の匂いも、妙に生々しかった。
寝室ではない。
少なくとも、昨日まで暮らしていた一Kの部屋ではない。
そのとき、部屋の隅で人影が動いた。
「起きた……?」
女の子だった。
水色の髪が、朝の光の中で淡く揺れる。整った顔立ち。まだ眠りの残る表情。彼女の瞳は、空の色を閉じ込めたような蒼だった。
ラノベの主人公だったら、ここで美少女が顔を覗き込み、「あなたは選ばれました」などと言うのかもしれない。けれど現実の俺は、異世界転生の経験もなければ、前世で世界を救った記憶もない。
高校を卒業したばかりの十八歳。
黒髪に茶色の瞳。身長は一七五センチほどで、体型は普通。運動不足を気にして少し筋トレをしている程度の、どこにでもいる男だ。
ここへ来る直前の朝を、俺は何度も思い出した。
引っ越しの段ボールを片づけたばかりの部屋。窓の向こうに見える、まだ名前も覚えていない近所の道路。冷蔵庫の中身は少なく、調味料だけが妙に充実していた。
高校を卒業して実家を出る時、母親から電話があった。
『本当に一人で大丈夫?』
『大丈夫だって。近いし、何かあったら連絡する』
『その“何か”が起きたら連絡してね』
『起きないようにする』
『それは無理でしょ』
電話の向こうで笑う声を聞きながら、俺は窓を開けた。春の風は冷たく、けれど実家の窓から入る風とは違う匂いがした。
自分で選んだ部屋。
自分で決めた朝。
そのはずだった。
朝食は、焼いたベーコンに卵を落とし、塩と胡椒を振っただけのものだった。キャベツを刻み、インスタントの味噌汁を作る。見栄えはしないが、誰かに用意してもらう食事ではないことが少し嬉しかった。
スマホで天気を確認しようとした時、画面の右上に圏外の文字が出た。
「家の中で圏外って、どういうことだよ」
再起動しても、窓際へ置いても、電波は戻らなかった。携帯ショップへ持っていくため、俺は皿を流しへ置き、家の鍵を握った。
玄関の扉を開ける。
そこには、廊下も、階段も、外の道路もなかった。
足元が抜けた。
「落ちてる、落ちてる、落ちてるぅぅぅぅ!」
腹の底が浮き、風が耳を叩いた。手に残ったのは、圏外のスマホと家の鍵だけ。
雲の向こうに、空を泳ぐ巨大なトカゲが見えた。遠くには城壁に囲まれた都市。その真下に、水色の髪の少女が立っている。
少女の蒼い瞳と目が合った。
その瞬間、落下の恐怖が一度だけ消えた。
代わりに、茶色の髪をした誰かが、空の端でこちらを見ていた。
気のせいだったのかもしれない。
けれど、あの黒い瞳だけは、今でも夢に出てくる。
昨日までの俺なら、こんな光景を夢だと思っていた。
「大丈夫ですか?」
少女が近づいてくる。
「ああ、まあ……たぶん。ここは病院か?」
「病院、ですか?」
「いや、何でもない。ここはどこだ?」
問いかけたところで、目の前の光景が現実ではないことを思い出した。
朝食を作った。スマホで天気を確認しようとした。家の中なのに圏外だった。携帯ショップへ行くため、玄関の扉を開けた。
その先に、床がなかった。
「俺、落ちたんだよな?」
少女は、困ったように頷いた。
「はい。空から、まっすぐに」
「やっぱりか……」
空から落ちた人間が、無傷で天蓋付きのベッドに寝ている。
その時点で、普通の世界ではない。
「あなたの名前は?」
なぜ最初にそれを聞いたのか、自分でも分からなかった。助けてくれた相手の名前を知りたかったのか、それとも、現実を確かめるために何か固有の言葉が欲しかったのか。
少女は、わずかに目を見開いた。
「私の、ですか?」
「ああ」
「フリシア。フリシア・アンジュです」
アンジュ。
天使という意味を連想してしまう、あまりにも似合いすぎる名前だった。
「……ああ、天使か」
「え?」
「いや、名前にぴったりだと思って」
フリシアの頬が、ほんの少し赤くなる。
けれど、その変化を確かめる前に、俺の意識はまた遠のいた。
最後に見えたのは、水色の髪と蒼い瞳。そして、窓の向こうに広がる、ありえないほど青い空だった。




