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第二十四章 帰る扉、残る剣

戦場の空気が、少しずつ緩んでいく。


ムスカリは、傷を押さえながら立ち上がった。カルミアのもとへ歩く。


「次は、完全な状態で戦う」


「俺はもう若くねえからな。次は酒でも飲みながらにしてくれ」


「断る」


ムスカリの口元に、ごく小さな笑みが浮かんだ。


ロベリアは、王都の記録官へ証言を始めた。

バラウェルが行った非公式の襲撃。偽造書状。食糧倉庫への放火。鉱山の記録を改ざんした可能性。


「ジギタリス卿が、すべてを直接命じたわけではありません」


ロベリアは言った。


「ですが、止めることもできた。彼は、盤上の勝敗を優先した」


王都は、バラウェル領の監査と一時管理を決定した。

ジギタリスは領主の座を失い、裁定が終わるまで王都へ連行されることになった。


「私のゲームは、まだ終わっていない」


連れていかれる前、ジギタリスは俺を見た。


「盤の外から来た駒。君が次にどこへ動くのか、楽しみにしているよぉ」


「俺は駒じゃねえ」


「なら、証明してみたまえ」


彼の声が、遠ざかっていった。


フリシアは、正式なエクセア領主として認められた。


王都から渡された領主印を、彼女は両手で受け取った。


「これで、本当に領主になったのですね」


「最初から領主だったじゃねえか」


カルミアが言う。


「父の跡を継いだだけの者と、自分で人の前に立てる者は違います」


フリシアは、平原の向こうを見た。


「私は、これからも失敗すると思います」


「その時は、俺たちが言う」


カルミアが笑った。


「姫様は、一人で抱え込みすぎだってな」


「姫ではありません。領主です」


「はいはい、領主様」


裁定官は、戦場に残った全員の前で、勝敗を読み上げた。


「エクセア領統治権争奪戦。アンジュ家側の勝利を確認します。フリシア・アンジュを正式な領主として認定し、アドラメレク家の統治権を停止。バラウェル領は王都の監査下に置かれます」


フリシアは、領主印を握ったまま、深く頭を下げた。


「勝った、という実感がありません」


「勝利は、実感より先に手続きとして訪れるものです」


裁定官は記録官へ合図した。


「ただし、勝敗とは別に、非公式襲撃、偽造書状、倉庫放火、鉱山記録の改ざんについては王都が調査します。ロベリアの証言と、ガルラ山で捕らえた仮面兵の装備が証拠になります」


ロベリアは、少し離れた場所で頷いた。


「仮面兵は、バラウェル騎士団の下部部隊です。命令系統の全てを、ジギタリス卿へ結びつけることはできません。ですが、上層部が非公式の行動を知っていたことは、記録から分かるでしょう」


「お前は、ジギタリスを庇っているのか?」


カルミアが尋ねる。


「庇ってはいません。事実を分けているだけです。領主が直接命じたことと、領主が止めなかったことは、同じではない。けれど、どちらも責任から逃げる理由にはなりません」


ムスカリが、王都の記録官へ向き直った。


「鉱山の件も調べてくれ。ゼフィランサス卿の事故の前に、バラウェル側の者が第三坑道へ出入りしていた記録がある」


フリシアの指が、領主印の上で止まった。


「父の事故に、バラウェルが関わっていたのですか?」


「直接、ジギタリス卿が手を下した証拠はない」


ロベリアが答えた。


「ただ、第三坑道で境界鉱の調査が行われていたことは事実です。ゼフィランサス卿は、それを止めようとしていた。坑道の封鎖が破られ、落盤が起きた。誰が最初に危険を作ったのかは、王都が調べるべきでしょう」


フリシアは、一度だけ目を閉じた。


父が事故で亡くなったという事実は変わらない。けれど、何も知らずに死んだのではなく、誰かが隠そうとしたものを止めるために動いていた可能性がある。


それは慰めにならない。だが、父の最後の行動を、ただの不運で終わらせずに済む。


「私が調査を続けても、よいでしょうか?」


「正式な調査は王都が行います。領主としての記録を提出することは認めます」


裁定官は、フリシアの目を見た。


「ただし、第三坑道の扉を開けないこと。古い境界設備は、領主の判断だけで扱えるものではありません」


「分かっています」


フリシアは、俺たちへ視線を向けた。


「私は、知らないことを怖がって、記録を閉じる領主にはなりません。でも、知らないものを急いで開く領主にもなりません」


クロユリが、小さく頷いた。


「封印を点検して、王都へ報告する。今は、それが一番安全ッス」


「決まりやな」


リナリアが拳を鳴らした。


「勝った後にやることが、もう山ほどある」


「領主の仕事は、戦いの後に始まると言いましたから」


フリシアは、ようやく領主印を胸元へ収めた。


セウブケスへ戻ったあと、俺はリナリアの店へ短刀を見せに行った。


刀身には細い亀裂が入っていたが、折れてはいない。


「ほんまに、折れへんかったな」


リナリアは刃を光へ透かした。


「オワリが、ちゃんと使ったからや」


「作ったのはお前だ」


「作っただけでは、武器は剣にならへん。使う人がおって、守りたいものがあって、初めて剣になる」


クロユリは、俺の短刀の鞘から依代を取り出した。


「火の石は、もう空っぽッス」


「一度きりだったからな」


「でも、奥の手はまた作れるッス。材料を集めてくれるなら」


「またガルラ山へ行くのか?」


「今度は、もっと安全な採取方法を考えるッス」


ネモとフィラは、屋敷の中で部屋を選んでいた。


「お姉ちゃん、私はこっちがいい」


「隣じゃなくていいの?」


「隣にいることと、同じ部屋にいることは違うから」


ネモは少し考えたあと、壁を見た。


「じゃあ、壁を壊して行き来できるようにしよう」


「それはダメだよ、ネモ姉」


二人の声が、屋敷の中へ響く。


戦いの後の三日間は、勝利を祝う暇もないほど忙しかった。


カルミアの肩の傷は深くなかったが、医師から剣を握るなと言われた。本人は「握れる」と言い張り、フリシアは「領主命令です」と包帯を巻き直した。


「姫様、俺は騎士だぞ」


「領主の命令に従う騎士です」


「オワリ、聞いたか? 俺の立場が弱くなった」


「最初から、フリシアの方が偉いだろ」


「そこを気合いで何とかするのが騎士だ」


「気合いで傷は塞がらないッス」


クロユリが薬瓶を持って現れた。


「これは、痛みを軽くする薬ッス。飲みすぎると眠くなる」


「なら、眠らないように酒で打ち消すか」


「カルミアは、治療の意味を分かっているのか?」


リナリアが呆れ、ネモとフィラが笑った。


屋敷は、以前より騒がしくなった。


クロユリの実験室からは、日に一度は変な音がする。リナリアの鍛冶場からは、金属を打つ音が響く。ネモは庭の訓練用人形を一日で壊し、フィラが黙って修理する。カルミアは怪我人のくせに、食事の味を気にして台所へ立とうとする。


フリシアは、王都へ提出する報告書を書きながら、村々から届く要望を一つずつ確認していた。


橋の修理。食糧庫の再建。鉱山の安全調査。放火で失われた薬の補充。決戦に勝ったからといって、焼けた倉庫が元へ戻るわけではない。領民の不安が、勝利の声だけで消えるわけでもない。


「フリシア、少し休め」


俺が言うと、彼女はペンを止めた。


「今度は、私が書類を読まないと、オワリが怒るのですか?」


「領主が倒れると、俺たちの騎士の仕事が増える」


「仕事が増えるのが嫌なのですね」


「それもある。でも、フリシアが倒れるのが嫌だ」


彼女は、しばらく俺を見た。


「その言葉は、領主として受け取るべきですか。それとも、フゥとして?」


「どっちでもいい。必要な方で受け取れ」


フリシアは、机の上の書類を一枚だけ伏せた。


「では、今はフゥとして受け取ります」


それから彼女は、少しだけ背もたれへ身体を預けた。


勝利の後に初めて、領主の肩から重さが抜けたように見えた。


四日目、俺たちはセウブケスの街へ出た。


決戦の勝者が大樹街へ戻ったという噂は、すでに広がっていた。店先で声をかけられ、村から来た商人に頭を下げられ、知らない子どもから「星鉄の剣を見せて」と頼まれた。


リナリアは、短刀を抜く代わりに、柄だけを見せた。


「刃は危ないから、触ったらあかんで」


「でも、オワリは触ってる」


「オワリは、作った本人から許可をもらっとる」


「じゃあ、私も作って」


「まずは木の棒からや」


ネモが子どもたちに囲まれ、フィラがその背後から、転びそうな子を見えない刃の風圧で支えた。クロユリは屋台の瓶を勝手に分析しようとして、フリシアに止められた。


カルミアは片手で荷物を持ち、もう片方の手で「怪我人だから働くな」と言われ続けていた。


俺は、その様子を眺めながら、勝利という言葉の形が少しずつ変わっていくのを感じた。


平原で旗を取ったことだけが勝利ではない。

帰ってこられる場所が残り、そこへ誰かがまた人を連れてくる。戦う前より、少しだけ多くの人間が同じ場所で笑っている。


それが、フリシアの勝ち方なのだと思った。


街の中央で、フリシアが足を止めた。


「オワリ」


「どうした?」


「初めて会った時、私はあなたへ騎士になりませんかと頼みました」


「覚えてる」


「あの時は、誰かが隣にいてくれれば、それで十分だと思っていました。でも今は、隣にいる人が、それぞれ何を選んだのかを見なければならないと思っています」


「だから、ネモとフィラを別々に見たのか」


「はい。カルミアも、リナリアも、クロユリも。オワリも」


「俺は、何を選んだ?」


彼女は、少しだけ困ったように笑った。


「帰る場所を、二つに増やしたのではないでしょうか」


胸の奥に、あの日の玄関が浮かんだ。


家の鍵。止まった時計。母親の声。


そして、大樹の下で待っている人たち。


「まだ、元の世界を捨てたつもりはない」


「分かっています」


「でも、ここを途中で投げ出すつもりもない」


「それも、分かっています」


フリシアは、街の空を見上げた。


「だから、サルビアさんが待っているのでしょう」


俺は最上層の飛行場へ目を向けた。


その声を聞きながら、俺は飛行場へ向かった。


サルビアが待っていた。


「終わったね」


「ああ。領地争奪戦は」


「扉が開いている」


空中に、細い裂け目があった。

裂け目の向こうには、俺が一人暮らしを始めた部屋が見える。机。洗い忘れた皿。玄関。あの日の朝の続き。


スマホの時計は、八時十八分で止まっている。


「今なら帰れる。あなたの世界では、朝の続きになる」


「戻れば、何もなかったことになるのか?」


「こちら側で過ごした時間は、あなたの世界ではほとんど進まない」


「フリシアたちは?」


「あなたが選んだ世界に残る」


俺は、扉の向こうを見た。


一人暮らしを始めたばかりの部屋。

誰もいない。誰にも頼まれていない。これから何をするか、何も決まっていない。


こちら側には、帰る場所を待っている人たちがいる。


「今は、帰らない」


「今は?」


「いつか帰るかもしれない。帰らないかもしれない。でも、俺はフリシアの騎士を引き受けた。まだ一つも、途中で投げ出してねえんだ」


サルビアは頷いた。


「なら、扉を閉じる」


「また開けられるか?」


「あなたが、自分で開けられるようになるまで待つ」


裂け目が閉じる。


スマホの画面から、圏外の文字が消えた。


一瞬だけ、見たことのない通知が届いた。


『新しい場所を見つけました』


それだけで、画面は暗くなった。


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