エピローグ 終わった日常、始まる朝
翌朝。
俺は、アンジュ家の台所でベーコンを焼いていた。
「オワリ、朝から何を作っているのですか?」
「ベーコンエッグ。俺の故郷の定番だ」
「味噌汁もありますか?」
「インスタントならな」
フリシアが笑った。
カルミアは椅子に座り、リナリアは焼けたベーコンを狙い、クロユリは鍋の中を覗き、ネモとフィラは隣の部屋で言い合いをしている。
窓の外では、屋敷の防御用ゴーレムが庭を歩いていた。遠くの空では、小型ドラゴンが飛行船を引いている。
俺のスマホは、またこの世界の電波を拾わず、画面には圏外の文字が戻っていた。
けれど、もうそれを故障とは思わなかった。
「オワリ」
フリシアが、食卓の向かいから俺を見る。
「今日も、領地を見て回りたいのですが。騎士として付き合ってくれますか?」
「もちろん。俺はフリシアの剣だからな」
「剣だけではなく、盾にもなると言っていましたね」
「ああ。必要なら、鍋の蓋にもなる」
「それは騎士として、どうなのでしょう」
みんなが笑った。
食事を終えると、フリシアは領主印を身につけ、玄関脇の帳面を開いた。
「今日は、東の村へ行きます。橋の仮修繕が終わったので、通行の確認をしたいのです」
「朝飯を食べてすぐ仕事か?」
「領主の仕事は、朝飯の後に始まります」
「じゃあ、まず食器を片づけよう」
俺が皿を重ねると、ネモが大皿を抱え、フィラが割れないようにその手元を見張った。カルミアは怪我が治るまで待てと言われ、椅子から動こうとするたびにフリシアに止められる。クロユリは新しい依代を試すと言い、リナリアは鍛冶場の火を消した。
屋敷の外へ出る前、フリシアが俺の隣へ立った。
「オワリ」
「なに?」
「昨日の約束を、まだ覚えていますか?」
俺は、少しだけ周囲を見た。カルミアたちは先に馬車へ向かっている。
「……フゥ」
彼女の蒼い瞳が、朝の光を受けて揺れた。
「はい」
それだけで、勝った日よりも大きなものを受け取った気がした。
フリシアは領主として先を歩き、俺は騎士としてその半歩後ろへ続く。
けれど、彼女が振り返った時には、俺はもう隣へ並んでいた。
日常は終わった。
けれど、終末ではなかった。
俺は、少しだけ壊れたスマホをポケットへ入れ、玄関へ向かう。
「行ってきます」
扉を開ける。
今度、足元に地面はあった。
その先には、俺が選んだ異世界が続いている。
門の外では、東の村へ向かう馬車が待っていた。
フリシアが乗り込み、カルミアが御者席へ座る。リナリアは道具箱を抱え、クロユリは新しい依代の箱を抱え、ネモとフィラはそれぞれ別の側から荷台へ乗った。
「全員、乗りましたか?」
フリシアが確認する。
「カルミアは、怪我が治るまで剣を抜かないこと」
「領主様、それは今日も言うのか?」
「治るまで毎日言います」
「なら、今日の俺は御者だ」
「御者も無理をしてはいけません」
「俺は何をすればいいんだ?」
「隣にいてください」
フリシアが、俺を見る。
その言葉は、最初に聞いた騎士の誘いよりも短かった。
けれど、今の俺には、その意味が分かる。
剣を抜くことだけが騎士ではない。
領主の隣で、彼女が自分の声を失わないようにすること。仲間が自分の選択を忘れないようにすること。帰る場所へ戻れるように、道を覚えること。
俺は、スマホをポケットへ入れた。
画面は暗い。時計は八時十八分で止まっている。
それでも、もう止まった時間だとは思わなかった。
いつか動くかもしれない。動かないかもしれない。
そのどちらを選ぶかは、これからの俺が決める。
俺は今日も、ちょっと異世界へ行ってくる。




