第二十三章 終末のゲーム
ジギタリスの剣は、貴族の飾り剣ではなかった。
柄は細く、刃は長い。軽く見えるのに、構えには隙がない。彼の高い声と同じように軽快な剣でありながら、一振りごとに相手を詰ませる意志があった。
ジギタリスは、剣先で地面を三度叩いた。
乾いた音に合わせるように、彼の足元から赤、青、白の小さな札が滑り出てくる。札にはそれぞれ、駒の形をした印が描かれていた。戦場へ持ち込んだ道具なのか、あらかじめ土へ埋めていたものなのかは分からない。けれど、彼が指を鳴らすと、札の周囲に細い光の線が走り、平原の一部が盤面のように区切られた。
「公式の規則じゃない。単なる私の癖だよぉ」
ジギタリスは、俺たちの視線を楽しそうに受け止めた。
「赤は攻める場所。青は守る場所。白は、まだ誰のものでもない場所。人間は自由に動いているつもりでも、地面に意味をつければ、自然とその意味に従う。面白いだろう?」
「人を札と同じに扱うな」
カルミアが低く言った。
「同じじゃないから、面白いんだよぉ。駒なら予想どおりに動く。人間は、失うものがあると予想を裏切る」
言い終わるより早く、ジギタリスの姿が消えた。
正確には、消えたように見えただけだった。赤い札の上にいた彼が、次の瞬間には青い札の外側へ踏み込んでいる。線に沿って動いたのではない。線を意識させておきながら、その境目を踏まないことで、こちらの判断を一拍遅らせたのだ。
「オワリ、下がって!」
フリシアの声が飛ぶ。
俺は反射的に身を沈めた。頭上を刃が通り過ぎ、背後の旗竿を吊っていた縄が切れる。青い旗が傾き、裁定官の記録台へ倒れかかった。
フィラの見えない刃が縄の残りを切り、旗は地面へ落ちる前に方向を変えた。ネモが大剣の腹でそれを受け止める。
「旗は、まだ落とさないよ」
「フィラ、今のは私が受けた!」
「受ける前に切っただけです、ネモ姉」
二人の短いやり取りの間に、ジギタリスは次の札へ移っていた。
彼は俺を倒そうとしているのではない。俺を一歩ずつ動かし、フリシアから離し、旗の周囲にいる仲間の配置を崩そうとしている。
「領主を狙わないのか?」
俺が叫ぶと、ジギタリスは剣を返しながら笑った。
「最初に王を取るのは、素人のやり方だよぉ。王の前にいる駒を動かせば、王は自分から隙を見せる」
「だから、俺たちは駒じゃないって言ってんだろ!」
「その言葉を、最後まで守れるか試しているのさ」
カルミアが、俺とジギタリスの間へ割り込んだ。
「こいつの相手は俺がする。フリシア、旗の周囲を見ろ」
「はい!」
カルミアの剣とジギタリスの剣が、ほとんど同時に動いた。速さだけならジギタリスが上だった。けれど、カルミアは速さを競わず、相手の踏み込みたい場所を先に潰していく。
ジギタリスの足が、白い札の手前で止まった。
「白を踏めば、誰の領域でもない。そこで一度、決め直さなければならない」
「講釈はいい。お前の剣は、仲間のいない場所でしか自由に振れない」
カルミアが押し込む。ジギタリスは笑いながら退いたが、その笑顔の奥で計算が一つ崩れたのが分かった。
彼の戦い方は、相手の選択肢を減らしていくものだ。なら、こちらは選択肢を増やすしかない。誰か一人が正解を出すのではなく、失敗しても別の誰かが次の手を作れるようにする。
「フリシア!」
「分かっています!」
彼女の視線が、俺、カルミア、ネモ、フィラ、リナリア、クロユリを順番に捉えた。
姿送りは、ただ人の形を作る魔法ではない。彼女が認識した関係を、一瞬だけ戦場へ写し取る力だ。ならば、彼女が俺たちを見ている限り、俺たちの間にある合図もまた、敵の予想を越える可能性がある。
フリシアの瞳が青く光った。
「フリシア・アンジュ。君の父君は、領地を人の手で守ろうとした。だから、事故で死んだ」
「父の死を、あなたの勝ち筋に使わないでください」
「私は違う。人を駒として配置し、勝てる場所へ置く。勝敗が決まらなければ、命はもっと無駄になる。ゲームには、終わりがあるから面白いんだよぉ」
「終わりを決めるのは、あなたではありません」
フリシアが、姿送りを使った。
彼女自身の写しが三枚、平原を走る。
一本は領主旗へ。一本は俺のもとへ。一本はジギタリスの側面へ。
ジギタリスは、迷わず本物のフリシアを見抜いた。
「写しは呼吸をしない。足音の間隔も違う。魔法の癖も、本人とは異なる」
彼の剣が走る。
フリシアの写しが一枚、光となって消えた。
「姿送りは、戦うための魔法ではありません」
フリシアは下がらなかった。
「ですが、私が誰を守りたいと思っているかは、写しにも映ります」
消えたはずの写しが、ジギタリスの視界の端へ現れた。
完全なコピーではない。フリシアが認識している人物の行動を、一瞬だけなぞる姿だ。
三枚の写しが、俺、カルミア、ネモの姿を取った。
「オワリ、右!」
俺の姿をした写しが叫ぶ。
ジギタリスの視線がずれた。
俺は短刀を抜いた。
「風よ、滑れ」
刃の周囲に風がまとわりつく。魔力はない。クロユリの依代と、リナリアの星鉄と、俺が覚えた短い言葉だけだ。
それでも、刃は一瞬だけ軽くなった。
ジギタリスの剣と短刀がぶつかる。
重い。
剣を握って数か月の俺と、長年剣を握ってきた領主。普通なら、勝負になるはずがない。
「仲間の力を借りなければ、何もできないのかい?」
「ああ。だから、何度でも借りる」
その答えに、ジギタリスは初めて笑わなかった。
彼は俺の短刀ではなく、俺の足元を見た。風の石を仕込んだ鞘。土の印。俺がさっきまでどこを踏み、どこへ動こうとしているのかを、地面に残った痕跡から読もうとしている。
「君は、借りた力を自分の技だと思い始めている」
「借りた力を、返すつもりはない」
「返さないものは、いつか持ち主に取り戻される」
ジギタリスは、剣の柄で赤い札を弾いた。
札が砕け、地面の中から細い針が跳ね上がる。
俺は一歩後ろへ下がった。リナリアに教わった、攻撃が届く場所から外れる足運び。けれど、下がった先には青い札があった。札の上へ足を置いた瞬間、地面が滑り、身体の中心が崩れる。
「オワリ!」
フリシアの写しが、俺の腕を引いた。
写しの手は、ほんの一瞬しか俺を支えられない。それでも、その一瞬があれば、足を戻せる。
ジギタリスの剣が、写しの胸を貫いた。
光の粒が飛び散る。
「姿送りは、誰かを守ろうとした瞬間に動きが変わる。本人の意志ではなく、認識した相手の関係に引かれる。面白いが、予測しやすいねぇ」
「予測できるなら、外してみろ!」
俺は、ジギタリスの左肩へ踏み込んだ。
狙ったのは肩ではない。彼の後ろにある、白い札だった。短刀の背で札を叩くと、仕掛けが弾け、薄い風が地面を走る。
ジギタリスの外套が翻った。
彼は風を避けるために身体を捻った。その動きの先へ、フィラの見えざる刀が走る。
ジギタリスは剣を返して刃を弾いたが、完全には避けきれず、頬に赤い線が入った。
「私の駒を、私の盤で使うのかい?」
「盤は誰のものでもないッス」
クロユリが、泥になった地面へ新しい金属板を投げた。
「使えるものを見つけた人が、使うッス!」
板が光り、土の下から根のような線が伸びる。ジギタリスの足首へ絡みつく前に、彼は剣で線を断ち切った。
「惜しい」
「惜しいで終わらせないッスよ」
ネモが大剣を振り下ろした。
ジギタリスは受けずに横へ跳んだ。大剣が地面へめり込み、ネモの両手が一瞬だけ止まる。
そこへ、リナリアが入った。
「止まったら、次の足を置かれるで!」
拳がネモの大剣の柄を叩く。柄が地面から抜け、ネモの身体がその勢いで前へ流れた。
ジギタリスの剣先が、ネモの喉へ向かう。
俺は短刀を構えた。
一人で受ければ、また肩を斬られる。なら、受ける場所を一人で作らなければいい。
「フィラ、左!」
「分かっています」
見えない刃が、ジギタリスの剣の軌道をほんの少しだけ変えた。そこへ俺が短刀を差し込む。完全には止められない。刃が俺の袖を裂き、布が赤く染まった。
それでも、ネモは助かった。
ジギタリスが刃を返した。
俺の肩が裂け、血が飛ぶ。
ネモの大剣が割り込んだ。
「オワリは、私たちの仲間だよ!」
ジギタリスは、ネモの剣を受け流した。フィラの見えざる刀が追う。彼は二本の攻撃を同時に避け、ネモの肩へ刃を返した。
リナリアが横から入る。
「うちの仲間に、勝手に触らんといてな」
拳が、ジギタリスの手首へ当たった。
剣が弾かれる。
「武器を使わずに、剣士へ近づくとは」
「うちの武器は、身体や」
リナリアが、さらに一歩踏み込む。
ジギタリスは、彼女の重心を読む前に地面へ小さな金属片を投げた。
火花が散り、リナリアの足元が爆ぜる。
「ジギタリス、仕込みまで使うのか!」
「戦場に置いたものは、すべて私の駒だよぉ」
クロユリが、地面へ手を置いた。
「それなら、仕込んだものを使うのはこっちも同じッス!」
土の壁が、俺たちとジギタリスの間に立つ。
彼の火花が壁を崩す。しかし、その下には水の膜が仕込まれていた。土が泥へ変わり、ジギタリスの足元が滑る。
俺は、短刀の鞘へ手を伸ばした。
風の石。
水の石。
土の石。
そして、クロユリが最後に埋め込んだ火の依代。
「火よ、弾けろ」
刃の根元で、小さな火花が弾けた。
大きな炎ではない。
けれど、ジギタリスの瞳が一瞬だけ閉じるには十分だった。
「今だ、オワリ!」
カルミアが叫ぶ。
傷を押さえたまま、彼は立っていた。
その声は、ムスカリとの戦いで鍛えた俺の判断を、最後に押し出した。
俺は、ジギタリスの剣先と、彼の背後にある旗を交互に見た。
剣士としては、彼の方が上だ。正面から倒すことはできない。けれど、領主旗へ届く道を作ることなら、俺一人でも考えられる。
カルミアが、傷を押さえたまま左側へ剣を伸ばした。
「オワリ、あいつは右足へ体重を置いた。次に左へ切り返す」
「分かるのか?」
「分かるんじゃねえ。長く見てきた奴は、そういう癖が残る」
「なら、俺が右へ誘導する」
「誘導しすぎるな。ジギタリスは、誘導されていると思わせて逆に置いてくる」
「難しいな!」
「難しいから、仲間に言え」
カルミアの言葉が、戦場の風へ混ざった。
「リナリア、右の札を壊せ。クロユリ、足元を固めろ。ネモとフィラは旗の影を作れ。フリシアは本物を隠せ」
命令ではなく、役割の確認だった。
リナリアが赤い札を拳で砕く。クロユリが土の依代を起動し、ジギタリスの周囲だけ地面の硬さを変える。ネモが大剣を横へ振り、フィラの見えない刃がその死角を埋める。
フリシアは、二枚の姿送りを俺の前へ走らせた。
本物の彼女は、領主旗から離れていない。けれど、ジギタリスには三人とも同じ距離にいるように見える。
「君は、私の姿を隠しているつもりかい?」
ジギタリスが、フリシアへ向き直った。
「違います」
フリシアは、旗の布を握りながら答えた。
「あなたが、誰を本物だと思うかを、こちらで選んでいるだけです」
「それは、ゲームのルール違反だよぉ」
「ルールには、姿送りを使ってはいけないとは書かれていません」
「君は、本当に領主らしくなった」
ジギタリスが、剣を低く構える。
彼が選んだのは、俺たちの中で一番弱い俺ではなかった。
フリシアだった。
彼は、中心を折れば勝てると考えた。
フリシアが姿送りを使う。
二人のフリシアが左右へ散り、三人目が正面に残る。
ジギタリスは、正面のフリシアへ斬りかかった。
俺が、その刃を受けた。
両腕が痺れる。
短刀の刀身に、細い亀裂が入った。
「オワリ!」
「大丈夫だ!」
大丈夫ではない。
このままでは、次の一撃で短刀が折れる。
俺は、柄を握り直した。
風は、刃を滑らせる。
水は、形を写す。
土は、足を止める。
火は、一瞬だけ目を奪う。
リナリアが作った星鉄。
クロユリの仕込み。
フリシアの姿送り。
カルミアの剣。
ネモとフィラの連携。
全部が、一つの動きへ重なった。
最初に動いたのは、フリシアの写しだった。
二人の写しが同時にジギタリスへ駆け寄り、片方は俺の姿、もう片方はカルミアの姿へ変わる。完全な人間ではない。けれど、彼女が認識した俺たちの癖を、ほんの一瞬だけ再現できる。
俺の姿をした写しが、右足を少しだけ引いた。
ジギタリスの視線が、そこへ吸われる。
カルミアの姿をした写しが、剣を低く構えた。
それは、カルミアがムスカリと戦った時の構えだった。ジギタリスは、戦場で見た動きを覚えている。けれど、写しがどこまで本物を再現できるかは知らない。
彼は、カルミアの写しを本物だと判断し、先に潰そうとした。
「そこです!」
フリシアが叫ぶ。
ネモが大剣を横へ振った。ジギタリスは跳び、フィラの見えざる刀を避けるために空中で身体を捻る。着地点へリナリアが踏み込んだ。
「星走武――流し!」
拳ではなく、肩と背中で相手の落下の勢いを受ける。リナリアは押し潰される寸前に身体を回し、ジギタリスの重心だけを旗の方向へ流した。
「人の力を、勝手に使わないでくれるかい?」
「勝手やない。貸してもろたんや」
「貸した覚えはないよぉ」
「なら、返す時に文句を言い」
リナリアが離れた瞬間、クロユリの土の仕込みが起動した。
ジギタリスの右足の下だけ、地面が沈む。完全に止めることはできない。彼は剣を地面へ突き立て、柄を支点にして身体を引き上げた。
「これほど仕込んで、まだ私を倒せないのかい?」
「倒す仕込みじゃないッス」
クロユリが眼鏡の奥で目を細める。
「選ぶ場所を、一つ減らす仕込みッス」
ジギタリスが立てる場所は、緑の旗の前か、中央の白い札の上か、俺たちの間だけになった。
彼は緑の旗を守るため、中央へ下がる。
その退路には、フィラの刃がある。避ければネモの大剣。受ければリナリアの拳。剣で返せば、カルミアが残した呼吸の癖を俺が読む。
けれど、ジギタリスはそのすべてを知った上で、あえて中央へ進んだ。
「私の負け筋を、皆で作っているつもりかい?」
「負け筋じゃない」
俺は、短刀を握り直した。
「フリシアが勝つ道を作ってる」
彼の緑の瞳が、初めてフリシアへ向いた。
「君は、彼らを駒として使っているのかい?」
「いいえ」
フリシアは、写しの一人を消した。
「皆さんが、自分で選んだ場所へ動いているだけです。私は、その選択が重ならないように、道を作っています」
「それを、盤と呼ばずに何と呼ぶ?」
「領地です。人が暮らし、帰ってくる場所です」
フリシアが、領主旗の布を強く握った。
「勝敗のために切り分ける盤ではありません」
ジギタリスの剣が、わずかに下がった。
その一瞬を逃さない。
「水よ、写せ」
短刀の周囲に薄い水膜が広がった。
刃が二重に見える。ジギタリスは本物の軌道を読むため、視線を落とした。
「土よ、止まれ」
彼の踵が、わずかに沈んだ。
「風よ、返せ!」
受けた剣の力を、短刀の側面で流す。
ジギタリスの剣が、俺の横をすり抜けた。
それは、攻撃ではなかった。
俺は彼の身体ではなく、背後の緑の領主旗へ短刀を振った。
星鉄の刃が、旗竿の根元を断つ。
緑の旗が、空へ舞った。
「フゥ、受け取れ!」
フリシアの姿送りが、旗を受け取った。
本物のフリシアが、ジギタリスの前へ立つ。
「あなたの領主旗は、私が預かります」
「旗を取っただけで、勝ったつもりかい?」
ジギタリスは最後の一撃を放った。
今度は、俺にも見えた。
彼の剣は速い。けれど、迷っている。
自分が王なのか、駒なのか。旗を失ったあとも、ゲームを続けたいのか。
俺は一歩、前へ出た。
短刀で刃を受け、鞘の先で相手の柄を押さえる。リナリアから教わった星走武で、相手の重さを流す。カルミアから教わった、呼吸を見る目で、次の一撃を読む。
「終末返し!」
短刀が、ジギタリスの剣を地面へ落とした。
刃は、彼の首ではなく、手の横で止まった。
ジギタリスは、しばらく何も言わなかった。
フリシアが領主旗を裁定官へ差し出す。
「ジギタリス卿。降伏しますか?」
彼は空を見上げた。
緑の旗が、風の中で揺れている。
「……ゲームオーバー、ということか」
「いいえ」
フリシアは静かに答えた。
「これは、あなたが終わる話ではありません。あなたが、次に何を選ぶかの話です」
ジギタリスは、喉の奥で笑った。
「君は、つまらないほど真面目だねぇ」
「よく言われます」
「なら、認めよう。私の負けだ」
彼は両手を上げた。
「ジギタリス卿、降伏を確認。領地争奪戦、終了」
遠くで、鐘が三つ鳴った。




