第十二章 領主の仕事と、三枚の姿
屋敷へ戻ると、フリシアは父親の帳簿をすべて机へ並べた。
「仲間を集めるだけでは、領地争奪戦に勝てません」
帳簿には、鉱山の採掘量、街道の修繕費、村ごとの税、王都への納入記録が並んでいる。
「父の死後、数字がいくつか合いません」
「横領か?」
「まだ分かりません。ですが、鉱山の事故が起きる前から、採掘量が不自然に減っている。誰かが記録を削っていた可能性があります」
「ジギタリスがやったのか?」
「証拠はありません。証拠がないことを、誰かのせいにはできません」
フリシアは、帳簿を閉じた。
「父の死を、領地争いの道具にはしたくない」
「でも、調べる必要はある」
「はい。領主として、ではなく、娘としても」
彼女は、セウブケスから戻ったリナリアとクロユリへ、屋敷の部屋を割り当てた。
クロユリは小さな実験室を希望し、リナリアは鍛冶場を希望した。
「フリシアっちのお屋敷、思ったより広いッス」
「使っていない部屋が多いだけです」
「じゃあ、使うッス」
クロユリは、屋敷の壁へ金属板を貼り始めた。
侵入者が触れれば風が鳴る板。踏めば足元を固める土の仕掛け。水の膜で足跡を残す廊下。火事になった時だけ煙を外へ逃がす管。
「屋敷が要塞になっていくな」
「仲間が増えたなら、守る場所も増やすッス」
リナリアは、カルミアから預かった折れた剣を眺めていた。
「この剣、直せるか?」
「直すだけならできる。けど、カルミアの剣は癖が強い。持ち主の体に合わせて削れてるから、新品みたいにはできへん」
「なら、癖ごと直してくれ」
カルミアが剣を渡す。
フリシアは、姿送りの練習を始めた。
最初は一枚の写しを作るだけで息が上がった。次に、二枚。三枚目を維持するころには、顔色が悪くなる。
「無理をするな」
俺が言うと、彼女は首を振った。
「無理をしないと、できないこともあります」
「でも、倒れたら意味がない」
「オワリは、私のことを心配しすぎです」
「そりゃ、俺の主だからな」
「それだけですか?」
問いの意味が分からず、俺は黙った。
フリシアは、少しだけ笑う。
「いつか、聞かせてくださいね」
クロユリは俺に、簡単な言の葉を教えた。
「オワリは魔力を持ってないッス。大きな火を出したり、遠くへ風を飛ばしたりはできない。でも、仕込まれた依代に短い命令を与えることはできるッス」
俺は、リナリアの短刀の鞘へ小さな石を埋め込んだ。
風の石。水の石。土の石。
「言葉は、短くていい。風よ、滑れ。水よ、写せ。土よ、止まれ」
「魔法みたいだな」
「魔法ではないッス。借り物の力ッス」
「借り物でも、使えるなら十分だ」
窓の外で、夕暮れの風が木々を揺らした。
俺は、元の世界で何も持っていなかった。
この世界でも、魔法の才能はない。
それでも、今は剣がある。
守りたいと思える人がいる。
そして、俺に力を貸してくれる仲間がいる。
その事実を、少しずつ身体へ馴染ませていった。
ある朝、セウブケスから商人が訪ねてきた。
鉱山から運ばれる鉱石の量が減り、街の鍛冶屋が材料不足に陥っている。村へ続く道が荒れ、魔法馬車の便も遅れている。領主争いのせいで、職人たちが次の月の契約をためらっている。
「私に、何ができますか?」
フリシアが商人へ尋ねた。
商人は、領主がそんな質問をするとは思わなかったらしく、言葉に詰まった。
「採掘量を戻す命令を出すことはできます。でも、それだけでは働く人の不安は消えません」
フリシアは、机の上に三つの選択肢を書いた。
鉱山の安全確認。
街道の仮修繕。
領主争いの期間中、商人が被った損失の一部補償。
「三つすべては、今の財源では難しい」
「では、優先順位を決めます」
彼女は、鉱山の安全確認を最初に選んだ。
「人が死ぬ場所を直さずに、採掘量だけを戻すことはできません。次に、街道。物資が動かなければ、補償も支援も届かない。最後に、商人の損失については、王都へ申請します」
商人は、長く考えたあと、頭を下げた。
「フリシア様。お父上とは、ずいぶん違いますな」
「父なら、もっと早く決めたでしょう」
「それでも、今の決め方は悪くありません」
フリシアは、商人が帰ったあとも、書類を見ていた。
「今の判断で、正しかったでしょうか」
「正しいかどうかは、後にならないと分からない」
「オワリは、すぐに答えを出さないのですね」
「俺は領主じゃないからな。間違えても、地図が変わるほどの影響はない」
「だからこそ、言ってほしいのです」
フリシアは、俺の方を見た。
「私が、誰かの期待をなぞっているだけなら」
「分かった。その時は、変だと言う」
「今でも十分、変だと言われています」
「俺の言う変は、少し違う」
その翌日、フリシアは三つの村から同時に届いた相談を処理するため、姿送りを使った。
本物は書庫で鉱山の記録を読み、写しの一人は東の村の代表と話し、もう一人は街道の修繕を頼みに来た職人へ応対する。三枚目は、屋敷の門前で近隣の商人を待つ役だ。
「本当に、三人とも同じように話せるのか?」
「複雑な交渉はできません。私がすでに決めた内容を、決めた言葉で伝えるだけです」
フリシアは、書類へ目を落としながら答えた。
「そのためには、先に私が内容を決めなければなりません」
「分身がいるから楽になると思ったら、分身を出す前の仕事が増えるんだな」
「領主は、楽をするために姿を増やすのではありません。届く範囲を広げるために使います」
東の村から来た男が、屋敷の広間で頭を下げた。
「水路の修理を先にしてほしい。道が悪くても、しばらくは別の道を使える。でも水が止まれば、畑が死ぬ」
同じ顔をしたフリシアの写しが、門前で商人へ答える。
「鉱山の道を優先します。水路の修理は、村の人手と材料を確認してから――」
「待て、そっちの写しは違う書類を持っている」
クロユリが気づいた。
写しは、フリシアが認識している範囲で行動する。けれど、同時に別の場所で新しい判断が発生すると、それを取り込めない。
本物のフリシアが、書庫から走ってきた。
「すみません。水路を先にします。街道は、商人の荷車が通れる最低限の補修だけに変更してください」
「本物が来たぞ」
「本物と言わないでください。写しにも聞こえます」
写しの三人が、一斉に首を傾げた。
俺は、思わず笑ってしまった。
「フリシア、今、自分が四人いるぞ」
「笑いごとではありません」
「でも、こういう失敗は必要だろ」
「なぜですか?」
「できることと、できないことが分かるから。全部できると思い込むより、ずっと領主らしい」
フリシアは、写しを一枚ずつ消した。
「姿送りは、私の代わりではない。私が決めたことを、遠くへ運ぶための手段。決める仕事まで預けてはいけないのですね」
「そういうこと」
「では、決めるための時間を、誰かに守ってもらわなければ」
彼女は、俺たちへ向き直った。
「私は一人で領主になろうとしていました。父の死後、誰にも判断を任せてはいけないと思っていた。でも、任せることと、放り出すことは違います」
カルミアが、腕を組んだ。
「やっと気づいたか」
「気づくのが遅くて、すみません」
「遅くても、戦う前なら間に合う」
フリシアは、三枚の写しを見た。
「では、これからは私が決める時間を、皆さんに作ってもらいます」
姿送りは、人数を増やす魔法ではない。
一人の意志を、遠くへ届けるための鏡だ。
俺たちは、その鏡が割れないように、屋敷と領地を守る必要があった。
屋敷の防御設備が完成した夜、クロユリは全員を庭へ集めた。
「これから、侵入者の想定訓練をするッス」
「侵入者役は誰だ?」
「オワリッス」
「俺かよ」
「自分の屋敷に入るつもりで、罠にかかってください」
結果から言うと、俺は三分で五つの罠にかかった。
土に足を取られ、水の膜で滑り、風で帽子を飛ばされ、鈴を鳴らし、最後にはゴーレムに抱え上げられた。
「侵入者を殺さないのは、優しさか?」
「領地争いの後に屋敷を使う人が、毎回死んだら困るッス」
「それはそうだが、俺は騎士だぞ」
「騎士が罠にかかることを、敵に知られないようにする仕込みも必要ッスね」
フリシアが笑った。
「オワリは、屋敷の守りに向いているかもしれません」
「どういう意味だ?」
「罠にかかっても、生きて戻ってくるので」
俺は、屋敷の庭で笑う仲間たちを見た。
領主争いは、まだ終わっていない。
父の死の原因も、サルビアの正体も、俺が帰るかどうかも決まっていない。
それでも、その日の夕食は少しだけ賑やかだった。




