第十一章 九つの剣の記憶
セウブケスへ戻ってきた翌日、カルミアは宿の朝食に現れなかった。
フリシアが尋ねると、宿の主人は一通の書状を渡してきた。
『セウブケス東の旧訓練場へ。一人で来い』
差出人の名はない。
カルミアは、書状を読んだあと、しばらく何も言わなかった。
「行くのか?」
「行く」
「一人で?」
「一人で、って書いてあるからな」
「罠かもしれない」
「罠なら、なおさら俺が行く」
フリシアが、立ち上がった。
「私たちも行きます」
「姫様まで?」
「カルミアは、私の騎士です」
彼女は、少しだけ胸を張った。
「騎士が一人で呼び出されたなら、主が見届けるのは当然でしょう」
旧訓練場には、茶色の髪の男が立っていた。
黒い瞳。装飾のない剣。鎧は着ていないが、立っているだけで周囲の空気が張り詰める。
「ムスカリ」
カルミアが名前を呼ぶ。
「バラウェル騎士団長。領地争奪戦とは無関係の私闘を申し込む」
「わざわざ、それだけを言うために来たのか?」
「確認だ。お前が、まだ剣を握れるのか」
王都から来た立会人が、決闘の条件を確認した。
これは領地の権利を賭けた戦いではない。勝敗が領地争奪戦へ影響することもない。
ムスカリが構えた。
剣先が低い。
構えだけを見れば、隙だらけに見える。
「始め」
声が落ちた瞬間、ムスカリが消えた。
カルミアの胸元で火花が散る。
一合。二合。三合。俺の目には、剣がぶつかる音だけが連続して聞こえた。
カルミアは、相手の剣を受けるのではなく、流している。ムスカリは、カルミアが逃げる先へ刃を置いている。
「速いのは、どちらだ?」
フリシアが、呟いた。
「ムスカリです」
リナリアが答えた。
「カルミアは、相手の力を逃がすのが上手い。ムスカリは、逃がした先に立っとる」
ムスカリの剣が、カルミアの肩を浅く裂いた。
「お前は昔から、人を守るために剣を遅くする」
「お前は昔から、勝つために人を数える」
「数えなければ、守れない」
「数えた結果、見捨てた子どもたちを忘れたか?」
ムスカリの瞳が、初めて揺れた。
その瞬間、カルミアが踏み込む。
けれどムスカリは、その動きを読んでいた。カルミアの剣を外し、喉へ刃を向ける。
俺には、彼の呼吸が聞こえた。
一度、短く吸う。
次の一撃を決める前の呼吸。
「カルミア、三歩目!」
叫んだ。
カルミアが、意味を理解したのかは分からない。
それでも三歩目で、足元の砂を蹴った。
風が、砂を舞い上げる。
ムスカリの視界がわずかに曇った。
カルミアの剣が、ムスカリの剣を弾く。
俺は、初めて自分から踏み込んだ。
短刀を抜き、ムスカリの手首へ刃を触れさせる。
二人の剣が、同時に止まった。
「勝負あり」
立会人が宣言する。
ムスカリは、落ちた剣を見た。
「お前は、他人の力を借りるようになったのか」
「俺一人じゃ、勝てねえからな」
「それを弱さとは思わないのか」
「思わねえよ。俺たちは最初から、一人で戦ってない」
ムスカリは、カルミアへ視線を戻した。
「数年前、王都の鉱山で暴動があった。避難できない子どもたちが坑道の奥に残された。騎士団には、敵を制圧し、坑道を封鎖する命令が出ていた」
カルミアが、肩の傷を押さえる。
「俺は命令を破って、子どもたちを助けに行った。ムスカリは、正面を守って時間を稼いだ。結果として、俺は九騎士の座を捨てた」
「俺は、命令を守った」
ムスカリが言う。
「だから、お前が正しいのか、俺が正しいのかを、今も決められない」
彼は剣を拾った。
「決戦で会おう。次は、止めない」
ムスカリは去っていった。
カルミアは、しばらくその背中を見ていた。
「カルミア」
フリシアが、傷へ布を当てる。
「私の騎士でいてください。これからも、勝手に」
カルミアは目を丸くし、やがて笑った。
「姫様の命令なら、仕方ねえな」
訓練場から戻る途中、カルミアは一度だけ足を止めた。
「オワリ」
「何だ?」
「さっきの三歩目。あれは、お前が自分で見つけたのか?」
「呼吸が聞こえた気がした」
「ムスカリの呼吸が?」
「よく分からない。砂が舞った時に、風の向きが変わった。そこへムスカリの足が来ると思った」
カルミアは、俺をしばらく見た。
「お前の身体が動く時、時々、風が先に動く」
「それ、サルビアにも言われた」
「サルビア?」
俺は、彼女のことを簡単に説明した。
カルミアの表情が曇る。
「その名前、どこかで聞いたことがある」
「知っているのか?」
「名前だけだ。九騎士にいた頃、王都の古い記録で見た。境界を渡る女。年齢不詳。現れる場所が毎回違う」
「同じ人か?」
「分からねえ。だが、関わるなら気をつけろ」
「俺はもう関わってる」
「だから言ってる」
カルミアは、空を見上げた。
「サルビアが何を考えているかは知らねえ。ただ、俺たちの領地争いに、世界の境界まで絡んでいるなら、ジギタリスだけを見ている場合じゃない」
「でも、まずはジギタリスだ」
「ああ。目の前の敵を片づける。遠くの謎は、その後だ」
屋敷へ戻ると、俺は訓練用の木剣を壁へ立てかけた。
最初は、ただの木の棒だった。
今は、握ると手のひらに重さが残る。
剣を持つことは、強さを得ることではない。
自分が誰かを傷つけられる道具を、あえて持つことだ。
その意味を、俺はまだ完全には理解していなかった。
けれど、少なくとも、理解しようとは思うようになっていた。
その日の夕方、屋敷へ一通の短い手紙が届いた。
差出人はムスカリだった。
『決闘の勝敗を、領地争いの前に確定させる必要はない。だが、俺はカルミアとの戦いを見届けた。次に会う時、俺はバラウェルの騎士として立つ』
最後に、別の筆跡で一行だけ書かれていた。
『九つの剣は、同じ鞘へ戻るとは限らない』
「ムスカリが書いたのか?」
カルミアは、手紙を受け取ると、しばらく黙っていた。
「たぶんな。あいつは、昔から余計なことを書かねえ」
「それなのに、九つの剣なんて意味深なことを書くのか」
「意味深に見えるだけだ。九騎士は、九人が同じ正義を持つ組織じゃない。王都の命令、領主の命令、自分の判断。その三つを、毎回どこへ置くか決める人間の集まりだ」
「カルミアは、どこへ置いた?」
「目の前の子どもだ」
即答だった。
「だから、俺は九騎士を辞めた。辞めたことを後悔しているかと聞かれたら、後悔はある。あの場で命令を守った奴らの顔も、今でも覚えている。だが、戻りたいとは思わねえ」
「矛盾してるな」
「人間は、矛盾したまま生きるんだよ。正しい答えを一つ選んだら、残りの答えが消えるわけじゃねえ」
カルミアは、手紙を火へ近づけた。
「ムスカリは、決戦で俺を殺すつもりだ」
「それでも、戦うのか?」
「ああ。あいつが何を選んだかを、俺が見届けるために」
火が手紙の端を焦がす。
俺は、カルミアの横顔を見た。
強い人は、迷わない人だと思っていた。けれどカルミアは、迷いを抱えたまま剣を振る。その迷いを、弱さではなく、次の判断を間違えないための重さとして持っている。
「オワリ」
「ん?」
「明日の訓練、少し内容を変える」
「また負けるのか?」
「負けるために、相手をムスカリにする」
「それは怖いな」
「怖い相手を想像できる奴は、実際に会った時、少しだけ生き残りやすい」
俺は、燃え残った手紙の灰を見た。
九つの剣の中で、俺はまだ一本にも数えられない。
それでも、誰かの剣を折るのではなく、誰かが自分の意志で刃を向けられるようにすることなら、俺にもできるかもしれなかった。




