第十章 止まった時計の少女
その夜、俺は一人で大樹の最上層へ向かった。
飛行場は昼間の喧騒が嘘のように静かだった。働きを終えたドラゴンたちが、翼を畳んで眠っている。遠くの雲の切れ目から、星が見えた。
元の世界の星空を、俺はほとんど見たことがなかった。
街の明かりがあって、忙しさがあって、空を見上げる理由もなかった。
「帰りたい?」
背後から声がした。
振り返ると、茶色の髪の少女が立っていた。
澄んだ黒い瞳。年齢が分からない。気配も曖昧で、近くにいるのに、何歩も離れた場所にいるように感じる。
「サルビア」
「覚えていたんだね」
「俺を、この世界へ連れてきた張本人だろ」
「張本人という言い方は、少しだけ乱暴だよ」
「なら、何て言えばいい?」
「扉を開けた人。あなたは自分で玄関を開けた。私は、その向こうをこちら側につないだだけ」
俺は、圏外のスマホを取り出した。
「これも、お前の仕業か?」
画面には、八時十七分で止まった時計が表示されている。
「境界を越えた物は、どちらの世界にも完全には属さない。だから、目印になる」
「俺の身体能力が急に良くなったのも、境界のせいか?」
サルビアは、風に揺れるドラゴンの翼を見た。
「あなたが強くなったわけではないよ。こちらの世界が、あなたの身体を拒まなくなっただけ。私は、時々風向きを変えている」
「助けていたのか?」
「全部ではない。あなたが自分で選んだ場所へ、ほんの少し押しただけ」
それなら、ガルラ山で身体が動いたのも、狼の攻撃を避けられたのも、完全に自分の力ではない。
落胆はなかった。
俺が突然、特別な人間になったわけではないことに、むしろ安心した。
「なぜ俺を選んだ?」
「選んでいないよ。あなたが、終わりかけていたから」
「俺の人生が?」
「一人暮らしを始める朝。過去の自分を捨てて、新しい自分になる朝。あなたは、まだ何者でもなかった。でも、何者にもなれた」
サルビアは、俺のスマホを指で叩いた。
画面の時刻が、八時十七分から八時十八分へ進んだ。
「この世界には、動かされる駒が多すぎる。領主も騎士も、町の人も。誰かが盤を囲み、勝手に終わりを決めている」
「ジギタリスのことか?」
「彼も駒だよ。自分を王だと思い込んでいる駒」
「じゃあ、俺は何だ?」
サルビアは、初めて俺をまっすぐ見た。
「まだ名前のついていない駒。だから、盤の外へ出ることも、盤を壊すこともできる」
「俺はフリシアの騎士だ」
「その言葉を、自分で選んだならね」
風が吹く。
サルビアの姿が薄れた。
「三か月の終わりに、ゲームは始まる。終わらせ方を選ぶのは、あなたたちだよ」
サルビアが消えたあとも、俺はしばらく飛行場に残った。
元の世界へ戻る道がある。
その事実は、嬉しいより先に怖かった。
戻ったら、俺はどこまで説明できるだろう。玄関を開けたら別世界へ落ちた。空を飛ぶトカゲを見た。剣を持った女の子の騎士になった。
警察へ行けば、きっと病院を勧められる。
母親へ電話をすれば、声を聞いた瞬間に泣かれるかもしれない。
俺は、スマホの写真を開いた。
実家の台所。卒業式の日の教室。友達と撮った、くだらない写真。どれも数日前までの日常だった。
フリシアたちの写真を撮ろうとして、カメラを起動する。
画面に、三人の姿が映った。
けれど、その奥に、もう一人の影がある。
茶色の髪。黒い瞳。
シャッターを切る前に、影は消えた。
「サルビア?」
返事はない。
屋敷へ戻ると、フリシアが書庫の前で待っていた。
「帰りが遅かったですね」
「サルビアに会った」
彼女の表情が変わる。
「あの少女ですか?」
「俺を、この世界へ連れてきた人。帰る道があると言われた」
フリシアは、すぐには何も言わなかった。
「帰りたいなら、帰っていいです」
「簡単に言うなよ」
「簡単ではありません。でも、私があなたをここへ縛る理由はありません」
「縛られているとは思ってない」
「それでも、あなたが帰りたいと思うたびに、私たちのことを理由に迷ってほしくない」
俺は、スマホの画面を閉じた。
「今すぐには帰らない。領地争いが終わってないからな」
「その後は?」
「その時に、また考える」
フリシアは頷いた。
「それが、オワリの選択ですね」
「ああ」
その夜、俺は初めて、元の世界の写真をフリシアへ見せた。
彼女は、スマホの小さな画面を覗き込み、知らない街の景色を一つずつ質問した。
俺も、こちらの世界のことを尋ねた。
王都。大樹。魔法。錬金術。領主。
二つの世界は、簡単には混ざらない。
だからこそ、俺たちは言葉を使って、お互いの世界を少しずつ持ち寄った。
翌朝、クロユリが俺の部屋へ入ってきた。
「スマートフォンを、もう一度見せてほしいッス」
「何か思いついたのか?」
「昨日、画面の地図が二つに分かれたって言ってたッスよね。境界の反応なら、錬金術の記録装置として使えるかもしれない」
「こいつは電話と写真の道具で、錬金術の道具じゃない」
「道具は、作った人が決めた使い方だけをするものではないッス」
クロユリは、スマホの表面へ指を近づけた。触れる前に、画面が淡く光る。
圏外の表示の下に、見慣れない細い線が浮かんだ。線は大樹街の地図ではなく、エクセアの外へ伸び、どこかで途切れている。
「境界の方向を示している?」
フリシアが覗き込む。
「正確な地図じゃないッス。帰る道の候補か、こちらの世界に残っている異物の位置。どちらかは分からない」
「分からないものを、どうして候補だと言える?」
「分からないから、候補なんス」
クロユリは、線が消える前に紙へ写し取った。
「扉を探すなら、もう一度反応させる必要がある。境界に近い場所で、オワリのスマホがどう動くかを見る」
「帰るための調査か?」
フリシアの声が、少しだけ硬くなった。
「まだ決めてない」
俺は答えた。
「帰れる可能性を知ることと、帰ると決めることは違う。知らないまま選ぶのは、俺の苦手なやり方だ」
「オワリらしいですね」
フリシアは、画面の線を見つめた。
「では、調べましょう。帰るためでも、残るためでも、選べるようにするために」
「フリシアは、俺が帰るかもしれないのに、それでいいのか?」
「よくはありません」
彼女は、正直に答えた。
「でも、オワリが自分で選んだ結果なら、私は受け止めます。あなたが残ることを、私の罪悪感やお願いで決めてほしくない」
その言葉を聞いて、胸の奥が少し痛んだ。
フリシアは、俺を引き留めることができたはずだ。領主として命令することも、騎士としての責任を口にすることもできた。それをせず、俺の選択を俺へ返している。
だからこそ、俺はここを途中で投げ出したくなかった。
「領地争いが終わるまで、境界の調査は止める。今は、目の前の敵が先だ」
「分かりました」
クロユリは紙を折り、胸元へしまった。
「ただし、帰る扉の材料が必要なら、先に言ってほしいッス。急にいなくなられると、実験の予定が狂う」
「俺より実験の心配かよ」
「心配しているから、予定を立てるんス」
フリシアが、わずかに笑った。
その日から、俺のスマホは壊れた時計であると同時に、まだ見つけていない道の目印になった。




