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第九章 風の剣、赤い瞳

カルミアが一歩、前へ出た。


その瞬間、山の空気が変わった。


今まで俺たちを取り囲んでいた襲撃者たちが、ほんの少しだけ後ろへ下がる。仮面で顔を隠していても、相手が何者か知っていることは伝わってきた。


カルミアは、斧を持った男を見た。


「三人とも、殺す気で来てるな」


返事の代わりに、斧が振り下ろされる。


カルミアの剣が、斧の柄の真ん中を叩いた。


折れる。


斧を振り下ろした勢いのまま、男が前へつんのめる。カルミアはその肩を剣の腹で打ち、地面へ転がした。


鎖刃が横から迫る。

鎖の軌道が岩を削り、カルミアの髪を数本切った。彼は下がらず、むしろ鎖の内側へ入った。柄を蹴り上げ、持ち主の手首を返す。


武器が、地面へ突き刺さった。


最後の針使いが、俺たちではなくカルミアの背後へ回った。


「カルミア!」


俺が叫ぶより早く、カルミアの赤い瞳が動いた。


振り向きざまの一閃。

仮面が割れ、針が宙へ飛ぶ。


三人が、ほとんど同時に倒れた。


「……それ、俺には見えなかった」


「見えなくていい。見えるようになる前に、見えなくても死なない方法を覚えろ」


「それが一番難しいんだよ」


クロユリが、倒れた襲撃者の仮面を調べる。


「この仮面、内側に封印があるッス」


「封印?」


「喋ろうとすると、舌の根元に仕込まれた風の依代が反応する。命令を漏らさないための仕組みッス」


カルミアの顔から、笑みが消えた。


「バラウェルの軍務で使われるものだ」


「ジギタリスの手下か?」


「あいつが直接命じた証拠はない。だが、誰かが正式な決戦前に俺たちの人数を減らそうとした」


フリシアが、遅れて駆けつけた。


「皆さん、無事ですか?」


「怪我はない。けど、こいつらはどうする?」


「王都へ引き渡すべきです」


「その前に、山を下りる。ここは相手が選んだ場所だ」


カルミアが、発着場の方角を見た。


その視線の先で、岩陰がわずかに揺れた。


俺は、少女の笑い声を聞いた気がした。


「アハハ」


今度は、クロユリの声ではない。

風に混じって、誰かが遠くからこちらを見ている。


「どうしたんスか、オワリ?」


「いや……何でもない」


戦いが終わったあと、俺は初めて息を吐いた。


殺していない。


そのことに気づいた時、身体に残っていた力が抜けた。


「どうして、殺さなかった?」


「敵を倒すことと、敵を殺すことは違う」


「俺は、さっき一人を斬った」


「お前が生きるために必要だった。だが、必要だったから正しいとは限らない」


カルミアは、俺の肩へ手を置いた。


「嫌な感触は、忘れるな。忘れたら、次に剣を抜く時に迷わなくなる」


それは、慰めではなかった。

けれど、現実を現実のまま渡してくれる言葉だった。


フリシアが、仮面の一つを拾った。


「王都の警備へ引き渡します。戦闘前の襲撃を、正式に記録する」


「証拠がなければ、ジギタリスの責任にはならない」


カルミアが言う。


「それでも、記録は残ります」


フリシアは、仮面を袋へ入れた。


「誰かが、いつかこの記録を必要とするかもしれません」


山を下りる途中、俺はクロユリへ聞いた。


「あの短刀の仕込みは、最初から使うつもりだったのか?」


「使わずに済むなら、その方がよかったッス」


「でも、俺が危なくなったら使った」


「仲間になったばかりの人を、死なせるわけにはいかないッス」


「仲間って、もう決めたのか?」


クロユリは、少しだけ歩く速度を落とした。


「オワリたちは、私の材料を採りに来てくれた。普通なら、採取だけして帰るッス。けど、オワリは私の前に立った」


「あれは、身体が勝手に」


「それでも、立ったのはオワリッス」


彼女は、俺の短刀を見た。


「だから、仲間と呼んでもいいと思ったッス」


ガルラ山での採取は、予定より時間がかかった。それでも材料は十分に集まった。仮面の襲撃者たちは、王都の警備へ引き渡されることになったが、彼らは最後まで何も話さなかった。


帰りの飛行船で、カルミアはずっと窓の外を見ていた。


「ムスカリが動き始めたかもしれねえ」


「ムスカリ?」


「バラウェル騎士団長。ジギタリスの四騎士の一人だ」


「お前の知り合いか?」


「昔、一緒に剣を習った」


それ以上、彼は話さなかった。


その帰り道、俺は窓の外を見ながら、刃に残った血を思い出していた。


フリシアが、隣の席へ座った。


「眠れませんか?」


「まだ、あの感触が手に残っている」


「私も、父の事故の後しばらく、何を触っても落盤の音を思い出しました」


「フリシアも?」


「はい。だから、忘れなくてもいいと思います」


彼女は、飛行船の窓へ手を添えた。


「忘れないまま、次に進めばいい」


今回の旅は、材料を得るだけのものではなかった。

俺たちの敵が、決戦を待つつもりのない人間だと分かった。領地争いは、白鐘平原で始まる前から、すでに動いている。


セウブケスへ戻ると、俺たちはリナリアの武器屋へ向かった。


「おお、オワリやん! 短刀、使ってくれとる?」


リナリアは俺の腰の短刀を見て、嬉しそうに尻尾を揺らした。


「おかげで命を救われた」


「ほんま? それなら作った甲斐があったわ」


店の奥から、店主の低い声が聞こえた。


「リナリア、外に兵士が来ている」


武器屋の前には、バラウェルの紋章をつけた男たちが立っていた。

手には、王都の正式なものに見せかけた書状がある。


「領主争いに伴う物資徴収命令だ。この店の武器をすべて提出しろ」


「その印、王都の印と違うで」


リナリアが書状を覗き込んだ。


「偽物や。おやっさんの店を、勝手に空にするつもりか?」


男が剣を抜く。


「口答えするなら、店ごと接収する」


「うちの武器は、うちが認めた人にしか渡さん」


リナリアが前へ出た。


彼女の動きは、カルミアの剣とは違った。速いが、力任せではない。相手の踏み込みに合わせて身体を横へ流し、肘で腕を外し、肩で体勢を崩す。


斧が空を切る。

リナリアは柄へ手を添え、その重さを相手へ返した。男は自分の勢いで店の壁へぶつかった。


「これが、リマアリス流の星走武や」


「武器屋の店員じゃなかったのかよ!」


「武器を作る手が、武器を使えへんとは言うてへんで」


二人目が、クロユリへ向かって走る。


「そこは通行止めッス」


足元から土の杭が飛び出し、男の靴を床へ縫いつけた。


フリシアが姿送りを使う。

店の入口に二人のフリシアが現れ、外へ逃げようとした男の前に立った。


騒ぎを聞きつけた街の警備が駆けつけるまで、時間はかからなかった。


男たちは偽造書状の件で連行された。


店主は深く頭を下げたが、リナリアは暗い顔をしていた。


「これからも、こういう連中が来る。うちがここに残ったら、おやっさんまで巻き込まれる」


「屋敷に来ないか?」


俺は、彼女が作った短刀を抜いた。


「フリシアの領地争いに、仲間として加わってくれ。お前の武器を使う場所を、俺たちが守る」


「それ、うちがオワリに言うた約束やない?」


「約束は一方通行じゃないだろ」


リナリアは、俺の顔と短刀を交互に見た。


フリシアが一歩前へ出る。


「リナリアさん。私は、あなたに武器を作ってほしいとは言いません。戦ってほしいとも、無理に頼みません。ただ、あなたが自分で選んだ場所に、いてほしいと思います」


「姫さん……」


「領主の命令ではありません。お願いです」


リナリアは、しばらく黙った。


やがて、獣の耳が小さく動く。


「そんな顔で頼まれたら、断れへんやん」


彼女は店主へ向き直った。


「おやっさん、しばらく鍛冶場を借りてもええ?」


「お前の打った剣が、領主の役に立つなら、好きにしろ」


リナリアが、俺たちの方へ振り返る。


「よろしゅうな、フリシア。オワリ、カルミア、クロユリ」


前線に立てる仲間は、三人になった。


リナリアが屋敷へ移るまでに、一週間かかった。


彼女は武器屋の仕事を放り出したわけではない。店主と話し合い、鍛冶場を一部借りたまま、必要な時にはセウブケスへ戻ることになった。


「うちは、おやっさんの弟子やからな。勝手に店を捨てるわけにはいかへん」


「それでも、こちらへ来るのか?」


「離れても、戻れる場所があるなら問題ない。仲間になるって、全部を捨てることやないやろ」


リナリアは、屋敷の空き部屋を鍛冶場へ変えた。

火床。金床。小さな水桶。武器の手入れに使う油。屋敷の一角に、金属を打つ音が響き始める。


「星走武は、武器を持つ人間にも持たない人間にも使える」


彼女は、俺の足を見ながら説明した。


「大事なんは、相手の力を正面から受けへんこと。受けたら、受けた分だけ自分が壊れる。流して、返す」


「それ、剣にも使えるか?」


「使える。せやけど、剣は重いから、身体の中心がずれたら終わりや」


俺は、カルミアの訓練に加えてリナリアの足運びを覚えた。

剣を振る前に、一歩をどこへ置くか。相手の胸ではなく、腰を見ること。攻撃を避けるのではなく、攻撃が届く場所から外れること。


「オワリ、前より転ばへんようになったな」


「前は転んでたのか?」


「三回に一回くらい」


「それを先に言え」


フリシアは、屋敷の窓から俺たちの訓練を見ていた。


彼女が笑っているのを見ると、なぜか気持ちが軽くなる。


けれど、夜になると、彼女は領主の帳簿へ向き合う。父の死。領地争い。食糧と鉱山。笑顔の裏側には、まだ重いものが残っていた。


リナリアが鍛冶場で、ぽつりと言った。


「フリシアはんは、笑ってる時ほど無理をしとる」


「分かるのか?」


「耳と尻尾があるからな。人の顔だけ見てると、見落とすこともある」


「獣人って、便利だな」


「うちの耳を、便利道具みたいに言うな」


俺たちは、フリシアが無理をしていることを知っていた。

だからといって、彼女から領主の仕事を奪うことはできない。


守るとは、全部を代わりにやることではない。

その人が自分で立つために、倒れた時の場所を作っておくことだ。


この考え方を、俺はまだうまく言葉にできなかった。


その夜、屋敷の食堂には、いつもより一つ多く椅子が並んだ。


リナリアはセウブケスへ戻る前に、しばらく屋敷へ滞在することになった。鍛冶場を移すための準備が必要だったし、バラウェルの兵が再び店へ来る可能性もある。店主は「弟子が自分の決めた仕事をするなら、止める理由はない」と言って送り出したらしい。


「うちは、あくまで武器職人や」


食卓についたリナリアは、焼いた肉を切り分けながら言った。


「戦場へ行くことはできる。せやけど、誰かの兵隊になるつもりはないで」


「私も、あなたを兵隊にするつもりはありません」


フリシアは、全員の前へ一枚の紙を置いた。


そこには、決戦までの役割が簡単に書かれていた。


カルミア――前衛と敵騎士の観察。

オワリ――フリシアの護衛、近距離での対応。

リナリア――武器の整備と、相手の動きを崩す役。

クロユリ――罠と退路の準備。

フリシア――全体の指揮と領主旗の保持。


「決戦では、全員が同じ場所で戦うとは限りません。ですが、誰か一人が倒れても、別の誰かが役割を引き継げるようにしておきたいのです」


「うちは、剣より拳の方が得意やけど」


「なら、拳を使う場所を作ります」


「クロユリは、当日までに仕込みを増やすッス」


「材料は、もう使い切ったんじゃないのか?」


「だから、追加で採りに行く。アガパ鉱石とアカサス草は、ガルラ山以外にもあるッス。ただ、品質が落ちる」


「品質が落ちても、使えるなら使おう」


俺が言うと、クロユリは少しだけ不満そうに眉を寄せた。


「雑な使い方をすると、雑な結果になるッス」


「じゃあ、雑にならないように、俺たちが材料を集める」


「……そういう返しをされると、文句が言いにくいッス」


カルミアは、紙を見ながら笑った。


「四人の敵に対して、こっちは四つの役割か。数だけなら、まだ不利だな」


「数を同じにする必要はありません」


フリシアが答えた。


「ジギタリス卿は、四騎士を四つの駒として動かすでしょう。私たちは、四人が別々に動くのではなく、必要な時だけ同じ目的へ集まる。そこが違いになります」


「四人が同じ目的へ?」


リナリアが首を傾げた。


「領主様を勝たせる。それだけでええんか?」


フリシアは、すぐには答えなかった。


「それだけでは足りません。勝ったあとも、誰も自分を道具だと思わずに済むこと。私は、そのために勝ちたいです」


食堂に、短い沈黙が落ちた。


その言葉を聞いた時、俺は彼女が決戦の先を見ている理由を少しだけ理解した。


領主になるのは、土地を手に入れるためではない。人が自分の選択を失わずに暮らせる場所を作るためだ。


「なら、俺はその場所へ帰る道を作る」


俺が言うと、リナリアが笑った。


「オワリはんは、いつも帰る話をするなぁ」


「帰る場所があると、前へ出やすいからな」


「それなら、うちらの屋敷をちゃんと帰る場所にせんとな」


クロユリが小さく頷いた。


「実験室の鍵、私にも一本ほしいッス」


「もう仲間の部屋を自分の家みたいに扱ってるじゃねえか」


カルミアが呆れたように言った。


「戻ってきてもいい場所がほしいって言ったッスから」


クロユリは、鍵を受け取ると、胸元の紐へ結びつけた。


それぞれが、武器や道具だけでなく、帰る場所を手に入れようとしている。


俺はその夜、窓の外に浮かぶ大樹の枝を見ながら、初めて四人分の足音を仲間のものとして聞いた。


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