EP 5
狂人の抱擁、バグの定着
「え……?」
キャルルの赤い瞳孔が、限界まで見開かれた。
僕の両腕をギリギリと締め上げていた鉄の万力が、ほんの僅かに緩む。
無理もない。マッハ1の暴力と狂気で脅迫し、「逃げられないように足を折る」と宣言した相手から、まさかの「快諾」が返ってきたのだ。
理解の範疇を超えた事態に、彼女の思考回路が一瞬フリーズした。
(い、今だ……! ここで畳み掛けなきゃ、本当に骨が粉々になるッ!)
僕は、ガクガクと震えそうになる膝に全神経を集中させ、一歩だけ前に踏み出した。
死の恐怖で冷え切った指先を、熱を帯びた彼女の頬に添える。
そして、僕の両腕を掴んだまま硬直している彼女の細い体を、壊れ物を扱うように、力強く抱きしめた。
鼻腔を突くのは、戦場に舞う土埃と、生々しい鉄の匂い。
それらをかき消すように、彼女の髪から陽薬草の甘く清涼な香りがふわりと立ち上った。
腕の中に収まったキャルルの体は、圧倒的な闘気を纏いながらも、驚くほどに小さく、そして、冬の小動物のように小刻みに震えていた。
「なっ……ソ、ソウマ……? なにを……っ」
困惑と焦燥。
彼女の耳元で、僕自身の心臓の鼓動がうるさいほどに響く。
この至近距離なら、彼女が少し指を動かすだけで僕の心臓は止まるだろう。
僕は、震えそうになる声を必死に押し殺し、ささやくように告げた。
「足を折っても構いませんよ、キャルルさん。あなたがそれで安心できるなら。……でも、腕だけは残しておいてくれませんか」
「うで……?」
「ええ。もし僕の腕がなくなってしまったら、あなたが僕のために一針一針縫ってくれた、あのハンカチを受け取ることができなくなってしまうから」
キャルルの体が、ビクンと大きく跳ねた。
僕の背中に回されていた彼女の手から、殺意を孕んだ力が抜け落ちていく。
「カリール・ジブランは言いました。愛とは、自らを充たすことのほかに、何の願いも持たないのだと」
僕は、泥と血にまみれた手で、彼女の震える背中を優しく撫でた。
彼女の激しい呼吸が、僕の胸元で次第に規則正しさを取り戻していくのがわかる。
「誰も僕を傷つけません。そして、誰もあなたを独りにはしません。だから……もう、大丈夫ですよ。あなたのその手は、誰かを壊すためじゃなく、愛しいものを縫い上げるために使ってください」
カラン、と。
彼女の手から滑り落ちた鋼鉄のトンファーが、土煙を上げて地面に転がった。
「ぁ……あ……っ」
僕の肩に顔を埋めたキャルルから、堰を切ったような嗚咽が漏れる。
赤い瞳を支配していた暗い濁りが、大粒の涙によって洗い流されていく。
「ごめっ……ごめんなさい……私、また……ソウマを、傷つけようと……っ!」
「痛くありませんよ。さあ、泣かないで」
わあぁぁぁっ、と。
キャルルは子どものように声を上げて泣き出し、僕の作務衣を、今度は「助けを求めるように」強く握りしめた。
それはもはや暴力ではなく、僕という存在への、絶対的な信頼と依存の形だった。
(……た、助かったぁぁぁぁっっ!! 足、繋がってる! 折られてない!! 奇跡だ!!)
内心で猛烈な安堵の叫びを上げながら、僕は必死に聖人君子のような微笑みを維持し、泣き疲れて眠りに落ちていく彼女の背中を、一定のリズムでトントンと叩き続けた。
広場に、深い静寂が戻る。
「……信じられまへんわ」
物陰から、算盤をガタガタと震わせながらニャングルが這い出てきた。
その隣で、リバロンが信じられないものを見るような目で、僕とキャルルを見つめている。
「マッハで暴れ狂う災害を……武力も魔法も使わず、ただ抱きしめただけで鎮圧したと言うのですか。いや、それどころか……」
リバロンの言う通りだった。
僕の胸の中でスヤスヤと眠るキャルルは、無防備な少女にしか見えない。
だが、その寝顔の奥には、新たな「バグ」が定着していた。
『ソウマに敵対する者は、私が一瞬で全て排除する』。
迷いが消え、より純度を高めた、一点の曇りもない絶対的な「守護」の狂信。
「……これで、少しは静かになりましたね」
僕は冷や汗でびっしょりになった作務衣の不快感を堪え、二人に微笑みかけた。
周囲には、満月ハイテンションの被害に遭い、全回復したまま気絶している三国の兵士たちが山積みになっている。
明日、彼らが目を覚ませば、この村は再び一触即発の火薬庫に戻るだろう。
だが、最強の暴力と、無敵の金庫番は、すでに僕の『思想』という名の檻に囚われている。
――いよいよ、ポポロ村の本格的なコミュニティデザインを始める時が来た。
暴力が支配するこの大陸で、非暴力という名の狂気が、どれだけの現実を塗り替えられるのか。試してやろうじゃないか。




