第四章 神と魔王の堕落、そして「幸福」という名のパンデミック
冷やしキュウリと創造主の涙
「……は?」
世界のシステムを統べる創造主、女神ルチアナの思考は、宇宙開闢以来、初めて完全にフリーズしていた。
右手に掲げたのは、対象の存在コードを宇宙から永遠に消去する絶対的な神気。
そして目の前に差し出されているのは、井戸水でキンキンに冷やされた、緑色の瑞々しい「キュウリ」。先端には、キャルル特製の甘味噌がたっぷりと塗られている。
「いや、ちょっと待って。おかしい。絶対におかしいでしょ!?」
ルチアナは、神の威厳もかなぐり捨てて叫んだ。
「私、世界の創造主よ!? 今からあなたをフォーマットしようとしてるの! なんでキュウリ!? 私の放つ『死の重圧』の中で、どうしてそんなヘラヘラ笑って野菜を差し出せるのよ!!」
彼女の叫びはもっともだった。
周囲の空間は、彼女の怒りによって通常の百倍の重力場と化している。並の人間なら内臓がひしゃげて即死するレベルの神域だ。
だが、草壁颯真の脳内フィルターは、その絶対的な死の恐怖を、極めて都合よく変換(バグ処理)していた。
(……この子、すごくピリピリしてるな。きっと、天界のシステム管理で毎日残業続きなんだ。可哀想に、目が血走ってるじゃないか)
ソウマの瞳に映っているのは、世界を滅ぼす神ではない。
『終わらないタスクに発狂寸前の、可哀想なブラック企業のシステムエンジニア』だった。
「まあまあ、そんなに怒ると血圧に悪いですよ。ただでさえ天界の仕事はストレスが溜まるんでしょう?」
ソウマは、百倍の重力など「少し風が強いな」程度の感覚で無視し、さらに一歩、ルチアナへと踏み込んだ。
「冷たいものを食べて、一旦落ち着きましょう。怒るのもエネルギーが要りますから。……ほら、あーん」
「あーん、じゃないわよ! 誰がそんな泥臭い下界の食べ物なんか……っ!」
ルチアナが顔を背けようとした、その瞬間。
ソウマは、極めて自然な動作で、甘味噌のついたキュウリの先端をルチアナの口元に「スッ」と押し当てた。
「……んぐっ!?」
咄嗟に口を開いてしまったルチアナの舌に、冷えたキュウリと甘味噌が触れる。
「……あ」
パリッ、ポリッ。
無意識に、彼女の歯がキュウリを噛み砕いた。
その瞬間。ルチアナの脳髄を、かつて経験したことのない衝撃が駆け抜けた。
(……な、なにこれ……!?)
井戸水で極限まで冷やされた、暴力的なまでの「清涼感」。
噛めば噛むほど口いっぱいに広がる、大地の生命力を凝縮したような瑞々しい水分。
そして、その青臭さを完璧に中和し、食欲を無限に引き出す「自家製甘味噌」の、深く、甘じょっぱいコク。
天界で彼女が口にしている「神酒」や「霞」など、ただの無機質な栄養素に過ぎなかった。
完璧に計算された味は、脳を麻痺させるだけで、決して「心」を満たしてはくれない。
だが、この無骨なキュウリはどうだ。
泥にまみれ、不格好に曲がっているが、そこには「食べる相手の体を気遣う」という、作物を育てた者の純粋な愛情が限界まで詰め込まれている。
「……おいし、い」
ポリッ、ポリッ、ポリポリポリポリッ!
ルチアナは、掲げていた消去の光を無意識に霧散させると、両手でキュウリを握りしめ、リスのように夢中で齧り始めた。
「……ソウマ。あの女、神様なのにキュウリ一本で餌付けされてるんだけど。頭大丈夫?」
後ろでトンファーを構えていたキャルルが、呆れたようにため息をつく。
村人たちも、無表情のままコクコクと頷き合っている。
「先生のキュウリを食べて、神様も救われましたね」「ええ、これで彼女も私たちの仲間です」
(よし。やっぱり、疲れた体には冷えた夏野菜が一番だ)
ソウマは、顔中を甘味噌だらけにしながらキュウリを貪る創造主を、まるで孫を見るおじいちゃんのような慈愛に満ちた目で見守った。
「……っ、う、うぅぅ……」
ふと、ルチアナの手から、半分かじりかけのキュウリがポロリとこぼれ落ちた。
「あれ、お口に合いませんでしたか?」
「……違うわよ、バカぁ……っ」
ぽろぽろと。
世界で最も美しい女神の瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ出していた。
「私だって……私だって、本当はこんな仕事したくないのよぉぉぉッ!」
ルチアナは、泥だらけの畑の真ん中にへたり込み、子供のようにわあわあと泣き始めた。
「毎日毎日、下界から『魔物が出た』『戦争が起きた』って不具合報告の祈りが届いて……! そのたびに調整して、バグ直して、ヴァルちゃんに仕事振って……! 誰も、私を労ってなんかくれないじゃない……っ!」
「ルチアナ様……!」
麦わら帽子を被ったヴァルキュリアが、もらい泣きしながら駆け寄る。
「私だって、たまにはゆっくりコタツでビール飲みたいし! 福岡に行って、朝倉月人君のライブでペンライト振りたいのにぃぃぃッ! なんで私ばっかり、こんなブラックな世界管理システムを維持しなきゃいけないのよぉぉぉッ!!」
ついに、創造主の口から、神の威厳を粉々に打ち砕く「限界社畜の魂の叫び(とオタ活への渇望)」が爆発した。
世界を無に還そうとした絶対的な殺意は、たった一本の冷やしキュウリがもたらした「日常の優しさ」によって、完璧に骨抜きにされてしまったのだ。
「……そっか。ルチアナさん、月人君のファンだったんですね」
ソウマは、彼女の隣にしゃがみ込み、泥だらけの手で、女神の頭を優しくポンポンと撫でた。
「辛かったですよね。……大丈夫、もう無理して完璧なシステムなんて維持しなくていいんです。ここは、誰もあなたを責めないし、終わらない仕事もない。……気が済むまで、美味しいものを食べて、推しの話をしましょう」
「うわぁぁぁぁん! ソウマぁぁぁ、あんた、いい奴じゃないのよぉぉぉ!」
ルチアナは、泥だらけのソウマの作務衣に顔を埋め、声を上げて泣きじゃくった。
世界のバグ(ソウマ)が、ついに世界のシステム(創造主)の心までをも、完全にハッキング(共感)し尽くした瞬間だった。
「……また、ソウマのヒモ(信者)が増えた」
キャルルが、冷ややかな目でその光景を見下ろしている。
その横では、巨大な機械の獅子が「ゴロゴロゴロ……」と平和な排気音を鳴らしていた。
神も、天使も、最終兵器も。
すべては、狂気と優しさが支配するポポロ村の「完璧な日常」へと、音を立てて墜落していったのである。




