EP 3
死の執事、その『暴力』の敗北
キィンッ!
空気を鋭利な刃物で切り裂くような、甲高い異音が耳元を掠めた。
僕が振り下ろした斧が薪を叩き割るのと同時に、パラリ、と僕の前髪が数本、宙を舞って土に落ちた。
そして、僕の首筋からわずか数ミリ横の空中に、一枚の「名刺」が静止していた。
鋼鉄の防弾ヘルメットすら容易く両断するという、極限まで圧縮された人狼族の闘気を纏った、名刺型の手裏剣。
鋭い紙の縁が僕の頬を僅かに掠め、一筋の赤い血がツーッと顎を伝って落ちる。
「……ほう。微動だにしませんか。凡人ならば、殺気にあてられて泡を吹いて倒れるところですが」
背後の木陰から、完璧にアイロンがけされた燕尾服を着た長身の男が、足音一つ立てずに現れた。
ポポロ村の宰相にして、ルナミス帝国執事検定1級を持つ人狼族、リバロンだ。
(…………っっ!!!)
僕の心臓は、完全に停止していた。
いや、違う。「微動だにしなかった」のではない。
彼の放った名刺が速すぎて、僕のポンコツな動体視力では全く見えず、脳が「逃げろ」と命令を下す前に事が終わっていただけだ。腰は完全に抜け、足は地面に縫い付けられたように動かない。
だが、傍から見れば、僕は「致命的な一撃を放たれても、瞬き一つせずに薪を割り続けた超大物」に映っているらしい。
僕は冷や汗を全身から噴出させながら、ゆっくりと斧を置き、リバロンの方へ振り向いた。
「――てめぇえええッ!! ソウマに何してんだ、駄犬がああああっ!!」
その時、上空から鼓膜を破るような怒号が降ってきた。
ドゴォォォンッ!!
僕とリバロンの間に、隕石が落ちたような轟音と共に土煙が舞い上がる。
「キャ、キャルル村長……!?」
そこには、巨大な鋼鉄のダブルトンファーを構えたキャルルが立っていた。
彼女の赤い瞳は怒りで縦に割れ、月兎族特有の圧倒的な闘気が、周囲の空気をビリビリと震わせている。
「私の……私のソウマの顔に傷をつけたわね。その首、トンファーで胴体ごとへし折ってやるわ!!」
キャルルの足元の地面がクレーターのように陥没し、マッハ1の「超電光流星脚」が放たれようとした、その瞬間。
「待ってください、キャルルさん」
僕は、震える手を必死に伸ばし、キャルルのトンファーをそっと掴んだ。
「……ソ、ソウマ? だ、だって、こいつ……!」
血走っていたキャルルの瞳が、僕の顔を見てハッと揺らぐ。
僕は自分の頬から流れる血を拭いもせず、ただ静かに首を振った。
「彼を責めないでください。リバロンさんは、ただ『執事としての仕事』をしただけです」
「……何をおっしゃるのですか。私は今、明確な殺意をもってあなたを試しました。あなたが村に害をなす寄生虫なら、この名刺で首を刎ねるつもりで」
リバロンが、琥珀色の瞳を細めて僕を睨む。
『韓非子』の信賞必罰と『戦争論』の冷徹さを併せ持つ彼は、暴力こそが世界を測る唯一の絶対的基準だと信じている。
(……やばい。これ以上喋ったら声が震える。教養だ。僕の武器は本しかない。アダム・スミス、カリール・ジブラン、助けてくれ……!)
僕は深く息を吸い込み、リバロンに向かって静かに告げた。
「カリール・ジブランの『預言者』には、こう書かれています。――『あなたの痛みは、あなたの理解を包んでいる殻が破れることなのです』と」
「……殻が、破れる?」
「あなたが僕に名刺を放ったのは、悪意からではない。このポポロ村を守らなければならないという『孤独な痛切さ』からです。アダム・スミスの言う『公平な観察者』の目で見れば、あなたの行動は村への忠誠心そのもの。……忠義に満ちた執事を恐れて、薪割りの手を止める主人がどこにいますか」
風が吹き抜け、ざわめいていた木々の葉がピタリと止まった。
リバロンの目が見開かれる。
武力も魔力も持たないこの脆弱な人間が、自分の放った「死の恐怖」を全く介さず、あろうことか『道徳感情論』の理屈を用いて、自分の内なる「孤独な痛み」までをも全肯定してのけたのだ。
暴力でしか世界を測れない自分とは違う。
一切の暴力を拒絶し、言葉と理解だけで世界を包み込もうとする、圧倒的な「非暴力の化け物」。
「……っ」
リバロンは、ゆっくりとその場に片膝をついた。
そして、胸に右手を当て、帝国1級執事としての最も深く、美しい最敬礼を僕に向けた。
「……私の、完全な敗北です。私は暴力でしか村を守れぬ、古い世界の敗残者でした。ソウマ様。どうかこの愚かな駄犬を、あなたの深遠なる『設計』の末席に加え、御使いください」
死の執事が、静かに首を垂れた。
「ええ、頼りにしていますよ。リバロンさん」
僕は優しく微笑みかけながら、内心で安堵のあまり気絶しそうになっていた。
(た、助かった……! 首が繋がったぁぁぁっ!!)
「……ソウマ」
ふと、横から袖をクイッと引かれた。
キャルルが、先ほどの殺気とは打って変わって、小動物のように耳をペタンと伏せ、僕の顔を上目遣いで見つめていた。
「あの、顔の傷……ごめんね、私がもっと早く気づいていれば……」
彼女はそう言うと、懐から陽薬草を取り出し、背伸びをして僕の頬の傷にそっと当ててくれた。
柔らかな指先の感触と、少し潤んだ彼女の赤い瞳が至近距離にある。
「ありがとう、キャルルさん。でも、気にしてませんよ」
「う、うん……。あ、あとで、温かいお茶でも淹れるから……その、絶対に来てね……っ」
キャルルは顔を真っ赤にしてパタパタと走り去っていった。
(……なんだろう。今のキャルルさん、すごく可愛かったな)
かくして、最強の武闘派ヒロインと、冷徹なる死の執事。
暴力の頂点に立つ二人は、僕という「非暴力のバグ」に完全に組み込まれることとなったのだ。
――満月の夜に訪れる、本当の『絶望』の足音が近づいていることにも気づかずに。




