EP 5
天使、農業の喜びに目覚める(感染)
「……こ、こうですかッ!」
ドゴォォォンッ!!
ヴァルキュリアが振り下ろしたクワが大地を打ち据え、まるで小型の隕石が落ちたかのように土砂が吹き飛んだ。
見事なまでに抉れすぎた地面。当然、植えるはずだった玉ねぎの苗のスペースごと、すり鉢状のクレーターに変わってしまっている。
「ストップ、ストップ! 天使さん、神気とか魔力とか全部抜いて! ただの木の棒を振るう感じでいいから!」
僕は頭から土を被りながら、慌てて彼女を制止した。
「む、難しいですね……。天界の執行プロトコルには、『手加減して土を掘る』という概念が存在しません。すべては『完全な消滅』か『無への還元』ですので」
ヴァルキュリアは額に汗を浮かべ、ゼェゼェと肩で息をしながらクワを見つめている。
神の力を抑え込み、純粋な「肉体の動き」だけで作業をするという経験が、彼女には全くないのだ。
「腕の力だけで振り下ろすから疲れるんです。腰を落として、体重をクワの刃に乗せるように……そう、その角度で」
僕は彼女の後ろに立ち、クワの柄を握る彼女の白い手にそっと手を添え、一緒に土を掻き寄せた。
サクッ、と。
今度は程よい深さの畝が出来上がった。
「おお……」
ヴァルキュリアの薄青い瞳が、少しだけ輝いた。
そこに、しなしなになっていた玉ねぎの苗を丁寧に植え直し、土を被せて軽くポンポンと叩く。
「はい、完璧です。自分で植え直した苗の姿、どうですか?」
僕が尋ねると、ヴァルキュリアはじっと、泥だらけになった自分の手と、土からちょこんと顔を出す緑色の苗を交互に見つめた。
「……不思議な感覚です。私が今まで破壊し、消滅させてきた下界の事象と違って……この小さな生命は、私の『労働』によって、今、ここに存在を許されている」
彼女の顔つきから、張り詰めていた「裁定者としての責務」が抜け落ちていく。
天界での彼女の仕事は、下界のバグを修正(破壊)するか、無限に湧き出る書類を処理するかの二択。ゼロをマイナスにするか、マイナスをゼロに戻すだけの、報われない徒労の連続だった。
だが、農業は違う。ゼロから「プラス(生命)」を生み出す、究極の創造行為なのだ。
「さあ、労働の後は、お楽しみの時間です。手洗ってきてください」
僕が声をかけると、彼女は促されるままに井戸で手を洗い、広場の木箱の上に用意された「お盆」の前に座った。
そこには、キャルルが持ってきた太陽芋ご飯と、玉ねぎの甘酢漬けが輝いている。
「……い、いただきます」
ヴァルキュリアは、震える手で木製のスプーンを握り、琥珀色に輝く玉ねぎを一口、口に運んだ。
「――っ!!」
瞬間、彼女の背中の黄金の翼が、ビクゥッ! と大きく跳ね上がった。
「な、なんですか、この甘みと酸味の完璧な調和は……!? シャキシャキとした食感が脳髄を刺激し、噛めば噛むほどに大地のエネルギーが五臓六腑に染み渡っていく……! 天界の神酒や霞など、ただの味のしない水ではないですかッ!!」
ヴァルキュリアは、涙目になりながら太陽芋ご飯をかき込み始めた。
もう、神の威厳もクソもない。ただの一人の腹を空かせた労働者が、泥まみれで飯を食らっているだけの姿だ。
「……美味しいですか?」
「おいひいです……ッ! こんなに、心が満たされる食事は、生まれて初めてです……っ!」
彼女の目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
そして、彼女が最後の一口を飲み込んだ、その時。
パチパチパチパチパチパチ。
不意に、広場を囲んでいた村人たちから、一斉に拍手が湧き起こった。
「え……?」
ヴァルキュリアが、スプーンを咥えたまま呆然と顔を上げる。
「天使さん。玉ねぎの植え直し、お疲れ様でした」
「泥だらけになって働く姿、とても立派でしたよ」
「先生の畑を手伝ってくれて、ありがとうございます」
無表情だった村人たちの顔に、一斉に「温かい笑顔」が浮かんでいた。
それは、純粋な称賛。
同じ労働の苦しみと喜びを知る、コミュニティの仲間として彼女を受け入れる、絶対的な肯定の言葉だった。
「あ……あぁ……」
ヴァルキュリアの唇が、ワナワナと震えた。
天界で何百年と書類を処理し続けても、女神ルチアナからは「ヴァルちゃんお疲れー! じゃあ次の山もよろしくぅ!」と軽くあしらわれるだけだった。
誰も、彼女の苦労を心から労ってくれたことなどなかったのだ。
それが今。
少し土を耕しただけで、美味しいご飯が食べられて、こんなにもたくさんの人から「ありがとう」と感謝されている。
(……ああ。私の居場所は、天界の無機質なデスクじゃなかったんだ)
プツン、と。
彼女の中で、神への忠誠を縛り付けていた最後の糸が切れる音がした。
「……ソウマ、先生」
ヴァルキュリアは、椅子から立ち上がり、僕の前に進み出た。
そして、神の代行者としての白銀の槍を地面に置き、代わりに「木柄のクワ」を両手でギュッと握りしめた。
「次の畝は、どこですか。私、もっと耕せます。もっと……もっと、みなさんの役に立ちたいです!」
彼女の薄青い瞳に、村人たちと全く同じ、濁りのない純粋な「信仰」の光が宿った。
「ふふ、頼もしいですね。じゃあ、次はあっちのジャガイモ畑をお願いしようかな」
「はいッ! お任せください、先生!」
大天使は、嬉しそうに黄金の翼を揺らしながら、畑へと駆けていった。
僕の背後で、キャルルが呆れたように呟く。
「……また一人、ソウマの毒に当てられてバカになったね」
僕は冷や汗を拭いながら、乾いた笑いを漏らすしかなかった。
天界の最高戦力(裁定者)は、暴力ではなく「自己肯定感の爆撃」というブラック企業勤めには抗えない洗脳によって、ポポロ村の立派な農婦(システムの一部)へと堕落したのである。
***
しかし、この異様な光景を、天界のモニター越しに見ていた者がいた。
「……は? 嘘でしょ……?」
聖天国セレスティアの一室。
コタツから身を乗り出した女神ルチアナは、手からポテトチップスを落とし、信じられないものを見るようにモニターを凝視していた。
「ヴァルちゃんが……私の最強の右腕が、麦わら帽子かぶって畑耕してる……!? しかも、あんなに幸せそうな顔で……!!」
ルチアナの顔が、恐怖と怒りで真っ赤に染まる。
「許さない……私のシステムを壊した上に、私の親友まで洗脳するなんて……! こうなったら、もう論理もへったくれもないわ!!」
女神ルチアナは、コンソールの「最終緊急ボタン(赤色)」をバンッと叩き潰した。
「いけっ、ガオガオン!! あの狂った村ごと、物理で更地にしてしまいなさいッ!!」
天の理を外れた究極のバグ(ソウマ)を排除するため、ついに神の「自動殲滅兵器」が、マンルシア大陸に向けて射出された。




