EP 4
働かざる者、神でも食うべからず
「……クワ? 玉ねぎ……?」
聖天国セレスティアの裁定者、天使族長ヴァルキュリアは、自身の白い手に握られた「泥と汗の染み込んだ木柄のクワ」を、信じられないものを見るように凝視した。
天界で彼女が握るのは、常に神気を帯びた白銀の槍か、終わりのない不具合報告書の束だけだ。
「何を……何を言っているのですか、貴様は……! 私は神の代行者! 貴様らバグを粛清しに……!」
ヴァルキュリアは、クワを投げ捨てようとした。
だが、その瞬間。
――グゥゥゥゥゥ……。
静まり返った広場に、あまりにも情けない、盛大な「腹の虫」の音が響き渡った。
「「「…………え?」」」
村人たちが、一斉にヴァルキュリアのお腹に視線を向けた。
キャルルも、ニャングルも、そして僕も、気まずそうに目を逸らす。
「ひっ……あ、違う! 今のは、神の……神の啓示で……!」
ヴァルキュリアの顔が、一瞬でリンゴのように真っ赤になった。
鎧の隙間から見える首筋まで、羞恥心で染まっている。
(……この人、天界でどれだけブラック労働させられてたんだ。降臨してからずっと、まともにご飯食べてないんじゃないか?)
僕は、彼女の様子を見て確信した。
論理でボコボコにされ、アイデンティティが崩壊しかけている上に、極限の空腹。
人間の心の脆弱性を熟知している僕にとって、これほど扱いやすい「獲物」は存在しない。
「……キャルルさん。ルナキンの厨房から、昨日漬けた玉ねぎの甘酢漬けと、炊きたての太陽芋のご飯を持ってきて」
「うん、わかった。でもソウマ、こいつに毒盛ってもいい?」
「ダメだよ! 普通の美味しいご飯を持ってきて!」
キャルルが不満げに厨房へ走っていく。
僕は、真っ赤になってうつむいているヴァルキュリアの前に、膝をついて座った。
「天使さん。神の代行者としての公務は、一旦横に置きましょう」
「くっ……何を……」
「うちの村には、たった一つだけ、絶対に守らなきゃいけない『鉄の掟』があります」
僕は、彼女の手に握られたクワを、優しく、しかし力強く握り直させた。
「――『働かざる者、食うべからず』」
「は……?」
ヴァルキュリアが、ポカンと口を開けた。
天界では、神の恵みは信仰心によって与えられるものだ。「労働」などという、下等生物の営みが生存の条件になるなど、想像もしていなかったのだろう。
「神様でも、天使様でも、うちの村で美味しいご飯を食べるなら、働いてもらわなきゃいけません。……それが、僕たちのデザインした『信用』ですから」
僕は、泥だらけの顔で、最高に「気のいい村人」の笑みを浮かべてみせた。
論理の矛盾を突き、アイデンティティを破壊し、空腹という本能に訴えかけ、そして「新しいルール(日常)」を提示する。
完璧な洗脳のプロセス。
「まずは、あなたが白銀のブーツで踏んづけた、その玉ねぎの苗の植え直しから始めましょう。……大丈夫、僕が隣で教えてあげますから」
「き、貴様ッ……! この私に、土を弄れと……!? そんな下賸な真似、神への冒涜……!」
ヴァルキュリアが、最後の抵抗を見せる。
だが、その時。
「お待たせ、ソウマ! ……はい、こいつのご飯」
キャルルが、お盆を持って戻ってきた。
お盆の上には、炊きたてで湯気の立つホカホカの太陽芋ご飯と、透き通った琥珀色の玉ねぎの甘酢漬け、そして大根の味噌汁。
ポポロ村の、素朴だが最高に食欲をそそる匂いが、広場中に広がった。
――グゥゥゥゥゥゥゥゥゥン!!
ヴァルキュリアのお腹が、先ほどよりもさらに巨大な悲鳴を上げた。
「……ッ!」
彼女の瞳が、ご飯を凝視したまま、ピクリとも動かなくなった。
口元から、微かにヨダレが垂れそうになっている。
神の代行者としてのプライドが、本能という名の圧倒的な暴力の前に、完全に屈服しようとしていた。
「……さあ、天使さん。クワを持って」
僕は、彼女の耳元で、悪魔のように甘く囁いた。
「玉ねぎを植えたら、その温かいご飯、全部食べていいですよ。……誰も、あなたを叱りません。終わらない報告書も、理不尽な上司もいない。ただ、土と向き合うだけの、平和な時間です」
「……あ、ああ……」
ヴァルキュリアの手が、自然とクワの柄を強く握りしめた。
彼女の瞳から、神の威光が完全に消え去り、代わりに「社畜が求めて止まない、静かな日常への渇望」が宿った。
(よし、墜ちた……!)
天界最強の裁定者、大天使ヴァルキュリア。
彼女が、生まれて初めて「神の槍」ではなく「泥だらけのクワ」を大地に突き立てた瞬間だった。
神のシステムを破壊したバグは、今や、神の代行者すらも自分の「箱庭」の労働力として組み込もうとしていた。




