EP 2
天使の困惑。「悪魔はどこですか?」
「……肥料? 今、肥料と言いましたか?」
天界最強の裁定者であるヴァルキュリアは、自分の耳を疑った。
彼女が放っているのは、並の魔物なら文字通り「蒸発」するレベルの高密度の神気だ。神の怒りを前にして、人間が抱く感情は「恐怖」か「絶望」、あるいは「命乞い」の三つしか存在しないはずだった。
それなのに、目の前の泥だらけの農民たちは、白銀の槍を構える大天使を前にして、文字通り「完全に無表情」だった。
彼らの意識は、彼女の背後に立つ一人の青年――草壁颯真にのみ向けられている。
「ソウマ先生。彼女の羽、むしってクッションの綿にしましょうか」
「槍は溶かして、新しいクワの刃にできそうです」
「ちょ、ちょっと待ちなさい! 貴様ら、私が誰だか分かっているのですか!?」
ヴァルキュリアは焦りから声を荒らげ、神気をさらに一段階引き上げた。
広場の空気がビリビリと震え、周囲の小石が重力に逆らって浮き上がる。
だが、それでも村人たちの表情は1ミリも動かなかった。
「……ねえ、お姉ちゃん」
不意に、ヴァルキュリアの足元から声がした。
見下ろすと、泥だらけの服を着た人間の子供が、彼女の顔を無表情に見上げている。
(……この子供。神の威圧を前にして、なぜ立っていられるの?)
ヴァルキュリアは息を呑んだ。
恐怖で頭がおかしくなったのか? それとも、ついに神の裁きを前にして許しを乞う気になったのだろうか。
「ひれ伏しなさい、子供よ。私に刃向かわないというのなら、命だけは……」
「お姉ちゃん、そこ、ソウマ先生の玉ねぎの苗踏んでるよ。……どいて」
「……は?」
子供は、大天使の神々しい顔を完全に無視して、彼女の白銀のブーツの下敷きになっている「玉ねぎの苗」を指差した。
「先生が一生懸命育てた玉ねぎだよ。……それ以上踏むなら、お姉ちゃんのこと、先生の敵だとみなすよ?」
子供の瞳の奥に、淀みない、純粋で狂気的な「殺意」が宿る。
神への畏敬よりも、自分の命よりも、「ソウマ先生の玉ねぎ」を優先する絶対的な価値観の逆転。
その異常すぎる事態に、天界で数多の修羅場をくぐり抜けてきた天使族長の背筋に、ゾクリと冷たい汗が流れた。
(何、この村……! おかしい。狂っている。神の威光が、全く機能していない……!)
これは反逆ではない。
彼らの精神(OS)が、根本から別のシステムに書き換えられているのだ。
彼らの世界には、もはや「神」も「国家」も存在しない。ただ「ソウマ」という絶対的なルールだけが敷かれている。
「ストーーーップ!! 待って、みんな!!」
たまらず、僕は慌てて前に飛び出した。
片手には洗いかけの大根、もう片方の手は包帯で吊ったままだ。
「お願いだから、その人に武器を向けないで! 本当に村ごと消し飛ばされちゃうから! 玉ねぎはまた植え直せばいいから!」
僕が叫んだ瞬間。
「「「はい。ソウマ先生がそう仰るなら」」」
村人たちは、一糸乱れぬ完璧な動作で、持っていたクワやカマを同時に地面に置いた。
そして、何事もなかったかのように、再び無表情で僕の後ろに整列したのだ。
「……なっ」
ヴァルキュリアが、絶句して僕を見た。
神である自分がどれだけ威圧しても動かなかった狂人たちが、この泥だらけの青年の「たった一言」で、魔法のように統制された。
「あ、あなたが……世界のシステムを破壊した大罪人。この異常な群衆を洗脳した、悪魔のような存在……」
ヴァルキュリアは、白銀の槍の切っ先を僕の喉元に突きつけた。
「……ん? 悪魔?」
天界のモニターで異常なデータだけを見てやってきた彼女は、この村を支配しているのが「残虐非道な魔王」か「恐ろしい洗脳魔法を使う邪道士」だと信じ込んでいたのだろう。
しかし、槍を突きつけられて半泣きになっている僕の姿は、どう見てもただの過労気味な村の青年だ。
「えっと……あの、初めまして。草壁颯真です」
僕は、喉元の槍に冷や汗を流しながら、手に持っていた洗いかけの大根をそっと後ろに隠した。
「洗脳だなんて、とんでもない。僕はただ、みんなと一緒に美味しい芋煮を食べて、平和に暮らしたいだけなんです。……その、空から来られたんですよね? 遠いところからお疲れ様です。お茶でも淹れましょうか?」
「ふ、ふざけるなッ! 貴様のような無能力者が、どうやってこの異常な空間を創り上げた! 答えろ!!」
ヴァルキュリアが激昂し、槍からプラズマの火花が散る。
「ソウマに……その汚い串を向けるなッ!!」
ドンッ!! と、空気が爆発する音が響いた。
次の瞬間、ヴァルキュリアの横腹に、マッハの速度で放たれたキャルルの回し蹴りが直撃していた。
「……ぐっ!?」
並の魔族なら上半身が消し飛ぶ一撃。
しかし、さすがは大天使。ヴァルキュリアは数メートル横に滑りながらも、展開した黄金の魔法障壁でそれを防ぎきっていた。
「……ヤンデレ雷神(ガチ・バグ個体)。なるほど、貴様がこの男の剣というわけですね」
ヴァルキュリアが体勢を立て直し、背中の黄金の翼を大きく羽ばたかせる。
「いいでしょう。システムに反逆した罪、まずは貴様ら二人から万死を以て償わせ……」
「……あの、すみません。天使さん」
僕の声が、戦闘態勢に入ろうとした彼女の動きを止めた。
僕は、震える足をなんとか踏みとどまらせ、まっすぐに彼女の目を見た。
「あなたたち神様は、僕が『世界のバグ』だと言う。……でも、少しお伺いしてもいいですか」
僕は、図書館で読み漁った数々の哲学書の中から、とある「劇薬」のページを脳内で開いた。
「もし神が完全であるならば。なぜ、この世界には飢えがあり、争いがあり、僕たちのような『バグ』が存在するのでしょうか?」
「……は?」
ヴァルキュリアが、間の抜けた声を出した。
さあ、論理(教養)の時間だ。
暴力で支配する神のシステムを、徹底的に解体してやる。




