EP 9
『信用』は暴力より重い
キャルルの悲痛な嗚咽だけが、静まり返った広場に響いていた。
泥と吐瀉物、そして赤黒い血だまりの中に倒れ伏した僕。
それを抱きしめるキャルルを囲むように、暴徒と化していた村人たちや、三カ国の駐留兵たちが立ち尽くしていた。
彼らの手には、僕を過労死の淵まで追いやった「どんぐりの木札(欲望)」が握られている。
「……俺は」
沈黙を破ったのは、最初に僕に殴りかかろうとした、あの農夫だった。
彼は震える手で、自分が握りしめている数十枚のポポロ券と、血だまりに沈む僕の顔を交互に見つめた。
「俺は、ただ……腹一杯飯が食いたかっただけで……。こんな、バカみたいにお人好しな兄ちゃんを、殺したかったわけじゃねえんだ……ッ」
農夫の目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
彼は広場の中央で燃えていた、夜明かし用の焚き火に向かって歩き出した。
そして、自分が持っていたポポロ券を、偽物も本物も関係なく、全て火の中へ投げ入れた。
パチパチと、木札が燃える音が響く。
「……俺もだ。俺たちに美味い芋煮を食わせてくれた恩人を、俺たちは自分の強欲さで殺そうとしたんだ」
ルナミス帝国の兵士が、魔導ライフルを地面に置き、手持ちの木札を火にくべた。
それを皮切りに、魔法が解けたように人々が動き出した。
「ごめん、ごめんなさい、ソウマ先生……!」
「こんなもん、ただのゴミだ! もういらねえっ!」
レオンハートの獣人兵も、アバロンの魔族兵も、村の女たちも。
誰もが涙を流し、嗚咽を漏らしながら、次々とポポロ券を炎の中へ投げ入れていく。
僕が命を削って買い戻そうとした「1万枚の負債」は、彼ら自身の贖罪の炎によって、またたく間に灰へと還っていった。
「……あり得ない」
その光景を広場の端で見つめていた特任監査官ユリウスは、銀縁眼鏡の奥で、初めてその薄青い瞳を見開いていた。
「債権者が、自らの意志で債権(紙幣)を破棄している……? 国家権力による徳政令でもなく、自己の利益を完全に度外視した『感情』だけで……これほどの規模のインフレが、一瞬で収束したというのか?」
彼の持つ「冷徹な経済学」のどこを探しても、こんな現象は存在しない。
人間は利己的な獣であるという『リヴァイアサン』の前提が、たった一人の男の「狂気的な自己犠牲」によって、根底から覆されたのだ。
ユリウスはゆっくりと歩み寄り、キャルルの腕の中で微かに息をしている僕を見下ろした。
キャルルが凄まじい殺気を放って彼を睨みつけるが、ユリウスはそれに構うことなく、スッと片膝をついた。
「……私の敗北です。草壁颯真」
ユリウスの口から、信じられない言葉がこぼれた。
「『信用』とは、数字や金で裏付けられるものではなかった。……あなたが自らの命を盤上に投げ出したことで、この村の人間たちは、もはや法でも金でもなく『あなたという存在そのもの』を信仰してしまった」
彼は、燃え盛る焚き火の光を背に受ける村人たちを見渡した。
その瞳に宿っているのは、偽札に踊らされていた獣の欲望ではない。自己犠牲を体現した僕への、絶対的な信頼と、ある種の「狂信」だ。
「……あなたは、暴力を使わない怪物だ」
ユリウスは静かに立ち上がり、乱れた制服の襟を正した。
「帝国の経済封鎖は、本日を以て解除します。……だが、勘違いしないでいただきたい。私はあなたの『思想』を認めたわけではない。この村は、いずれ世界のシステムを内側から食い破る、極めて危険な毒になる」
彼は背を向け、待機させていた馬車へと歩き出す。
「草壁颯真。あなたの狂った箱庭実験が、一体どこまで世界を侵食するのか。……私は帝都の特等席で、あなたの生涯の『宿敵』として、最後まで見届けさせてもらいますよ」
カパッ、カパッ。
白馬に引かれた馬車が、夜明けの光の中へ消えていく。
最強の論理と数字を持った帝国のエリートを退けたのは、武力でも魔法でもなかった。
人間の「心」という、最も不合理で計算不可能なバグ。
「……よかった、ソウマ。終わったよ」
キャルルの温かい涙が、僕の頬に落ちる。
村人たちが、心配そうに僕たちを取り囲む。
ポポロ村は、生き残った。
だが、この血と泥と自己犠牲の果てに完成した「完璧すぎる絆」が、やがて取り返しのつかない静かなディストピアを生み出すことに、僕たちはまだ誰も気づいていなかった。




