EP 8
限界の墜落と、理解者の帰還
泥水の味。ひび割れた左腕の骨がきしむ激痛。肺の奥で血の風船が破裂するような、鉄の匂い。
「……次。次の札を、持ってきてください」
僕は泥だらけの顔を上げ、焦点の合わない目で虚空を睨みつけた。
偽造ポポロ券の暴落から、丸二昼夜。
僕は一睡もせず、ただひたすらに村人から突きつけられる「紙切れ」を買い戻すための肉体労働を続けていた。
壊れた屋根の修理、肥溜めの処理、荒れ地の開墾。
闘気を持たないただの凡人の肉体は、とうの昔に限界を超えている。筋肉は悲鳴を通り越して麻痺し、爪は剥がれ、折れかけた左腕からは絶えず血が滴り落ちていた。
「もう……もういい、ソウマ先生! ワイの負けや、やめてくれ!」
ニャングルが泣き叫びながら僕の足にすがりつく。
だが、僕は虚ろな目で彼を振り払い、次の手押し車を引こうとした。
「……ダメです。僕が倒れたら、この村の信用は完全に死ぬ。……僕はまだ、動ける」
異常だった。
暴徒と化していた村人たちも、金貨の代わりにどんぐりを求めていた駐留兵たちも、今は誰一人として声を上げない。
彼らは、自分たちの欲望が生み出した「偽札」の尻拭いを、たった一人の無力な男が命を削って精算し続けるという、あまりにも凄惨で異様な光景に、完全に言葉を失っていた。
広場の端では、ユリウスが彫像のように立ち尽くし、僕を見つめている。
彼の持つ『冷徹な経済学』のどこをどう計算しても、僕が生きていることは不可能だった。一人の人間の労働力で、1万枚のハイパーインフレを吸収するなど、数学的にあり得ないのだから。
「……ぐ、あっ」
その時。
僕の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
重力が突然十倍になったように体が重くなり、膝から崩れ落ちる。
「ソ、ソウマ先生ッ!」
地面に倒れ込んだ瞬間、胃の奥から熱い塊が込み上げてきた。
ゴボッ、と。
泥土の上に、赤黒い血がぶちまけられる。
(あ、ああ……限界だ)
指先一つ、ピクリとも動かない。
心臓が不規則に痙攣し、冷たい死の感触が足先から這い上がってくる。
薄れゆく意識の中で、僕はぼんやりと空を見た。
みんなを救いたかった。この暴力の世界で、誰も傷つかずに笑い合える場所を作りたかった。
(……ごめん。宮沢賢治みたいには、なれなかったな……)
僕は無力な一人の人間に戻り、絶望と後悔の涙を流しながら、静かに目を閉じた。
――ザッ、ザッ。
静まり返った広場に、ゆっくりとした足音が響いた。
村人たちが息を呑む気配がする。
「……ほんと、どうしようもないバカ」
頭上から降ってきたのは、聞き慣れた、少し鼻にかかった鈴のような声。
僕が薄く目を開けると、そこには村を見捨てて去ったはずのキャルルが立っていた。
彼女は武器を持っていない。ただ、真っ赤な瞳から大粒の涙をポロポロとこぼしながら、泥と吐瀉物と血にまみれた僕の体を、その細い腕で力強く抱きしめた。
「キャ、ルル……さん……? なんで……」
「村を出て、分かったの。ソウマがいない世界なんて、ただの醜い地獄だって」
彼女は、自分の綺麗な服が僕の血と泥で汚れることなど一切気にする様子もなく、僕の顔を胸に抱き寄せた。
「こんな奴らのために命を捨てるソウマは、本当に頭がおかしい。……でも、その『狂気』が、私を暗闇から救い出してくれたんだよね」
彼女の震える指先が、僕の泥だらけの頬を優しく撫でる。
それは、かつての「自分が安心したいから撫でてほしい」というヤンデレの依存ではない。
僕という人間が背負った地獄の底まで、自らの意志で共に落ちることを決めた「究極の共犯関係」への昇華だった。
「ごめんね、ソウマ。私、もう逃げない。……私が選んだ世界で一番のバカだから、最後まで、死ぬまで付き合ってあげる」
僕の意識は、彼女の陽薬草の甘い香りと温もりの中で、完全に途切れた。
だが、この時。
血を吐いて倒れた僕と、それを抱きしめて泣く最強の雷神の姿が。
周囲を取り囲む群衆の心に、どんな経済理論も及ばない「恐ろしいほどの感情の爆発」を引き起こそうとしていることに、僕はまだ気づいていなかった。




