EP 5
幻想の伝染(経済のバグ)
ルナキン・ポポロ支店の裏口にある汲み取り式トイレ。
ひどい悪臭が立ち込める中、僕は左腕を包帯で吊ったまま、右手一本で必死に便器を磨き続けていた。
「……ソウマ先生。もうその辺にしときなはれ。顔面、蒼白通り越して土気色になっとるで」
ニャングルが鼻をつまみながら、呆れたような、それでいて畏れを見るような目で僕を見下ろしていた。
「いえ……ここで手を抜いたら、ポポロ券の価値が下がりますから」
僕は荒い息を吐きながら、ブラシを動かす手を止めなかった。
あの日、子供と交わした「約束」。
それを守るため、僕は村人が持ち込んでくるポポロ券の対価として、薪割り、水汲み、便所掃除、ありとあらゆる雑用を文字通り「命を削って」請け負っていた。
金という絶対的担保がない以上、この木札の価値を裏付けるのは、僕自身の「血と汗」しかないのだ。
「あんたのその狂った働きぶりのおかげで、村の連中も完全に『どんぐり木札』を信じ込んでもうたわ。……だが、帝国に物流を封鎖されとる現実は変わらん。店に出す食材が……」
ドゴォォォォォンッ!!
ニャングルの言葉を遮るように、村の広場に鼓膜を破るような轟音が響き、土煙が舞い上がった。
「ソウマーーーッ! 買ってきたよ!!」
土煙の中から現れたのは、両手に巨大な木箱を抱えたキャルルだった。
木箱の中には、隣国レオンハートの新鮮な小麦、肉、そして帝国ではお目にかかれない甘いイチゴが山のように積まれている。
「国境の検問、どうやって抜けたんや!?」とニャングルが目玉を飛び出させる。
「え? 検問所の兵士が『止まれ』って言う前に、マッハで上空を飛び越えてきただけだけど? なんか大砲撃たれた気がしたけど、遅すぎて止まって見えたし」
キャルルは平然と言ってのけ、木箱をドンッと置くと、一直線に僕の元へ駆け寄ってきた。
そして、便所掃除で泥と汗にまみれた僕の作務衣に構わず、ギュッと抱きついてきた。
「ねえ、頑張ったよ。私、ソウマのためにすっごく速く走ったよ。……だから、撫でて? いっぱい、ずっと撫でて?」
彼女の赤い瞳が、熱を帯びて僕を見上げる。
その目は「もし撫でるのをやめたら、今度はあっちの検問所ごと更地にする」と静かに告げていた。
(……相変わらず、重すぎる依存だ。でも、今はこれに頼るしかない)
「ありがとう、キャルルさん。最高に優秀な運び屋だ」
僕は泥だらけの右手で、彼女の兎耳をゆっくりと、丁寧に撫で続けた。
彼女の喉からゴロゴロと猫のような音が鳴る。
武力で突破すれば「反逆罪」だが、音速での「密輸」なら帝国軍のシステム(検疫)は機能しない。ヤンデレの狂気的な愛情が、完全にポポロ村の「超高速インフラ」として組み込まれた瞬間だった。
***
その日の夕方。
ルナキン・ポポロ支店の店内には、信じられない光景が広がっていた。
「頼む! この銀貨で、そのイチゴのタルトを売ってくれ!」
「申し訳ありまへん。当店、本日から『ポポロ券』のみの決済となっております。帝国金貨はお断りや」
ニャングルが、無情にもルナミス帝国の駐留兵に言い放つ。
「ふ、ふざけるな! 帝国の金だぞ! なぜこんな木切れ(どんぐり)の方が価値があるんだ!」
「そんなんワイに言われても困りますわ。……でも、ソウマ先生の畑の草むしりを1時間手伝えば、1ポポロ券貰えまっせ。それでタルトも、サウナもいけますけど、どうしまっか?」
兵士たちは顔を見合わせた。
帝国の本国からは「兵糧攻め」の命令が出ているため、彼らへの配給もギリギリに絞られている。金貨を持っていても、この村では一枚のパンすら買えないのだ。
「……くそっ! 俺は便所掃除をやる! 3ポポロ券だ!」
「俺は薪割りだ! 昨日からレオンハートの肉の焼ける匂いで頭がおかしくなりそうだったんだ!」
誇り高きルナミス帝国の兵士たちが、次々と武器を置き、腕まくりをして村の雑用を奪い合い始めた。
(……感染した)
僕は店の奥から、その光景を静かに見つめていた。
金貨という「国家の暴力」が、どんぐりの木札という「村の信用」に敗北したのだ。
ユリウスが敷いた冷徹な経済封鎖の檻は、僕たちが作り出した独自の経済圏によって、完全に食い破られていた。
「……面白いものですね」
いつの間にか隣に立っていたリバロンが、呟いた。
「武力を使わず、ただ『幻想』を書き換えただけで、帝国の軍隊が我々のために汗を流している。ソウマ様、あなたは本当に恐ろしい方だ」
「……恐ろしいですよ、本当に」
僕は、ズキズキと痛む左腕を抱えながら、自嘲気味に笑った。
(貨幣とは、神様と同じだ。みんなが信じるから、そこに存在する。……僕は今、帝国の神様を殺して、新しい神様をこの村に生み出してしまったんだ)
しかし、帝国の超エリート官僚であるユリウスが、この異常事態を黙って見過ごすはずがない。
幻想には、幻想の殺し方がある。
僕たちの作り上げた脆弱な「信用」を、根底から破壊する真の絶望が、すぐそこまで迫っていた。




