EP 2
『論語』の死と、飢餓の足音
特任監査官ユリウスが去った翌日から、ポポロ村は「見えない真綿」で首を絞められるような息苦しさに包まれた。
「……ソウマ先生。あきまへん、完全に干上がりましたわ」
ニャングルが、いつものキセルを吹かす気力もなく、力なく算盤を弾いた。
「ゴルド商会の裏ルートも、隣国からの行商人も、全部国境の検問で止められとる。武力制圧やない。ただ『帝国法に基づく正規の検疫と監査』っちゅー名目で、書類の審査にわざと何ヶ月もかける気や。……米一粒、塩一つかみすら、この村には入ってこん」
彼の言葉に、同席していたリバロンが重々しく頷いた。
「私の隠密部隊を使って、力ずくで突破することも可能ですが……それをすれば、ユリウスの言う通り『帝国への反逆』という大義名分を与え、10万の軍勢が合法的になだれ込んでくる。手も足も出ません」
経済封鎖。
それは、血を流さずに標的を真綿で絞め殺す、最も冷酷で効率的な兵器だった。
つい先日まで活気に満ちていた「ルナキン・ポポロ支店」の棚からは、あっという間に食材が消え失せた。前回の騒動で畑の太陽芋も焼かれてしまい、次の収穫まではまだ時間がかかる。
(……このままじゃ、本当に村全体が餓死する)
焦燥感に駆られた僕は、国境線に設置された帝国の「臨時監査所」へと足を運んだ。
テントの下で、ユリウスは優雅に紅茶を飲みながら書類に目を通していた。
「……何の用ですか、草壁颯真。書類の不備なら、窓口はあちらですが」
彼はこちらを見ようともしない。
「封鎖を解いてください。この村には、老人や小さな子供もいるんです!」
僕は机に手をつき、必死に訴えかけた。
「孔子は『論語』で説いています。政治の要諦とは『食を足らし、兵を足らし、民之を信ず』であると。あなたがやっていることは、民から食と信頼を奪う、ただの暴政じゃないですか!」
僕の言葉を聞いたユリウスは、持っていた万年筆を置き、初めて僕の目を見た。
その薄青い瞳の奥底にあるのは、やはり「絶対零度の無関心」だった。
「トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』をご存知ですか?」
「……え」
「『人間は人間にとって狼である』。……強力な統治システム(国家)による資源の独占管理がなければ、人間は自己の利益のために奪い合い、獣へと堕ちる。それが人間の本性です」
ユリウスは、立ち上がり、僕を見下ろした。
「あなたの説く『徳』や『信頼』は、極めて属人的で脆弱なエラー(バグ)に過ぎない。現に、あなたの言葉は美しいが、誰の胃袋も膨らませてはいない。……帝国法という巨大な『数字』の前では、あなたの思想など無価値です」
「くっ……」
「これ以上、帝国兵の治安維持コストを無駄にさせないでいただきたい。大人しく、法に従って餓死しなさい。……お引き取りを」
言葉が、通じない。
僕の最大の武器である「教養(論語)」が、近代国家の冷徹な「システム(リヴァイアサン)」の前に、あっけなく粉砕された瞬間だった。
(怖い……。物理的な暴力より、よっぽど恐ろしい)
僕は逃げるように監査所を後にし、ふらつく足で村へと戻った。
村の広場は、重苦しい空気に包まれていた。
昨日まで一緒に芋煮を食べて笑い合っていた三カ国の駐留兵たちも、配給が止まったことで腹を空かせ、イラ立ち、いつ暴発してもおかしくない険悪な雰囲気を漂わせている。
広場の隅では、小さな子供がお腹を空かせて泣いていた。
「……ソウマ」
ふと、背後から底冷えするような声がした。
振り返ると、キャルルが立っていた。
彼女の目は完全に据わり、手には巨大なダブルトンファーが握られている。
「あいつのせいだよね。あの眼鏡の男が、ソウマを困らせてるんだよね」
「待って、キャルルさん! 今手を出したら……!」
「大丈夫。ソウマには絶対に迷惑かけない。……私一人で、あの検問所と、国境の10万の軍隊、全部マッハでミンチにしてくるから」
彼女の兎耳が、怒りと殺意でブルブルと震えている。
ヤンデレ雷神の暴走。彼女は本気だ。本気で一人で帝国軍に突っ込み、村人を、いや「ソウマの日常」を守るために大虐殺を起こそうとしている。
僕は咄嗟に手を伸ばし、彼女の細い腕をきつく掴んだ。
「ダメだ!!」
「……っ、離して、ソウマ! このままじゃ、ソウマが死んじゃう! 私はそんなの絶対に嫌だっ!!」
キャルルが悲痛な叫び声を上げる。
その震える声を聞いて、僕の胸が締め付けられた。
(……僕が、なんとかしなきゃいけないんだ。武力でもなく、道徳でもない。この『経済の檻』を破壊するための、別のバグを)
ユリウスは言った。「数字の前では無価値だ」と。
ならば、僕たちで新しい『数字』を創り出せばいい。
僕はキャルルを強く抱きしめて落ち着かせながら、頭の中で図書館の記憶をフル回転させた。
帝国が金貨を使わせないなら。
帝国が物資の流通を止めるなら。
(……カール・マルクスの『資本論』、あるいはデヴィッド・グレーバーの『負債論』……!)
貨幣とは何か。
それは金や銀そのものの価値ではない。人間同士の「信用」と「負債」を数値化した、ただの幻想だ。
「……作ろう」
僕は、自分でも驚くほど冷たい声で呟いた。
「え……?」
腕の中で、キャルルが不思議そうに見上げる。
「金貨がないなら、僕たちで『お金』を作ればいい。……帝国のシステムを根底からハックする、僕たちだけの貨幣を」
僕の背筋を、武力とは別の、もっと恐ろしくて黒い「何か」が這い上がるのを感じた。
それは、神の領域である「システム(貨幣)」の創造という、取り返しのつかない禁忌へ手を伸ばそうとする、僕自身の狂気だった。




