第二章 信用崩壊と、狂気の紙幣(ポポロ・ノート)
冷徹なる数字の刃と、逃げられない檻
ポポロ村の朝は、いつだって湿った土の匂いから始まる。
「よいしょ……っと。うん、だいぶ水はけが良くなりましたね」
僕は泥だらけの作務衣の袖で額の汗を拭いながら、クワを土に突き立てた。
前回の「大芋煮会」以降、村の空気は劇的に変わっていた。いがみ合っていた三カ国の駐留兵たちは、今や非番のたびに僕の畑仕事を手伝い、報酬としてニャングルの店で芋酒を煽るという、のどかな日々を送っている。
「ソウマ、お水! 冷たいうちに飲んで!」
パタパタと足音を立てて、キャルルが木製のコップを両手で包み込むようにして駆け寄ってきた。
兎耳をピンと立て、尻尾を揺らす彼女の姿は、とてもじゃないがマッハ1で兵士を粉砕する「雷神」には見えない。僕は「ありがとう」と微笑み返し、冷たい井戸水を一気に飲み干した。
平和だ。
暴力の世界のド真ん中に、僕たちは確かに「非暴力の箱庭」を創り上げたのだ。
――そんな僕のささやかな自惚れは、一台の静かな馬車によって粉々に打ち砕かれることになる。
カパッ、カパッ……。
広場に、軍馬ではない、白く美しい毛並みの馬に引かれた帝国の馬車が滑り込んできた。
護衛の兵士は一人もいない。
馬車の扉が開き、コツン、と磨き上げられた革靴がポポロ村の土を踏む。
降り立ったのは、一人の青年だった。
仕立ての良い純白の帝都官僚の制服。一切の乱れがないプラチナブロンドの髪と、銀縁の眼鏡。
その眼鏡の奥にある薄青い瞳には、人間らしい感情の揺らぎが、ただの1ミリも存在していなかった。
「……初めまして。草壁颯真、とお見受けする」
透き通るような、だが酷く無機質な声。
青年はゆっくりと僕の前に歩み寄り、一礼もせずに一枚の羊皮紙を差し出した。
「私はルナミス帝国財務省、特任監査官のユリウス。……本日は、皇帝陛下の直命により、このポポロ村に『帝国特別依存法』の適応を通達に参りました」
(……監査官? 兵士じゃなくて?)
僕は泥を払って羊皮紙を受け取った。
隣で、キャルルが警戒するように僕の服の裾をギュッと握る。
背後からは、いつの間にか気配を消して現れたリバロンが、ユリウスの喉元へ鋭い視線を送っていた。
「特別依存法……ですか。随分と物々しい名前ですが、要件は何でしょう。僕はすでに、帝国から追放された身のはずですが」
平静を装いながら、僕はユリウスの目を見つめた。
その瞬間。僕の背筋を、今まで味わったことのない「異質な悪寒」が駆け抜けた。
(……なんだ、この人。リバロンさんの時みたいな『殺意』が、全くない……?)
そう、殺気がないのだ。
彼からは「憎しみ」も「怒り」も、あるいは「見下すような優越感」すら感じられない。
まるで、ただ道端の石ころの数を数えるような、完全な【無関心】。
ユリウスは、僕の問いに表情をピクリとも変えずに答えた。
「端的に申し上げましょう。帝国法第42条第8項に基づき、本日ただいまを以て、ポポロ村の全資産、金貨、および近隣都市との全物流ルートを『100%凍結』します。……以降、この村から一本の大根を持ち出すことも、一枚の銀貨を受け取ることも、帝国の法が禁じます」
「……なっ!?」
あまりの言葉に、僕は息を呑んだ。
それはつまり、完全なる経済封鎖。兵糧攻めだ。
「おい、ルナミスの犬」
低く、ドス黒い声が響いた。
次の瞬間、ユリウスの銀縁眼鏡のすぐ横に、鋼鉄のダブルトンファーがピタリと添えられていた。
キャルルだ。彼女の赤い瞳孔は縦に割れ、圧倒的な殺意をユリウスに向けている。
「私から、ソウマとの平和な日常を奪う気? ……今すぐその紙を食いちぎって土下座しないと、首の骨を粉々に砕いて、帝国まで蹴り飛ばすよ」
キャルルのトンファーからバチバチと紫電が迸る。
その殺気を背後から浴びせられれば、屈強な獣人兵ですら失禁して泡を吹くはずだ。
だが。
ユリウスは、首元にあるマッハ1の凶器に一瞥もくれず、ただ手元の懐中時計をパチンと開いた。
「どうぞ、お好きに」
「……え?」
「私の心拍と体温は、この魔導時計を通じて帝都の軍令部に直結しています。私がここで脈を止めれば、それを『合図』として、国境に待機している10万の帝国軍が、直ちにこの村へ『叛逆罪の鎮圧』に向けた一斉砲撃を開始します」
ユリウスは、初めて眼鏡の奥の目を細め、キャルルを見た。
「あなたの暴力で、私一人は殺せる。だが、数万の魔導砲火から、この村の老人や子供を守りきれますか? ――さあ、計算はお済みでしょうか」
キャルルの動きが、完全に停止した。
圧倒的な暴力が、冷徹な『システム』の前に無力化された瞬間だった。
(……ダメだ。この人は、これまでの連中とは根本的に違う!)
僕の膝が、カクカクと音を立てて震え始める。
胃液が逆流しそうなほどの恐怖。
剣を向けてくる相手なら、『論語』の徳や、僕の捨て身の覚悟で心を揺さぶれるかもしれない。
だが、この男は違う。
僕たちを「人間」として見ていない。ただ盤上の「数字」として、極めて合法的に、淡々と処理しようとしているのだ。
「キャルルさん、トンファーを収めてください」
僕は、震える声を必死に腹の底に押し込み、キャルルの前に立ち塞がった。
「ソウマ……でも、こいつ……!」
「いいから。僕たちは、帝国に弓を引く気などありません」
キャルルは唇を噛み締め、悔しげにトンファーを下ろした。
僕は、冷や汗で滑りそうになる手を固く握りしめ、ユリウスに向き直った。
僕の武器は「本」しかない。過去の偉人たちが残した、言葉の盾だけだ。
「……ユリウスさん。『論語』にはこうあります。政を為すに徳を以てすれば、譬えば北辰の其の所に居て、衆星の之に共うが如し、と」
僕は、必死に彼の中に眠る「人間性」に語りかけた。
「力や法で民の首を絞めても、決して真の繁栄は生まれません。帝国がこの村を無理に封じ込めれば、いずれ帝国自身の首を絞めることになりますよ」
ユリウスは僕の言葉を最後まで聞き届けた後。
小さく、本当に小さく、哀れむようなため息をついた。
「……素晴らしい教養だ。ですが、草壁颯真。あなたのその美しい『徳』とやらで、明日の朝、10万の兵士の胃袋は満たせるのですか?」
「っ……」
「数字こそが世界の真理です。不確かな道徳など、冷害の年の帳簿の前では何の役にも立たない。……大人しく、村ごと餓死してください。これは決定事項です」
ユリウスはそれだけ言い残すと、僕の反論を待たずに背を向け、馬車へと乗り込んでいった。
カパッ、カパッ……と、馬車が遠ざかっていく。
広場には、圧倒的な絶望と沈黙だけが残された。
(……どうしよう。言葉が、全く通じない)
僕の手のひらには、彼から渡された一枚の羊皮紙。
それは、ポポロ村という小さな箱庭を完全に密閉し、僕たちをゆっくりと窒息死させる、逃げ場のない「合法的な死刑宣告」だった。




