㉑
――それから数日後。
ネロは探偵社の面々と共に、エレーヌを見送るため、ロンドン・ブリッジ駅に来ていた。
エレーヌはすっかりネロに懐いて、昨日などはネロの部屋に泊まったくらいだ。
手を繋いで駅舎を進む。しかし、改札口の前にいる祖父母を見ると、
「おじいちゃん! おばあちゃん!」
と目を輝かせ、老夫婦に駆け寄った。
「私たちの可愛いエレーヌ、大きくなったね」
フランス訛りの英語が、彼女を温かく迎えたのを見て、ネロは寂しさを誤魔化すように、めいっぱいの笑顔を浮かべた。
「またいつでも会いに来てね。今度は手料理をご馳走するから」
クイーンも大きく手を振る。エレーヌもこちらを見て、
「うん! また遊んでね!」
と元気に手を振り返した。
その横で、警備を任されたワットソン警部補が得意げに言った。
「ガルシア夫妻の経営するワイナリーのスパークリングワインが良いと聞いてね。パパに紹介したんだ。そしたら、資本提携をして専売にするって話になったんだよ」
エレーヌの未来も明るそうだ。
ネロは目尻の涙を誤魔化すように、改札口の奥にその姿が消えるまで、手を振り続けた。
「……さて、私たちも帰るとしようか」
キングの声で、一同は改札口に背を向けた。
――その時。
ふと何かが気になって、ネロは振り返った。
そして、見知った顔を見つけて目を丸くした。
孤児院時代、彼と共に「落ちこぼれ組」にいたマーロウだ。
ネロより先に誕生日を迎えて孤児院を出ていたが、彼もロンドンに来ていたとは。
「すいません、後で戻ります」
ネロはそうジャックたちに声を掛け、彼を追った。
マーロウは改札口に向かっているようだった。人混みを縫うように進む彼を追いかけながら、ネロは声を上げた。
「マーロウ! 久しぶりだね!」
彼はネロを振り返った――その顔は蒼白で震えている。
「どうしたんだい?」
驚いたネロは駆け出した。するとマーロウは叫んだ。
「来ちゃダメだ!」
彼は、まるでネロから逃げるように改札を抜けると、ホームの方へと走っていく。
その先に、祖父母と両手を繋いだエレーヌの姿が見えた。
「どうしたんだろ……」
改札の手前で立ち止まって、ネロはその背中を見送った。
――その時だった。
「伏せろ!!」
ジャックの手が、ネロの頭を押さえつけた。
転がるように床に倒れた彼の体に、ジャックが覆いかぶさる。その直後――。
耳を裂くような轟音が響いた。
地面が揺れ、柱が倒れ、バラバラと天井が崩れ落ちる。
悲鳴や怒号がそこかしこから湧き起こった。
しかしこの恐慌も、すぐに沈黙と入れ替わる。
……その数秒後。
ネロが恐る恐る顔を上げると、静まり返った駅に、立っている人はいなかった。
瓦礫の下から伸びた足。
血の海に転がった首。
助けを求めるように震える手。
それらが、粉塵のスクリーンを通して、灰色に褪せて見えていた。
動かない灰色の背中の下から、割れるように泣く赤ん坊の声が聞こえた。
「…………」
言葉を発することもできずに、ネロはただその光景を眺めていた。
彼の背中で、ジャックが動いた。
「大丈夫、か……」
振り向けば、ジャックのくすんだアメジスト色の目があった。
しかしその目はすぐに閉ざされ、彼はバタリと床に倒れた。
「……あぁ…………」
行き場のない感情が、ネロの体を駆け巡る。
死に満たされた空間で、ネロはそれをどうしようもできなかった。
彼は頭を抱えた。
「うわあああああああ!!」
――――――――
ブラウン先生の診療所。
キングに運び込まれたジャックは、
「だから、心臓が止まる前に連れて来いと、何度も言ってるだろ!」
と文句を言うブラウン先生に、心臓マッサージを受けていた。
彼女のスキルは、キング曰く「直接手術」。
彼女の手が皮膚を通過して、内部に直接、施術を施すのだ。
皮膚を切らない分、回復が早い。けれど、骨や内臓を直接いじられるから、それ相応の苦痛はある。
「手が足りない時は口も使う。従軍医時代には『人喰いウィッチ』と恐れられていたよ」
キングは笑ったが、その声に力はなかった。
ブラウン先生のおかげで、ジャックの心臓も動きだしたようだ。
彼女は汗を拭いつつ、ふうと息を吐いた。
「男の心臓は単純だから、キンタマを握り潰す勢いで揉んでやりゃ動く」
……微妙な気持ちでそれを聞きながら、ネロはジャックに歩み寄った。
静かに目を閉じた彼は、体じゅうに包帯が巻かれていた。倒れた柱の下敷きになるところだったネロを庇ってくれたのだ。
「バラバラだった骨と神経は繋いどいた。くっつくまで動かないように見張ってな」
ブラウン先生はそうネロに言って、血まみれの手を洗いに行った。
ネロの肩が震える。
「ごめんなさい……僕が、勝手なことをしたから……」
そんな彼の肩に、そっと手が置かれた。キングだ。
「まだ彼は、しばらく眠っているだろう。少し、時間はいいかな?」
待合室に場所を移す。
キングはネロの正面に座って、糸のように細い目を彼に向けた。
「君が追いかけた少年について、詳しく教えてくれるかな?」
「はい……」
ネロは顔を上げる。
「孤児院の仲間だったマーロウです」
「彼はどうしてロンドンに来たのか、知ってるかい?」
「知りません……けれど、孤児院の子供たちはみんな、ロンドンに憧れていたと思います。僕たちの世話をしていた修道士さんがよく言ってました……ロンドンは戦火に焼かれたことがない、素晴らしい街だって」
キングは眉を上げる。
「君もそれを聞いて、ロンドンを目指したんだね?」
「はい。炭鉱で働くのは嫌だったし……そんなに素晴らしい街なら、僕の居場所があるんじゃないかって」
「彼のスキルは?」
「確か、『猫と会話ができる』だったと思います。なんの役にも立たないスキルだから、僕と同じ、落ちこぼれ組にいました」
「落ちこぼれ組、ね……」
キングは腕を組む。
「彼も君と同じように、就職のための身分証を渡されたんだろうね」
「そうだと思います」
ネロはキングの質問の意図が分からず、首を傾げた。
「それが何か?」
キングは言葉を選ぶように、ゆっくりと答えた。
「彼は、アイルランド独立義勇軍の、自爆テロ要員だった可能性が高い」
ネロは息をのむ。
「そんな……」
「言いにくいけど、君もジャックに出会っていなければ、彼と同じ境遇になったかもしれないんだ」
その言葉は、ネロの脳裏をぐるぐると巡った。
クラクラする頭を抱えて、ネロは呻いた。
「彼が、自爆テロ……」
「彼は悪くない。彼をそうやって使った大人が悪い」
キングはきっぱりと断言する。
「そういう風に彼を追い込んだ、彼を取り巻く人たちも同罪だ」
ネロの中で、何かがガラガラと崩れ落ちた。それは、孤児院という何の虚像だった。
……思えば、心当たりがある。
スキルでの振り分けがあり、優秀な子供は里子に出されるのだが、迎えに来るのは必ず、独立義勇軍の兵士だった。
それだけではない。定期的に射撃の訓練があった。
一応は「職業訓練」という名目だが、渡されたのは軍用銃。
はじめのうちは、板や藁束を的に練習をする。
それが試験の時は、黒い布で覆われた人形だった。
銃を渡されたネロは、けれど銃口を向けられなかった。
「どうした?」
見下ろす兵士に、彼は答えた。
「撃てないよ。あの人形の中身は、生きてる人だもん」
彼には見えていた――人形の中の人物が、怯えながらジャガイモを口に運ぶ様子が。
それから、ネロは「落ちこぼれ組」に入れられ、冷遇を受けるようになったのだが、そこにはマーロウもいた……。
「ううう……」
頭を抱えたまま、ネロは首を横に振った。
「そんな……僕は……」
キングは、一見穏やかに見える表情を彼に向けている。
「私は、君と出会えたことを、心より幸運に思う」
「でも……でも……」
ネロは涙で濡れる目を上げた。
「エレーヌは……」
キングは手に握ったものを差し出す。
それは、千切れた蝶のネックレスだった。
口を押さえて長椅子に突っ伏す。
悲鳴とも嗚咽とも分からないものが、ネロの口からあふれ出す。
そんな彼に、キングは静かに語った。
「ジャックはね、少しだけ先の未来が見える。けれど、たった三秒では誰も助けられないと、いつも彼は悔しがっていた。でもね、それは私も同じなんだ。探偵として、いつも未来を見ようとしている。けれど現実では、予期できないことばかりが起こる。悔しいのは、私も同じだ。何もできず、ただ立っていただけの私には、君を助けられたジャックが羨ましい」
ネロは顔を上げられない。身をよじって、持っていき場のない感情を抱えているのが精一杯だった。
キングは立ち上がった。穏やかな足音が立ち去った後、ネロは声が枯れるまで叫んだ。




