⑲
スコットランド・ヤードを出た後、ジャックは、フルハタ警部の「探偵社まで送りますよ」という申し出を断り、一人、夜のロンドンを歩いていた。
このまま探偵社を去るべきだろうと、彼は考えていた。
仲間たちの顔が浮かぶ。
こんな俺にも温かく接してくれた彼らを、これ以上傷つける訳にはいかない。
自然と足がテムズ川に向かう。岸壁に立ってタバコを取り出し火をつける。
……このまま川の藻屑になれば、全て丸くおさまるんじゃないか。
街の灯を映す川面を眺めていると、ついそんな思いが頭をよぎる。
思えば、ノリッジの研究所にいた頃から、漠然と死を望んでいたように思う。
自分の存在を数字でしか認識できない人間に、どんな価値があるというのかと。
キングに救い出された後、ようやく居場所らしきものが与えられたが、それも、彼に適した死に場所を選別するためのものだと思っていた。
数え切れない死別の中で、ここまで生きてしまった罪悪感が、ずっと心に居座っている。
だから、「死ぬのは今だ」と認識すれば、命を捨てるのに躊躇などない……はずだ。
すると、隣に気配があった。
まるでニンジャのように、視界に入るまで気配を悟らせない……そんな芸当ができるのは、ジャックの知る限り一人だけだ。
「ジョーカー、何の用だ?」
無骨な彼はボソリと答えた。
「川が、見たくなった」
ジョーカーの本名は知らない。イクリプス時代は「エラリー・スペンサー」と名乗っていた。
彼はキングと同期だが、管理官であるキングよりも階級は下。前線を渡り歩き、格闘の腕は帝国軍随一と言っても過言ではない。
――そして、そんな彼もまた、研究所の出身だった。
とはいえ、その頃はまだ、「ノリッジ能力開発研究所」は存在しなかった。その前身となる組織で研究対象とされていたのだが、「視界に入ったスキルを無効化する」というスキルのせいで、研究が頓挫し、追い出された。
長い前髪で隠している右目付近の痣は、研究を頓挫させた際の事故によるものらしい。
眼帯で失った右目を隠し、左目だけで生きる彼が、探偵社に顔を出すことはない。 「スキル無効化スキル」が、クイーンが考案した事務所のセキュリティシステムを無効化するからだ。
いつもひとり、人知れず街に潜んで、感情のない灰色の左目で、街の行末を眺めている。
そんな生い立ちのせいか、彼は無口だ。
ジャックと顔を合わせることもない。ジャックのスキルを邪魔しないよう、彼なりに気遣っているようだ。
肩を並べて川面を眺めていると、ジョーカーはボソリと呟いた。
「悔しいんだ」
「何が?」
「あの男を、逃がしたの」
『隻眼の死神』という異名の彼には、妙に子供じみたところがある。このセリフも、そんな負けず嫌いな一面から出たのだろう。
ジャックは苦笑した。
「あぁ、悔しいな」
ジョーカーは手すりに肘を置く。
「どうやったらあの男を倒せるか、ずっと考えてたんだが、一人では無理そうだ」
「確かにな」
「おまえの力が必要だ」
ジャックは驚いてジョーカーを見た。彼は気まずそうに目を逸らした。
「おまえだけじゃない。探偵社みんなの力を合わせないと無理だ」
「…………」
「勝手にどこかに行くとか、そういうのは、ナシで頼む」
口下手な狂戦士は、コートの襟を立てて首を竦める。そして逃げるように、街の闇へと消えていった。
「…………」
幾多の戦場で互いに背中を任せた仲だ。ジャックの考えていることくらい、お見通しなのだろう。
ジャックはタバコを捨て、テムズ川に背を向けた。
――確かに、あの男に俺の人生を支配されるのは癪に障る。
それ以前に、あいつを野放しにしておいては危険すぎるのは、誰の目から見ても明白だ。
どうせいつかは死ぬ。
なら、あいつを葬って、自由になってから死んだって遅くない。
そう考えると、未来を向けそうな気がしてきた。
ジャックは小さく「サンキュ」と呟き、ジョーカーを追うように街に向かった。
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その頃、『ベイカー通り探偵社』では、客人を迎えていた。
「はーい、マスター特製タルトタタンよぉ〜! 閉店準備をしてるところに無理矢理押しかけて、作ってもらったのよぉ〜!」
クイーンが皿をテーブルに置く。
キングは彼女に苦笑いを向けた。
「よくマスターが、フランス菓子を作ってくれたものだね」
「別に頼んでないわよ。『私が作るからキッチンを貸して』って言ったら、絶対に手を出すなって言うんだもの」
キングの頬が引き攣る……クイーンは当初、喫茶ハドソンの従業員として雇われたのだが、彼女の料理に対する奔放さにマスターが音を上げて、探偵社で引き取ってくれと泣きついてきた経緯がある。
「おいしそう、食べていいの?」
そうクイーンを見上げたのは、主賓である小さなレディー――エレーヌ・ガルシアだ。
警察病院で診察を受けたところ、体に問題はなさそうだった。そのまま入院する手筈だったのだが、診察に付き添った看護婦が渋い顔をした。
「この子、お腹を見せてと頼んでも、見せてくれないのよ。何かを隠してるみたい」
「警察内部に内通者がいるとなると、警察病院も安全とは言い切れません」
頭を悩ませるフルハタ警部に、キングが提案した。
「ロンドンで一番安全な場所を知ってるけど、そこで預かるのはどうかな?」
「そんじゃ、今夜はうちに泊まるの?」
ファイブがソファーの上でピョンピョンと跳ねた。
「一緒にトランプしようよ。賭けとかないやつ。すごろくもいいな。ボクのとっておきのロボットも見せてあげる」
「残念ながら、ファイブ、うちじゃないよ」
キングはクイーンに顔を向ける。
「『インド洋コンツェルン』の御曹司の家なら、ブラック・スワンと言えど、手は出せないよ」
「あら、楽しみね。一緒にお風呂入りましょ」
クイーンはニコリと笑った。
「あそこのシェフはフランス仕込みなの。美味しいものがいっぱい食べられるわよ」
口いっぱいにタルトタタンを頬張って、エレーヌ・ガルシアは首を傾げた。
「ママも一緒なの?」
沈黙が一同を支配する。
彼女には、母の死を伝えていない。
キングは精一杯の柔らかい口調で言った。
「ママにね、おじさんがお仕事を頼んでしまったんだ。しばらくおうちに帰れないから、代わりに、そのお姉さんと一緒に寝られるかな?」
エレーヌは大きな目でキングを眺めていたが、やがて「うん」とうなずいた。
和やかな食事があった。ファイブとクイーンは遠慮なくタルトタタンに手を伸ばし、ネロが少し離れたところで遠慮がちに口にする。
エースの姿はない。
ブラウン先生の「神の手」による治療で一命は取り留めたものの、しばらくは入院になる。
ジャックは……戻ってくると、キングは信じていた。
一通り食事が終わると、キングはさり気なさを装って、小さなレディーに訊ねた。
「ママから預かっているものがもしあれば、なくさないよう、おじさんが預かりたいんだけど、いいかな?」
途端にエレーヌは警戒する。
「ダメ。ママと約束したもん。『ブロンドの髪の毛のおにいちゃん』にしか渡しちゃダメって」
ジャックから事情は聞いていた。エースのことだと、キングには分かった。
しかし、彼は未だ昏睡状態だ。エレーヌと会話ができる段階にない。
「えー、おねえさんでもダメー?」
クイーンが顔を寄せるが、エレーヌは口を尖らせる。
「おばちゃんもダメ」
「お、おばちゃん……」
クイーンはショックを受けて白目を剥いた。
「じゃあボクは? おにいちゃんだよ」
ファイブが名乗りを上げる。
「うーん……髪の毛の色が違う」
すると、黙って様子を見ていたネロが立ち上がった。
「じゃあ、こういうのはどうかな? 渡さなくてもいいから、僕の宝物と見せ合いっこするのは」
彼はそう言って、シャツの下からペンダントを取り出した。
「これは僕の宝物だよ。子ヤギの乳歯のペンダント」
途端にエレーヌは興味を持った。
「おにいちゃん、ヤギ、見たことあるの?」
「うん。僕が小さい頃にいた場所は、ここよりずっと田舎だったから、ヤギを飼ってたんだ」
「ヤギ、かわいい?」
「うん、とても可愛いよ」
「ハイジのヤギみたいに?」
「そうだよ。とても可愛いし、賢いんだ。ほら、触ってごらん」
ネロはエレーヌに近づき、ペンダントを差し出す。恐る恐る手を伸ばしたエレーヌは、ヤギの歯に触ってニコリとした。
「歯だ!」
「うん。これで草を食べるんだ」
……その様子を見て、キングは胸を撫で下ろす。
どうやら、まだ若い彼に助けられたようだ。
クイーンから、ネロの家族のことは聞いた。亡くなった妹とエレーヌを重ねているのかもしれない。
優しすぎる嫌いはあるが、アクの強い探偵たちの中和剤になってくれそうな気配はある。
キングの見込み通り、エレーヌがワンピースの胸元からネックレスを引っ張り出した。
「エレーヌのタラカモモも見せたげる」
その小さな掌に、蝶をあしらったペンダントが置かれていた。
ネロはそれを見て、
「これは凄いものだね。まるで宝石が生きてるみたいだよ」
と目を輝かせる。エレーヌは得意げに言った。
「裏にね、パパのお手紙があるんだよ」
――一気に緊張がはしる。
ペンダントを裏返す小さな手を、クイーンとファイブが覗き込むように凝視する。
キングもまた、彼らが目にするものを固唾を呑んで見守った。
そこにあるものを見て、首を傾げたのはファイブだ。
「eのiπ乗プラス1イコール0……オイラーの等式だね」
「オイラーの等式? 何ですか、それ」
ネロが目を丸くすると、クイーンは腕を組んだ。
「理解する気があるのなら教えるわよ。三年はかかるけど」
キングは苦笑した。
「世界で最も美しいと言われる数式……そういう解釈で、とりあえずはいいんじゃないかな」
そう言ってから、キングは眉を寄せる。
その数式に、何らか意味が込められているに違いない。
恐らくは、意図しない者に見られた場合に意味が伝わらないよう、暗号的な意味合いだろう。
しかし、このシンプルで奥深い数式に、どんな意味を込めたのか。キングには理解できなかった。
そもそも、「ジェフリー・ブラックマン」というのは偽名で、ブラック・スワンの幹部であるというのも、ジャックの推察にすぎない。
死の直前、この数式を妻に贈った彼は、一体何者なのか……。




