⑫
ハイドパークの一角にある電波塔。
エースはその頂上近くにある足場に着くと、すぐさま作業に取り掛かった。
電線から電気を拝借し、無線機に繋ぐ。ヘッドホンを装着し、ダイヤルを回す。
「――こちらエース。クイーン、聞こえるか」
受話器に呼び掛ければ、すぐに返事があった。
「こちらクイーン。音声もクリアよ。今どこなの?」
「ハイドパークの電波塔だ。この辺りじゃ一番高い。これから捜索を開始する」
「了解。ずっと繋いでおくから、状況を逐一報告して」
「オーケー」
エースはヘッドホンをそのままにして、額のゴーグルを目に当てた。クイーンが開発したもので、逆光や乱反射などのノイズを調整し、視界をクリアに保つ機能がある。
「――麗しのプリンセス、ここで白馬の王子さまが待っているんだ。姿を現してくれ」
エースはそう呟くと、眼下に広がるロンドンの街並みを見下ろした。
隙間なく続く建物の列。その隙間を、バスや馬車が行き来するさまは、ワラジムシの群れのようだ。
人はと言えば、小さな蟻。ワラジムシの列の左右に、律儀な行列を作っている。
――その中から、必ずプリンセスを見つけてみせる。
エースは身を伏せ、褐色の目を大きく見開いた。
――――――――
――スコットランド・ヤード。
捜査本部の置かれた室内で、ワットソン警部補は所在なく立っていた。
ネロ・ネルソン少年との勝負だったはずが、いつの間にか、警視庁全体を巻き込む大捜索になっている。
責任者のフルハタ警部はかつて、帝国軍の幹部コースをひた走っていたエリート士官。胃が弱くなければ、今頃は将官になっていただろう。
スコットランド・ヤードに来てからは、上司と部下――主にワットソンのことだが――の板挟みとなって、本来の能力が活かせずにいた。
それが、ワットソンを一発殴ってから、憑き物が落ちたように動きだした。
各部署から入る連絡を瞬時に判断、適切な指示を出していく。
彼のスキルは、機械のごとき情報処理能力。
その仕事ぶりは、本来なら彼の補佐をすべき立場にあるワットソンが、口も手も出せない勢いのものだった。
そんなフルハタ警部の周りでは、電話や無線を取り次いだり、報告に上がったり、書類を調べたりする捜査員たちが、働き蜂のように動き回っている。
……とてもじゃないが、ワットソンの出る幕がないのだ。
彼の存在に誰も目を向けない空間にいるのがいたたまれなくなり、ワットソンは捜査本部を後にした。
誰かの視線に入るのが辛くて、そのままスコットランド・ヤードを後にする。
すると、門の傍らで待機している用心棒がすかさずやって来た。
「お坊ちゃま、お帰りですか」
「うん……」
「車を回します。どうぞこちらに」
ロールスロイスの後部座席から、ワットソンはロンドンの街並みを眺める。
人々は散歩し、喫茶店でお茶をし、マーケットで買い物をする。ごく当たり前の日常が、この時のワットソンには羨ましかった。
――つい先程まで、彼らのような低級市民は、働くためだけに生かされている、哀れな生き物だと思っていたのに。
無言のまま、ロールスロイスはベイカー通りに入った。二番街に入ったところで、ワットソンはこのまま家に帰るのが虚しくなった。
咄嗟に運転手に声を掛ける。
「車を停めて」
「かしこまりました」
路肩に停車した車の中で、しかしワットソンに目的があった訳ではなかった。
けれども、自分の『負け』を認めるのが悔しくて、彼は適当に答えた。
「お茶がしたいんだ……そうだ、あの喫茶店に寄るよ」
車を降り、彼が向かったのは「喫茶ハドソン」の看板がある店だった。
質素なガラス扉を入ると、鼻眼鏡のマスターが、
「いらっしゃい」
と無愛想に彼に目を向ける。
「どうぞ、お好きな席に」
なんとなく、一番手前のカウンター席に座る。その動きに合わせて、マスターがメニュー表を彼に差し出した。
コーヒー、か……。
低級市民が飲むものは、この程度の値段なのかと、ワットソンは期待もせずに注文する。
「コーヒーと、ミートパイを」
「あいよ」
マスターは、ネルの袋に湯を注ぐ。途端に香り立つ芳香が、間もなくワットソンの前に差し出された。
「どうぞ」
安物の白いカップを手に取る。それに口を付ければ、苦い液体が舌を刺す――はずだった。
ワットソンは目を見開く――これほどまでに深い味わいのコーヒーを、飲んだことがない。
ありとあらゆる美食を極め、日々の食事は厳選したシェフの調理したものしか口にしない。それが上級市民の当然の権利であり、下級市民を従える立場にある者の教養だと思っていた。
こんなに美味なるものが、このような安価で下級市民に供されていようとは。
そんな彼の目の前で、オープンから出されたばかりのミートパイが切り分けられる。
「あいよ」
と、その一切れが彼の前に置かれれば、たまらずワットソンはフォークを付けた。
切り分けた一口を舌に乗せれば、芳醇な肉汁とまろやかなスパイスの風味が、直接的に食欲中枢を支配してくる……美味い。
まさか、この僕が、支配される側に回ろうとは――!
瞬く間にミートパイを平らげ、二皿目を注文する。
それもすぐさま皿から消え、食べ終わるのが惜しい思いで三皿目をもらうと、その美しい色艶に感動して、ワットソンの目から涙があふれ出した。
その時、ガラス扉が開いた。
入ってきたのは、ジャックと名乗る探偵だった。
彼はカウンターの前でオイオイと泣きじゃくるワットソンを見てポカンとした。
「何してんだ、こいつ?」
「さあね」
マスターは注文も受けずに、コーヒーの用意を始める。
ジャックはワットソンの横に腰を下ろすと、無言で前を見ていた。
涙が枯れるまで泣いて、ワットソンはハンカチで目元を拭った。
そして、
「恥ずかしいところを見せてしまったね」
と呟く。ジャックは前を見たまま、
「人が感情を持つのに、恥ずかしいも何もあるもんか」
と答えた。
ジャックの前にコーヒーが置かれ、二人は黙って味わった。
先に無言に耐えられなくなったのはワットソンだ。
「君は女の子の捜索に加わらないのかね?」
とジャックを見る。彼は死んだ魚のような目をして、
「今、警察が必死になって動いてるんだ。俺の出る幕はねえよ」
とコーヒーを啜っている。
「お互い、居場所がない、ってこと、か……」
ワットソンは呟いた。
すると、ジャックがキッと、ワットソンを睨んだ。
「勘違いするんじゃねえぞ。居場所ってのは与えられるモンじゃねえ。自分で作るモンだろ」
何も言い返せない。
ワットソンは褐色の波紋に目を落とす。
「僕はこれから、どうしたらいいのだろうか……」
ジャックは静かにカップを空ける。
「パパに頭を下げるか、フルハタ警部に頭を下げるか、ふたつにひとつだ」
「…………」
朧げながら、ワットソンには分かっていた。
インド洋コンツェルンを率いる彼の父は、彼に冷たい。
コネを使って彼をスコットランド・ヤードに入れたのも、アパートメントを与えて家から追い出したのも、彼を相続争いから遠ざけたかったから。
口では虚勢を張っているが、彼が父の跡を継ぐことはないだろう。
父が見込んだ優秀な社員か、あるいは彼の知らない愛人の子が、ワットソン家を継ぐに違いない。
――ならば、ここで父に平身低頭したところで、彼の未来は見えている。
それよりは、無能を晒して市井で生きた方が、少しはマシな未来が見えるんじゃないか。
そんなことを考えていると、急にジャックが立ち上がった。
「来た」
「え?」
戸惑うワットソンの首根っこを捕まえて、ジャックは通りに目を向ける。
「ハイドパークだ」
「…………?」
「ロールスロイスの馬力は何のためにある。早く走るためだろ」
そのまま引きずられるように、ワットソンは店を出る。
そこに現れたのは、ステッキを持った、身なりのいい長身の男だった。
「キングも行くのか?」
そう問われ、男はニコリと笑みを見せた。
「久しぶりにジョーカーと連絡を取ったんだ。声を聞いたら、会いたくなってね」
用心棒が駆け寄るが、ジャックは相手にしない。ワットソンを後部座席に押し込み、自分は助手席に腰を据える。
ワットソンの横に、キングと呼ばれた男が座ったところで、ジャックは運転手に叫んだ。
「一分でハイドパークに行け。『白銀の亡霊』の気概を見せてみろ!」




