⑪
ジャックが探偵事務所に戻るのと、エースが飛び出していくのは入れ違いだった。
狙撃銃と無線機を抱え、頭のゴーグルに手を当てる。
「高いところからこの目で探す。見つけ次第、無線でクイーンに連絡する。もし追手が見えたら、狙撃して蹴散らす」
エースのスキルは、異常なまでの視力。
障害物がなく天気の良い場所ならば、二マイル先の喫茶店の看板のオススメメニューの値段が見える。
街なかで生活する分には全く意味がないが、狙撃手としては非常に有用なスキルだ。
だからジャックは、「女の子だけには当てるなよ」という当たり前の忠告をしなかった。
エースがその程度の腕ではないことを、彼はよく知っていたからだ。
エースのいなくなった探偵事務所は慌ただしかった。
相棒のエースがいないため、クイーンがファイブを助手にして、無線機をいじっている。
「こっちがスコットランド・ヤードの警察無線。こっちはロンドン市警察のもの。無理矢理繋いだけど、ちゃんと聞こえてる?」
「うん、聞こえるよ。さっきから繰り返し、女の子の特徴を説明してる。見つけ次第確保って言ってるよ」
ファイブがヘッドホンを耳に当て、ダイヤルを切り替えていく。
「見つかった様子は?」
ジャックが訊ねると、モールス信号の電鍵をカタカタと叩きながら、クイーンは首を横に振った。
「まだのようね。ここを目的地にしているとすると、ソーホーから大人が歩いて三十分ってところだけれど、道に詳しくない子供が迷子になってるのなら、探すのは難しいわね」
クイーンの武器は、工学。
学者、そして技術者として、様々な機械に精通している。重力や電気、電波など、力の流れがベクトルとして目に見えるスキルが、メカニックな作業を圧倒的に優位にするのだ。自作もすれば改造もお手のもの。
先程、エースが抱えて出て行った狙撃銃も、彼女による魔改造が施されている。
「今はエースからの連絡待ち。居場所が分かったらすぐに呼ぶわ」
クイーンはそう言って、モールス信号のやりとりに集中しだした。
「警察の人海戦術と、エースの視力に期待するしかない、か……」
手持ち無沙汰なジャックは、トランプ台で向き合う、キングとネロに足を向けた。
警察の車で一緒に戻り、顔色の良くないネロを事務所で休ませていたのだ。
ネロはトランプ台に突っ伏している。先程の必死な様子を見れば、消耗したのも無理はない。
ジャックは気づいていた――スキル以上に、ネロの持つ繊細な感覚が、死者の声を形にしていると。
その最も端的な場面が、ジェフリー・ブラックマンが最後の晩餐を行った動機を見抜いた時。
ジャックは家族というものを知らない。生まれた場所も、両親の顔も、彼のルーツとなるものの記憶が一切ない。
――物心ついた時には、とある研究施設にいた。
そんな風だから、ジェフリー・ブラックマンが家族に対して持ったであろう感情の機微を、彼は理解できていなかった。一家の団欒というものがどのようなもので、何を目的とするものか、考えたこともなかった。
不幸な身の上ではあるのだが、温かい家庭――家族というものを知っているネロは、ジャックに欠けたものを持っている。
ジャックがどれだけ欲しても、決して手に入れることのできない、探偵として最も大切な素質を。
トランプ台近くの椅子に座る。ポケットからタバコを取り出し、だがジャックはすぐさまポケットに戻した。ネロの休息の邪魔をしたくない。
ぼんやりと天井を眺めていると、キングがジャックに顔を向けた。
「少し奇妙に思っていることがあるんだ」
彼は糸のように目を細めたまま、あごに手を当てる。
「――なぜ、ジゼル・ガルシアは、ロビン・クロウと名乗る者からの電話一本で、ホテルを出たんだろう……しかも、非常階段という、人目につかない経路を選んで」
「ロビン・クロウの正体を知らなかったんだろ」
「それなら尚更、幼い子を持つ女性が、知らない者の指示に従うとは思えないんだ」
ジャックは椅子から身を起こす。
そして無言で、見開いた目をキングに向けた。
――やはり俺には、人の心が欠けているようだ。
キングは続ける。
「警戒心の強い女性に、不自然に思わせることなく言うことを聞かせる方法には、何がある?」
ジャックはすぐさま答えた。
「――警察官だと騙る」
「そうだね。『ご主人がブラック・スワンの幹部であり、組織に命を狙われている。君たちの身の安全確保のために、警察で身柄を保護する』なんて言われたら、従いたくもなるだろう。彼女に警察官だと信じ込ませれば――あるいは、すでに警察内部に潜入させている手下を使えば、娘を逃がす時に『ポリスボックスに行け』と伝えなかった理由も分かる」
ジャックは眉間に皺を寄せた。
「相手はこちらが考えているより、用意周到だった訳か」
「ロビン・クロウ――それがもし『彼』なら、そのくらいのことはやりそうだね」
ジャックの脳天を電撃が貫く。
サウス・ケンジントンに現れたファントム――あれが気まぐれでなく、ブラック・スワンの幹部としての制裁だとしたら……。
この先、奴は必ず、この探偵社を敵として、戦争を仕掛けてくるだろう。
血の気の失せたジャックに、キングは気遣う顔をした。
「私は直接、『彼』を知らない。君の話や、資料で想像しているだけさ。けれども、どんな理由であれ――」
キングはポケットからトランプのカードを一枚取り出した。指先で示したそれは、スペードのキング。
指先を軽く動かし裏面を向ける。本来、全てのカードに共通の模様が印刷されている場所に、ユニオンジャックが描かれていた。
キングはそれを目の前に掲げ、敬礼する素振りを見せる。
彼の目が開く――アクアマリンのような淡い輝きが、彼の崇拝するものを見つめる。
「この旗を血で汚すことは、この目に光があるうちは、絶対に認めないよ」




