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ネロが現場に向かうと、ブラウン先生が彼を呼び止めた。
「先に言っておく……顔もズタズタに切り裂かれて、原型を留めていないほどだ。身長、体型、髪の色、状況を考慮して、身元を推定しているに過ぎない。それでも見ると言うのなら止めないが、見るからには覚悟しておけ」
ネロはゴクリと唾をのみ、だが毅然と顔を上げる。
「大丈夫です。お願いします」
ブラウン先生は小さくうなずいて、足元のシートをめくり上げた。
「…………」
その瞬間、濃い血の匂いが鼻を突く。口元を押さえて堪えるが、目に入ったモノを見て、ネロはよろめいた。
「無理すんな」
そんな彼の背中をジャックが受け止める。それでも体を支えきれずに、ネロはズルズルと座り込む。
それでもネロはその場にとどまった――自分にできることは、それしかないから。
胃の中身を何度も出しながらも、彼は彼女の最後の食事を言葉にした。
「……缶詰です。多分、ベイクドビーンズだと思います」
ネロは再び、物言わぬ横顔に目を向けた。自分の情けない姿を客観視すれば、先程よりは気分が落ち着いた。そのまま意識を集中させる。
「彼女の前には、小さな女の子がいます。彼女の娘です。とても愛おしく……悲しい気持ちで、彼女はベイクドビーンズを女の子に食べさせています」
自分は少しだけ、できるだけ多くを娘に食べさせながら、彼女は何かを娘に伝えようとしている。
そうジャックに告げると、
「声は聞こえるのか?」
と彼が訊ねた。
「はい……『美味しい? いっぱい食べなさい』……そんなことを言っています」
「伝えたいこととは?」
「監視の目があるので、言葉にできないようです……時々、彼女は後ろの方を気にしています」
何を、何を伝えたいんだ――ネロは意識の中で、ジゼル・ガルシアに問いかける。けれどもネロが感じられるのは、彼女の主観のみだから、それを外れた範囲は分からない。そのもどかしさで、ネロはおかしくなりそうだ。頭を抱えて集中しようとして、だがその焦りが、ジゼル・ガルシアのものであると気付いた。
彼女もまた、平静を装いながら必死になっていたのだ。
「焦るな。もっと周りを見渡せ。他に手がかりはないか?」
ジャックに促され、ネロは娘――エレーヌに意識を向けた。そして声を上げる。
「蝶のネックレス……」
母のものだったそれを、幼い娘が首から下げている。大きく翼を広げたデザインは、大人が身に付ければそれなりに見えるけれど、子供が付けると玩具のようだ。
――だから、監視の目を誤魔化せている。
ジャックの声にも興奮が混じる。
「奴らが探しているのは、そのネックレスか」
「かもしれません……目的がネックレスだと、気づいていないだけかもしれません」
しかし、あえて娘に持たせているということは、ジゼル・ガルシアはそれを、誘拐犯に渡してはいけないものだと認識しているのだろう。
ネロは観察を続ける。
「娘は大人しくベイクドビーンズを食べています……母の手を握りながら」
ジゼル・ガルシアは、幼い娘の手を開き、柔らかな掌を指でさする。
――そしてその時、彼女の心が大きく動く。
「…………」
ネロは目を閉じ、脳内の彼女の心理を読もうとするが、「伝えたい」という気持ちが伝わるばかりで、その内容が分からない。
「お願いだ。僕を信じて。エレーヌは必ず見つけてみせる。だから、だから僕に、何を伝えたいのかを教えてほしい」
ネロの口から思いがあふれる。
しかし相変わらず、ジゼルは娘の手をさすっている。
――――いや。
ネロはハッと目を見開いた。
「文字……」
「何だ?」
ジャックがネロの言葉を聞き逃すまいと、彼に顔を近づける。
「彼女はエレーヌの手に、指で文字を書いてます」
「読めるか」
「やってみます」
ネロは視線を、エレーヌの手に集中させる。どうやら、アルファベットのようだ。
「B……A……K……E……R……」
ジャックの声が低く言った。
「――ベイカーか」
ネロは続ける。
「HUD……SO……N」
「ハドソン……だと!?」
そこでネロの意識が現実に戻った。
「ベイカー……ハドソン……彼女はエレーヌの手に、そう書いていました」
「間違いないのか?」
彼を見るジャックの目は真剣だ。
「はい……絶対とは言えませんけど」
その途端、ジャックは立ち上がった。
「フルハタ警部、至急、車を一台回してくれ。目的地は喫茶ハドソンだ」
――――――――
「いらっしゃい……って、あんたか」
ジャックの顔を見ると、マスターはつまらなそうに、コーヒーミルに目を戻した。
アフタヌーンティーにも、仕事上がりの一杯にも半端な時間。店内に客の姿はない。
ジャックはツカツカとカウンターに向かうと、マスターの顔を凝視する。
「――ジゼル・ガルシアという女を知らないか?」
マスターはコーヒーミルを回す手を止め、鼻眼鏡の上からジャックを見た。
「ジゼル……なんだって?」
ジャックは手帳を開いてカウンターに置く。ここに来るまでの車内で、ネロが描いた母娘の似顔絵だ。お世辞にも上手とは言えないが、特徴を誇張した似顔絵としては良くできている。
ジャックは繰り返した。
「ジゼル・ガルシア。サウス・ケンジントンのマーケットで働いてる」
「サウス・ケンジントンね。あそこはフランス料理の食材がほとんどだ。うちのメニューには合わないから、使ったことがないな」
「娘の名はエレーヌ。五歳だ」
「さあな。聞いたことがない」
「思い出してくれ。客で来たことはないのか?」
「おまえさんも知ってるだろ。ここにはむさ苦しいのしか来ねえよ」
ジャックは言葉に詰まった。
きっとマスターは、本当に知らないのだろう。
ならば、ネロが読んだ文字とは、一体何を示しているのか?
すると、扉が開き、現れたのはエースだった。
「うあー眠い……って、ジャック、来てたのか」
彼はカウンター席に腰を下ろし、
「眠気覚ましに濃い目のやつを頼むわ」
とオーダーする。
「あいよ」
とサイフォンに手を伸ばすマスターの仕草を目で追っていたのだろう。ふとエースは、カウンターの手帳に目を止めた。
「あれ? この人、どっかで見たことあるぞ」
そう何気なく呟いたエースに迫り、ジャックは彼の胸ぐらを掴む。
「いつ? どこで?」
「お、覚えてねぇよ……なにせ、日に十回はナンパするから……」
「ここの場所を教えた覚えはあるのか?」
「あ、そういや……」
エースはジャックの腕を解き、手帳を眺めて遠い目をした。
「本屋で見かけたんだ。すっげー好みの顔してたから、お茶でもしないかと声を掛けたけど、子供がいるからと断られてさ。それでも諦められなくて、子供が好きそうな絵本を買って、探偵社の住所をメモしたのを挟んで渡したんだよ。母子家庭っぽかったから、困ったら頼ってくれってね」
「おまえ……」
ジャックもさすがに呆れ返る。
「ナンパの相手に職場の住所を教えたのか」
「だって俺、あちこちの女ん家で寝泊まりしてるから、住所不定みたいなモンだし。連絡先っつったら、探偵社が一番確かだからな」
ジャックは肩の力が抜けた気がした。大きく息を吐いて、気持ちを整理する。
正体を伏せるため、互いをコードネームで呼び合っている探偵でありながら、見ず知らずの女に探偵事務所の場所を教えるのは、仲間を危険に晒す愚行だ。
しかし、今回の場合に限っては、それがエレーヌ・ガルシアの生命線となっている可能性がある。
とても「良くやった」とは言えないが、懲罰モノだと叱る気にもなれない。
そんなことをジャックが考えていると、エースが察したようだ。
「もしかして、さっき言ってた、行方不明の母娘って……」
「そうだ、この人たちだ」
途端にエースの顔色が変わった。
「あの美人が殺されて、娘が行方不明になってるってことか」
コーヒーのことも忘れ、彼は立ち上がった。
「もうすぐ夕方だ。ロンドンの夜は冷える。明るいうちに探さないと、凍えてしまうかもしれない」
「その前に、ブラック・スワンの奴らに見つかれば、命はない」
「クッソ――!」
そう吐き捨て、エースは店を飛び出した。
「あいよ……って、いねえじゃねえか」
マスターがコーヒーカップを手に戸惑っている。そのカップを受け取り、一気に飲み干すと、
「こちそうさん」
とカップを返し、ジャックも店を後にした。




