⑨
事情聴取を終え、ベイカー通りに戻る。
探偵社の扉を開くと、正面に座る人物がジャックに声を掛けた。
「ご苦労だったね。事情は聞いたよ」
キングはその目を、ソファーに座るネロに向けた。
「ブラウン先生に診てもらったけど、一時的なパニック症状のようだ。今は落ち着いてるし、問題ないだろう」
ネロの隣に、クイーンが付き添っている。
「あんな光景を見れば、誰だってパニックになるわよ」
と、彼女はネロの肩に手を置いた。
「すいません……」
小さく頭を下げるネロに、
「おまえが謝ることじゃない」
と言って、ジャックはいつもの椅子に腰を下ろした。
「事情聴取はどうだったの?」
重い空気を払うように、キングがジャックに細い目を向ける。
「ジゼル・ガルシアの身元の確認はできた。フランス系二世で、近くのマーケットで働いている。娘のエレーヌは四歳。父親は不明」
「…………」
「殺されたならず者から、彼女らの失踪に、ブラック・スワンの関与は確定的となった。警察は総力を上げて、ジゼル・ガルシア母娘の行方を追う方針だ。勝負がどうのこうのと、あのクソッタレ警部補は喚いていたが、拳で黙らされてたよ……フルハタ警部に」
ジャックはタバコに火をつける。
そこに声を掛けたのは、トランプ台に足を置くエースだ。
「俺たちにできることは?」
「可能ならば、リッチモンド・リバーサイド・ホテルからの足取りを探りたいところだが、警察犬もお手上げのようだ」
「すぐ横が川だからね。水路を使われたらどうしようもない」
キングが小さく首を振った。
ジャックは大きく煙を吐く。それから身を起こし、
「ひとつ、みんなに忠告しておきたい」
と一同を見渡した。
「――俺が最も恐れる男が、この件に関わっている」
沈黙が下りる。
クイーンの探るような視線を横顔に感じるが、キングとファイブは意味を理解したようだ。
「ジャックにも怖いものなんかあるんだな」
エースがボソリと言った。
「生きてりゃ色々あるモンだ」
そう誤魔化しつつ、ジャックは再び椅子に背を預ける。
「今は祈るしかない、か……」
哀れな母娘が無事であるように。
あの男の関与が気まぐれであるように。
――ところが間もなく、恐れていた事態を告げるベルが鳴った。
キングが受けた電話の先で、フルハタ警部がこう告げたのだ。
「――ジゼル・ガルシアと思われる遺体が見つかりました」
――――――――
ソーホーの中心部。真昼の歓楽街は、精細を失って物悲しい。
そんな路地裏の物陰で、ジゼル・ガルシアは死んでいた。
「死亡推定時刻は今朝未明。死因は斬傷による失血死。鋭い刃物による傷が全身に数十ヶ所。まるで切り裂きジャックだな」
淡々と告げるブラウン先生の横で、ジャックは眉を寄せた――「鋭い刃物」で、どうしてもファントムが連想される。
「殺害現場はここなのか?」
ジャックが聞くと、ブラウン先生は十字を切って立ち上がった。
「流血の量からして間違いない」
「彼女は本当にジゼル・ガルシアなのか?」
その質問に答えたのはフルハタ警部だ。
「移民局に照会をしました。身体的特徴から、百パーセントとは言い切れませんが、その可能性が極めて高いと思われます」
彼は神経質な眉間にシワを寄せた。
「彼女は裸足でした。それに、この辺りには風俗店が多い。女性を隠すにはもってこいの場所です。彼女が捕らわれていたのはこの近辺に違いないと、既に捜査員を向かわせています。恐らく、監視の目が薄い隙に逃げ出したのでしょう……そして、自らの身を犠牲に、娘を逃した」
「ということは……」
ジャックの表情が険しくなる。フルハタ警部はうなずいた。
「彼女の娘――エレーヌ・ガルシアは、未だ見つかっていません」
ジャックは唇を噛む。
もっと先の未来まで見通せるスキルがあればと、自らを呪わざるを得ない。
間もなく、捜査員の一人がやって来てフルハタに告げた。
「被害者が監禁されていたと思わしき場所を発見しました」
そこは、風俗店の二階だった。
「近くの住人の話だと、しばらく前に店を閉めてから、誰も住んでいなかったようです。我々が踏み込んだ時、中はもぬけの殻でした」
捜査員が報告する。
狭い部屋に、ベッドがひとつ。
小さな窓があるが、手の届く距離に隣の建物の壁があり、日が当たらない。
出入口は手前の扉のみ。そこを監視すれば、捕らわれの母娘は逃げられなかっただろう。
――母娘が一緒に逃げようとするならば。
ジャックは窓を開いた。建物の隙間のわずかな隙間を見下ろし、彼はフルハタ警部を振り返る。
「子供なら下りられそうだ」
フルハタ警部は、閉じた扇子で床を指した。
「ここにわずかに血痕があります。そして、血の付いた灰皿も」
扇子の先が壁際に移る。陶器製の大きな灰皿が真っ二つに割れて、そこに転がっていた。
「監視が居眠りした隙に、灰皿で殴って昏倒させ、娘を窓から逃がし、自分は正面から部屋から抜け出したと考えられますね」
しかし、監視の目はひとつではなかった。
その目を自分に引き付けて、娘の無事を願い、母は裸足で歓楽街を走った。そして……。
無惨な亡骸を思い出し、ジャックは奥歯を噛み締める。
すると、階下から声が掛かった。
「フルハタ警部。探偵社の社長が呼んでますが、どうしますか?」
ジャックは目を細めた。キングが現場に来ることはほとんどない。事務所で探偵たちに指示を出すのが彼の役割だからだ。
その彼がわざわざ来た目的は……?
ジャックは階段を駆け下りた。そこにはキングの長身と――ネロの姿があった。
先程のことがある。体調を考慮して、事務所で休ませていたのだが……。
「どうしても、彼が来たいと言うからね。私が連れて来たよ」
キングは手をネロの肩に置いた。
「おまえ、大丈夫か?」
ジャックが聞くと、ネロは顔を上げた。彼の目に迷いはなかった。
「もしかしたら、ジゼルさんの伝えたかったことが見えるかもしれません。僕に、見せてください……お願いします」




