⑧
サウス・ケンジントンの大通りを脇へ入れば、入り組んだ路地が絡み合っている。
サザークの宝飾店で聞いた仕立て屋は、そんな路地の一角にあった。
強いフランス訛りの英語で、店主はジャックの質問に答えた。
「ええ。このドレスはうちで仕立てたものよ」
ジャックに手帳を返し、彼女は作業に戻る。
「きちんとした身なりの紳士と来てね。家族の記念日を高級ホテルで過ごしたいから、ドレスを一着仕立てたいって」
「奥さんは知ってる人?」
「そこのフランス人街に住んでるらしいけど、フランス人を全部知ってる訳じゃないし」
「どんな人だった?」
店主は顔を上げない。慣れた手つきでアイロンを動かしている。
「美人だけど、質素な身なりをしてたわよ。旦那さんの着てるものと不釣り合いだから、きっと愛人だろうと思ったわ」
ジャックはネロと顔を見合わせた。
「家族は他に?」
「小さい女の子も一緒だった。その子のドレスの注文も受けたわ。お人形みたいに可愛い子でね。仕立て甲斐があったわ」
ジャックは銀貨を数枚、アイロン台に置いた。
「――住まいは分かる?」
……注文票にあった住所を聞き出し、ジャックとネロはフランス人街に向かう。
「ジゼル・ガルシア。娘の名はエレーヌ。恐らく本名だ」
手帳の名をジャックが読むと、ネロはうつむいた。
「……無事、なんでしょうか?」
ジャックは大きく息を吐く。
「そう願いたいな」
教えられた住所は、古い借家の一室だった。扉をノックしても、やはり返事はない。念の為にドアノブに触れてみると、鍵はかかっていないようだった。
「…………」
ジャックとネロは顔を見合わせた。
そしてそっと扉を引いた。
リビングと寝室があるだけの狭い家は、無茶苦茶に荒らされていた。
「……こりゃ酷いな」
そう呟いたジャックの横で、ネロは強く眉をしかめた。
すると、二人に声を掛ける者があった。
「……もしかして、警察の人?」
やはり強いフランス訛りの英語だ。ジャックは素知らぬ顔で、捜査協力依頼書を見せた。
「まあ、似たようなモンだ」
近所の住人らしかった。小柄な老婦人は、園芸用のジョーロを抱えてジャックを見上げた。
「そこのお宅――ガルシアさんって言う母娘が住んでるんだけど、一昨日の朝に出てったっきり、戻ってないのよ」
「警察には?」
「身内でもないし、ご家庭の事情もあるから、私が騒いだところで、差し出がましいだけでしょ」
老婦人は穏やかに、しかし好奇心を隠そうともせずジャックに顔を寄せる。
「……誰かの愛人だって噂もあるし。未婚の母に口出しはできないわ」
噂好きの老婦人……情報源として最もありがたいタイプだ。ジャックは内心ニヤリとした。
案の定、何も聞かずとも、老婦人は勝手に喋る。
「昨日なんて、ガラの悪そうなのが何人か来て、家に上がり込んでドッタンバッタンやってたのよ。さすがに警察を呼ぼうかとも思ったけど、仕返しに何かされたら怖いでしょ? 今朝だって、この辺りをウロウロしてたし。気持ち悪いわ」
まだ話し足りなそうだったが、適当に話を切り上げ、ジャックとネロは大通りに向かって歩きだした。
「家を荒らしたのは、ジェフリー・ブラックマンを殺した連中か、ジゼル・ガルシア母娘を誘拐した連中か。どちらかは分からないが、ブラック・スワンの連中に違いないだろう。ということは、未だに奴らは、目的のものを手に入れられていない」
「つまり……」
「ジゼル・ガルシアは、生きている可能性が高い」
ジャックは足を早める。
「ここからは、肩肘張ってる場合じゃない。警察と協力して、ジゼル・ガルシアを捜索すべきだ」
――しかし、奴らは見逃してくれないようだった。
ジゼル・ガルシアの家を出た時から、ジャックは気配を感じていた。いつか来るだろうと思っていたから、敢えて人目のない路地裏を選んだのだ。
「待ちな」
という野太い声を合図に、男が五人、彼らの前後を取り囲む。いずれも手に拳銃を持っている。
「あの女を嗅ぎ回ってるようだな。話を聞かせてくれねえか?」
ネロは「ヒッ!」と情けない声を上げて、ジャックの背中にすがり付いた。
「どどどうしますか!」
ジャックは目を細めて頭を搔く。
「そうだな……俺が『行け』と言ったら、そこのゴミ箱の裏にでも隠れてな」
そう言ってから、ジャックはリーダーらしき男に言った。
「こんなところで立ち話もナンだ。グレート・スコットランド通りにいい店を知ってる。椅子は硬いが、護衛がたくさんいるから安全だし、檻もある」
「ふざけんじゃねえぞ!」
ジャックは叫んだ。
「――行け!」
相手の人差し指が引き金に掛かるより早く、ジャックは動いた。三秒後の弾道を避けて前に飛び、右手首を正確に蹴り上げる。
「ウッ!」
呻き声と共に、拳銃が手から離れた。それを受け止めると同時に、哀れな男の後ろに回る。リボルバーには弾丸が五発。十分足りる。
ジャックは、分厚い背を盾にして、残る四人の腹を撃った。
――その時間、十秒。
後に残ったのは、腹を押さえて呻く四人と、こめかみに突き付けられた拳銃を睨みつつ震えるリーダーだった。
撃鉄を起こすとカチリと音が鳴る。「ヒッ……」と息を呑む男に、ジャックは囁く。
「ねえ、君たちのボス、教えてくれる?」
「そそそそ、それだけは……」
「――ロビン・クロウ」
カマをかけてみると、男の喉がゴクリと動いた。
「ち、違う……」
「ふうん……」
これ以上は聞き出せないだろう。
ジャックは後ろから太い首に手を回して締め上げる。殺しはしない。拳銃を突き付けているもの面倒だから、眠らせるだけだ。後は警察に任せよう。
ゆっくりと倒れる男から手を離して、ジャックはゴミ箱の影に顔を向けた。
そこでネロは、愕然と目を見開いている。無理もない。「三秒後の未来が見える」ジャックにとっては、なんてことのない事だが、素人には魔法のように見えるだろう。
遠くから鐘の音が近づいてくる。銃声に気づいた誰かが、警察に連絡をしたに違いない。
「面倒だが、説明はしないとまずいよな……」
ジャックは口をへの字に曲げ、とりあえずネロのところに向かおうとした。
――その三秒後。
「ウッ……」
小さな呻き声が背後で聞こえた。
振り返ったジャックが見たものは、リーダーの太い首から、噴水のように血が吹き出る光景だった。
「しまった――!」
六人目の可能性を逸していた。
しかもこれは、奴らの味方ではなく、敵側――!
ジャックの目に、三秒後の未来が見えた。
左から順に、四人の男の頸動脈が切断されていく。犯人の姿は見えない。
そして、五人目は――
「伏せろ!」
ネロにそう叫び、ジャックは走った。そしてブリキのゴミ箱を、ネロの頭からすっぽりと被せる。
ジャックの背後で悲鳴が上がった。殺戮が始まったのだ。ジャックにそれを止める術はない。
……ただひとつできるのは、未来分岐が入れ替わったルートにある、五人目の犠牲者となるべき自分の身を守るだけ。
ジャックは知っていた――目に見えない殺戮者の正体を。
――ファントム。
それを知る者は、その存在をそう呼んだ。
精神分裂した人格を顕現させ、使役するスキル。
ファントムには様々な種類があり、目に見えるもの、目に見えないものがある。
それぞれのファントムが、攻撃や探索などのスキルを持つ。このファントムは、「切断」のスキルを持つ個体だろう。
そして、そのいずれも、物理的な攻撃が効かない――人格だけが分離したもので、実体がないからだ。
ファントムを止めるには、本体を攻撃するしかない。
ジャックはそんなスキルを持つ者を、一人だけ知っていた――いや、一人しかあり得ない。
ジャックの脳裏に、三秒後の未来が映る――ジャック自身が血を噴きながら、仰向けに倒れる映像。
その視線の先で、滑らかな金髪が揺れている。建物の屋上から見下ろす顔――
「――見えた」
ジャックは銃口を上に向ける。最後の一発を真上に発射するが、それと同時に、弾が虚しく彼方へ消える未来も見えた。
「…………」
死を覚悟する。
ところが、彼が見た三秒後の未来は現実にはならなかった。ジャックが発砲したことで、ファントムの主は攻撃を止めたようだ。
全身を冷や汗が濡らしている。しばらく銃口を向けた先を睨んでいたが、視界で動く気配はなかった。
ガクリと腕を下ろし、レンガ敷きの路地に膝をつく。情けないことに、体の震えが止まらないのだ。
――あいつ、生きていたのか。
かつて寝食を共にし――見捨てた男。
その彼が現れたことに、ジャックは強く動揺していた。
何度か深呼吸を繰り返し、ようやく立ち上がる。ヨロヨロと路地の端に向かい、伏せたゴミ箱を持ち上げた。
その下で、ネロも震えていた。大きく見開いた目に涙を貯め、焦点の定まらない瞳が細かく動き回っている。
やがて、彼は小さく呻いた。
「うう……」
何度か震える呻きが漏れる。そしてそれは爆発した。
「うう……うわあああああ!!」
頭を抱えて叫び続ける。ジャックは
「しっかりしろ!」
とネロの肩に手を置き顔を合わせるが、彼の視線は目の前のジャックを見ていない。
まるで、ジャックの背後に屯する亡霊に怯えるように、ガタガタと身を震わせている。
やがて悲鳴が細くなり、声が途切れた。
ネロの瞳は裏返り、痩せた体がガクリと脱力する。
慌てて受け止めたジャックの腕の中で、ネロは意識を失っていた。




