⑦
ワットソン警部補のアパートメントは、ベイカー通りの一番街。二番街にある『ベイカー通り探偵社』までは、歩いて五分の距離だ。
いつまでもクイーンに頼っていてはいけないと、ネロは一人で探偵社に出社する。
「おはようございま……」
ネロが最後まで挨拶を言いきらないうちに、絶望的な叫び声が事務所に響いた。
「うわあああ! 全部持ってかれたああ!」
何事かと顔を向ける。そこには、頭を抱えるエースがいた。
……そして、トランプ台を挟んだ向かいに、ジャック。
彼はトランプをまとめ、台の中央に散らばった硬貨や紙幣を広い上げてポケットに納める。
ネロは一瞬で理解した……昨日、ブラウン先生が言っていた言葉を。
――あいつからギャンブルを持ち掛けられたら断るんだ。破産したくなきゃね。
そりゃ、三秒先の未来が見える相手に『ババ抜き』を挑んだところで、勝てる訳がない。
しかし、仲間だろうに、エースはジャックのスキルを知らないのだろうか……?
そう考えていると、急にジャックが振り向いた。
「おはよう、少年。今日は気分がいいから、ハドソンのモーニングセットを奢ってやる」
断る理由はない。ネロはジャックに従った。
喫茶ハドソンは、朝七時から夕方六時までの営業らしい。
仕事前の一服、ブランチにランチ、アフタヌーンティー、そして、仕事終わりの一服に、マスターに胃袋を掴まれた男たちがやって来る。
ほとんど常連ばかりだけれど、時間によってはそこそこテーブルが埋まっているようだ。
端のテーブル席でジャックと向き合う。フル・ブレックファストの皿とコーヒーをテーブルに置いたマスターに、ジャックはお金を渡した。
「百五十ポンドある。これでしばらく、遠慮なく通えるな」
「その都度払えばいいだけだろ」
マスターは冷めた目で金を受け取り、「おまけだ」と、ネロの前にチーズの盛り合わせを置いた。
「成長期なんだ。しっかり食え」
ぶっきらぼうに見えて、優しいところがあるようだ。ネロは「ありがとうございます」と受け取った。
すると、ジャックが
「俺にはないの?」
と聞くから、マスターはしかめ面をした。
「ピクルスなら持ってきてやる」
「……いや、やめとく」
穏やかな朝食。幾人かが慌ただしく、トーストをコーヒーで胃に流し込んでいく横で、二人は優雅に皿に向き合う。
やはり、マスターの料理は最高だ。どれも美味しいけど、特にブラックプディングは、パブで食べたものよりまろやかで、いくらでも食べられる。
ジャックはフォーク片手に新聞を眺めている。毎朝こんな感じなのだろうと思いつつ、ネロは気になることを聞いてみた。
「エースさんは、ジャックさんのスキルを知らないんですか?」
ジャックはギョロリとネロに目を向ける。
「あいつは俺の財布なんだから、教える訳ねえだろ」
……ネロはエースの軽薄な顔に、心から同情した。
「ズルくないですか、それは。エースさんが可哀想です」
「まぁ、知らない奴はそう思うだろうがな。女に貢ぐか俺に貢ぐかの違いだけで、あいつの財布はいつも空さ。たまには奢ってやる俺に貢いだ方が、合理的ってモンだ」
よく分からない理屈だけれど、探偵社のみんながそんな二人の関係を知らないはずがないし、誰も不幸になっていないのなら、まあ、いいのだろう。
ネロは皿を平らげ、チーズを口に運ぶ。
「今日は、サウス・ケンジントンに行くんですよね」
すると、ジャックは新聞を畳んだ。
「行く。行くんだが、ちょっと事情が変わってだな……」
ジャックは言った。
昨日、あの後、「ジェフリー・ブラックマン」なる人物の妻が身に付けていた蝶のネックレスと、サザークの宝飾店のネックレスが同じものかを、リッチモンド・リバーサイド・ホテルに確認しに行ったらしい。
すると、昼間、ジャックたちに証言をしたあのボーイが、申し訳なさそうにこう言った。
「先払いされていたので、手続き上はチェックアウトとなっていたのですが、実は、夜間に姿を消していたようです」
「えっ……!?」
ネロはチーズをつまんだ手を止めた。
「それじゃ、奥さんと娘さんも、まさか一緒に……」
最悪の想像に血の気が引く。
しかし、ジャックは首を横に振った。
「いや、ジェフリー・ブラックマンと妻子が別行動を取ったのは確かだ。ドアボーイの証言もある。それに、夜の十時頃、フロントに電話がかかってきて、妻に取り次いでいる。その頃までは、母子が部屋にいたのは間違いない」
「つまり、その電話に呼び出されて、彼女たちはホテルを抜け出したと」
「多分、そういうことだ。非常階段を下りれば、テムズ川の岸壁だ。目撃者探しは難しいだろうがな」
「電話の主は、ジェフリー・ブラックマンなんです?」
「いや、別人だ」
ジャックはトマトをつまみ、口に放り込む。
「――ロビン・クロウ。そう名乗ったらしい」
「誰ですか?」
「俺もその時は知らなかった。だが、さっき、エースに聞いたんだ」
ジャックは説明した。
エースは探偵社に来る前、騙されてブラック・スワンの構成員になっており、組織の内情にある程度通じていると。
「エースの話じゃ、幹部クラス――それも、かなりトップに近い地位にいる奴だそうだ」
「えっ……!」
話がどんどん大きく、複雑になっていく。目眩がする思いで、ネロはコーヒーに口を付けた。ネロの年齢に合わせて、軽めでまろやかに仕上げてあるコーヒーが、彼の意識を鮮明にした。
「――つまり、この事件には、同じブラック・スワンでありながら、二つのグループが関わっている」
ジャックは呆気に取られた顔をした。
「おまえ、意外と頭の回転が早いな」
そう言われて、ネロは恐縮して首を竦めた。
「たまたま頭に浮かんだだけです……」
「まあいい。おまえの言う通り、ジェフリー・ブラックマンを殺した一味と、彼の妻子を呼び出した一味は、別だと考えた方が自然だ」
妻に電話が入ったのが十時。
ジェフリー・ブラックマンの死亡推定時刻は深夜零時。
ジェフリー・ブラックマンは暴行の末に死亡したと考えられるから、彼の身に自由がなくなったのは、それより何時間か前と思われる。
なぜすぐに殺さず、暴行の末に殺したのか。
最も合理的な理由は「拷問」だ。
ジェフリー・ブラックマンが何かを隠しており、それを明かすために拷問をした――その方法は、水責め。
そして、答えが出る前に死亡したため、テムズ川に捨てたのだ。
しかし、彼の妻子は、彼が死亡するより前に連れ出されている。
得られなかった答えを、直前に接触した妻子に求めるのなら、彼が死亡した後のはずだ。
その点から、ブラック・スワンの中で、ジェフリー・ブラックマンが持つ「何か」を奪い合うグループが複数あると考えられる。
ジャックが言葉で説明して、ようやくネロは直感の意味を理解した。
「なるほど」とうなずく彼に、ジャックは細い目を向ける。
「ひょっとして、それもスキルか?」
「分かりません……けれど、ジェフリー・ブラックマンって人の思考というか……そういうのがずっと、頭から離れないんです」
「共感性の高さ、ってやつか」
ジャックはそう言って、コーヒーをグイッと空けた。
「とりあえず、蝶のネックレスの確認は取れた。レストランのボーイが、ジェフリー・ブラックマンの妻が付けていたものに間違いないと証言した。明確な証拠と言っていいだろう」
ネロはコーヒーを飲みながらうなずく。
「それから、ジェフリー・ブラックマンの妻はフランス人のようで、フランス語で会話をしていたとも言っていた。サウス・ケンジントンにはフランス人街がある。恐らく、本人には会えないだろうが、そこに行けば、何か手がかりが掴めるかもしれない」




