⑥
――その頃、ネロは困惑していた。
事務所に戻るなり、
「アパートメントの大家さんに、空き部屋を借りられるよう、ボスが話を付けてくれたから」
と、クイーンに連れ出されたのだが……。
挨拶に向かった、彼女のアパートメントの最上階。ワンフロア全てがペントハウスとなったそこの住人が、ワットソン警部補だったからだ。
「おやおや、探偵社の新人に部屋を貸してほしいと頼まれたけど、まさか、君だったとはね……」
嫌味ったらしく口を歪め、ワットソン警部補はニヤニヤしている。
「まあ、せっかくのご縁だ。お茶を一杯ご馳走しようじゃないか」
「まあ、嬉しい。ありがとうございます。さ、お邪魔しましょ」
クイーンが遠慮なく上がり込み、ネロも渋々従った。
インド洋コンツェルンの御曹司とは聞いたが、嘘ではないらしい。
昨日一泊した、クイーンの部屋の簡素な内装とは全く違う豪華な空間。床にはペルシャ絨毯が敷かれ、どこかの宮殿みたいな装飾の壁には絵画が並び、天井でクリスタルのシャンデリアが輝いているありさまだ。
廊下の突き当たりがリビングのようだった。
ゴブラン織りのソファーを勧められ、ネロは戸惑いながら腰を下ろした。
正面のソファーで、ワットソン警部補は微笑んだ。
「マダム・マープルには良くしてもらっているから。先日も、シャムの国の名物とされる、緑色のカレーのお裾分けをもらってね。他にはない刺激的な味わいが僕の意識をノックアウトして、実に良く眠れたよ」
「それは良かったわ。次に作った時には、鍋ごと持って来ますわね」
マダム・マープルというのは、きっとクイーンのことだ。探偵だから、TPOで名前と態度を使い分けているのだろうと、ネロは理解した。
と同時に、クイーンの料理の破壊力と、皮肉が全く伝わらないメンタルの強さが恐ろしくなった。
規則正しいノックの音がした。扉が開いて現れたのは、フロックコートの老紳士だ。
「紹介しよう。僕の執事のセバスチャンだ」
老執事は丁寧に礼をしてから、クイーンとネロの前にティーセットを置く。
「セイロンのゴールデンチップスでございます。坊っちゃまのご友人と伺いまして、特別に良いものをご用意いたしました」
「あーもう、そういうのは野暮というのだよ、セバスチャン。僕の友人なんだから、わざわざ言わなくたって、この上品な味わいを理解できるに決まってるじゃないか」
……ものすごく面倒な人だ。
ネロは「ありがとうございます」とカップを手に取り、普通に口を付けた。
その後、ワットソン警部補はペラペラと語りだした。
「僕がスコットランド・ヤードに入ったきっかけかい? パパに社会勉強を勧められてね。大企業を率いていくには、庶民の感覚も必要だから。とりあえず警察の試験を受けたんだよ。もちろん合格さ。そのお祝いに、パパにこのアパートメントをもらったのさ。あ、建物ごとね。メイド五人と専任シェフ、運転手付きのロールスロイス、屈強な用心棒付きだよ」
「はぁ……」
「刑事になってからは、色々な部署で経験を積んで、出世街道まっしぐらさ。あぁ、でも僕の出世はこの辺りで終わりにしなければならない。いつかは、インド洋コンツェルンを継ぐんだ。全く、罪深いよ、僕の才能は」
クイーンはどんな顔で、この一人語りを聞いているのか……と、ネロは横目を彼女に向ける。そこで彼女は、テーブルに置かれた焼き菓子を無心に頬張っていた。
「このピーマンを逆さまにしたみたいなの、カリカリでフワフワで美味しいわ」
「フランス菓子のカヌレだ。うちのシェフがパリで修行を積んでいてね。僕の好物さ。世界各地の料理を食べ尽くしたけれど、やはり僕には、フランスの味が合うようだ。フランス料理の真髄を知ってしまうと、この国の料理が手抜きに思えてしまう」
「へぇ……もうひとついただこうかしら。あなたもどう?」
ポンとカヌレを渡されて、ネロはありがたく口に運んだ。
「ところで……」
ワットソン警部補は、ソファーに背を預けて脚を組み、ネロに顔を向けた。
「君のスキルに興味がある。いつ君は、そのスキルに気づいたんだい?」
「いえ、あの……」
どう訂正すべきか言葉に迷う。するとワットソン警部補は軽く眉を下げた。
「君には同情するよ。成り行きとはいえ、この僕と勝負をすることになってしまったとはね」
「いや、言い出しっぺはあなた……」
「勝負? 何をする気なの、あなたたち?」
クイーンがカヌレ片手に二人を見比べる。
「同じスキルを持つ者同士の宿命ですよ」
ワットソン警部補がしみじみと答えると、クイーンは目を丸くした。
「え? ワットソン警部補も最後に食べた……」
説明が面倒になりそうだから、ネロはクイーンの口にカヌレをねじ込んだ。
「本当に、奇遇ですよね、同じスキルなんて。アハハハ……」
この面倒すぎる警部補から一刻も早く離れたい……ネロはそれだけを願った。
こちらの方がはるかに早く正解にたどり着きそうだなんてバレたら、何を言われるか分からない。機嫌よくしているうちに、さっさと部屋を確保して、ゆっくりと横になりたい……。
そんな彼の思いが伝わったのか、クイーンはモグモグとカヌレを片付け、ポンと手を打った。
「嫌だ、もうこんな時間。今夜はブラウン先生とマダガスカル料理を食べに行く約束をしてるの」
「おや、それは急がなければ」
ワットソン警部補はセバスチャンを呼んだ。
「彼を空き部屋に案内してくれないか?」
「かしこまりました」
同時にクイーンも席を立ち、
「では、私もこれで失礼しまーす。ご馳走さま」
とウインクして、さっさと部屋を出て行った。
「ネルソン様、こちらへどうぞ」
セバスチャンに促され、ネロもペントハウスを後にする。
このアパートメントは三階建てだ。
最上階がペントハウスで、二階にクイーンが住んでいる。
一階はどうやら、車庫や用心棒の詰所になっているようだ。
昨日はよく見ていなかったけれど、用心棒も一人じゃない。階段ホールの各階に、武道の達人みたいな人がそれぞれ立っている。
今も、通りかかったセバスチャンに、褐色の肌をした大男が敬礼をした後、ネロに興味深々な目を向けた。
こんなところで、落ち着いて住めるだろうか?
不安を抱きながらクイーンの部屋の前を通り過ぎる。ネロに宛てがわれるのは、その奥の扉のようだ。
「こちらにございます」
セバスチャンは解錠し、鍵をネロに渡して去って行った。
「…………」
ドキドキしながら扉を開く。入口の横のスイッチを押せば、何度か点滅して明るくなった。
――そして、ネロは絶句した。
「……物置、かよ……」
階段の下のスペースなのだろう。斜めになった天井の下の狭いスペースに、木箱やズタ袋が積んである。
古びてはいるが、壁にマットレスが立て掛けられ、木箱の上には丸められた毛布があるから、寝るのには困らないだろうが……。
今頃、あの嫌味な警部補がほくそ笑んでいると思うと、やり切れない。
……いやいやいや。
この部屋を与えられなければ野宿だ。建物は頑丈だから、孤児院みたいにすきま風や雨漏りの心配もない。ここで文句を言っては贅沢だ。
とりあえず、眠る場所を確保しよう。
ネロは気持ちを切り替え、木箱を並べてマットレスを置く。そこに大の字に転がって目を閉じれば、すぐさま眠気が脳を支配した。




