⑤
そこから、サウス・ケンジントンに向かう――と思いきや、ジャックは「腹が減ったな……」と、ベイカー通りに向かうバスに乗り込んだ。
「いいんですか。あの警部補に先を越されたら……」
ネロは落ち着かないが、ジャックは悠々と構えている。
「越されると思うか?」
「いや……そうは、思いません……」
「それに、ひとつ確認しておきたいことがある」
「何をですか?」
「捜索願だ」
言われてみれば当然だ。
家族が帰らないとあれば、警察に捜索願を出すのは必然的な流れだ。
「これまでに分かったことと、おまえの推理をまとめるとこうだ」
ジャックは語り出した。
ジェフリー・ブラックマン(仮称)はブラック・スワンの幹部であり、何らかの理由で死を予期していた。
そこで彼は、自分の立場を知らずにいる大切な家族へ、精一杯のお礼――もしくは謝罪をしようと考えた。
「ここでおまえは、『なぜ最後の晩餐に、自宅ではなく、高級レストランを選んだのか』と疑問を持った」
「はい……」
「それは恐らく、『本当の家族ではない』からだ」
「つまり……」
――愛人。
内縁関係にある彼女が、ジェフリー・ブラックマンにとって、最も大切な人物だった。
マフィア幹部という立場から、敢えて家族を持たなかったのかもしれない。子供ができてからも、籍を入れられなかったのかもしれない。
毎日は、会えなかったのかもしれない。
そんな彼女の苦労を労うために、そんな境遇に置いてしまった娘に謝罪するために、ジェフリー・ブラックマンは、高級レストランでの最後の晩餐を計画した。
しかしそれには、彼女と娘に、ドレスコードに合う衣装から用意しなければならなかった。
「サウス・ケンジントンの仕立て屋には、さすがに妻と娘を連れて行っただろう。仕立てってのは、生地選び、仮縫い、仕上げと、何段階も打ち合わせがある。だから、連絡先の嘘は吐けない」
ネロは目を見張った。
「なら、その仕立て屋を見つければ、ジェフリー・ブラックマンの正体が分かるんですね!」
「いや、分かるのは妻の方だ。ドレスを縫うのに、男はいらない。金を先払いすれば用済みだ」
「けれど、奥さんが分かれば、ジェフリー・ブラックマンの正体も分かりますよね」
「そうだといいけどな……」
ジャックは浮かない顔をしている。
「もうすぐゴールじゃないんですか?」
「捜索願だ」
「はぁ……?」
「捜索願が出されているか、出されていないかで、接し方を変えなきゃならない。出されていれば、ある程度覚悟はできてるだろう。しかし、出されていなければ……」
最愛の人の失踪すら知らず、平穏な日常を送っているところに、無慈悲な通告をしなければならない。
愛人という立場で、毎日は顔を合わせていない状況ならば、後者の可能性が高い。
「そんな母娘に、いい加減なことを告げたくない。今のところ、俺たちの推理の根拠は、おまえのスキルだけだしな。目に見える、確かな証拠を手に入れたいところだが……」
ネロは軽く微笑んだ。
「ジャックさん、優しいんですね」
すると、意外だとでもいうように、ジャックはキョトンとネロを見返した。
そしてすぐに、照れを隠すように前髪をクシャクシャと搔く。
「女が泣くと、手に負えないから……だ」
――――――――
喫茶ハドソンの扉を入る。
夕闇迫る閉店間際の店内に、客は一人だけだった。
カウンターでコーヒーを啜っていた男は、ジャックの顔を見るなり甲高い声を上げた。
「オーギュスト・キャンベル中尉。あなたはなんてことをしてくれたんですか!」
フルハタ警部だ。彼もまた、退役軍人として、ハドソンの常連なのだ。
ジャックはクシャクシャと髪を搔き、不機嫌な目で神経質な日系人を睨んだ。
「その名はここでは使わない約束だぜ、フルハタ少佐」
ジャックはフルハタと並んで座る。マスターに「いつもの」とオーダーし、胸ポケットのタバコを手にして、すぐに手放す……この店は禁煙だった。
マスターがネルの袋に湯を注ぐのを手持ち無沙汰に眺める。芳しい香りが辺りを満たしていく。
この店の味は世界一と言っていいと、ジャックも思っている。
しかし、人相の悪い退役軍人ばかりが集まるから、一般の客は入ってこない。しかも、何も知らずにエスプレッソを注文しようものなら、フライパンで叩き出される理不尽さだ。
「あいよ」
マスターがジャックの前にカップを置く。軽く口に含めば、澄んだ風味の中で、ズシリとコクが主張する。
やっと一日が終わる……ジャックはふうと一息吐いた。
だが、隣の人物は気が済まないようで、白いカップを手に包んで、ジャックに顔を向ける。
「あの少年は何者ですか? ワットソン警部補に勝負を挑むなど、なんて恐ろしいことを……」
「ブラウン先生の差し金だろ」
ジャックは煩わしさを隠しもしない。
「面白いスキル持ちを拾ったから、試しに連れてっただけだ。恨むんなら、あんたのところにあのボンクラを差し向けた上司を恨むんだな」
「別に、恨んでなどいませんよ……少々、胃薬の量が増えそうではありますがね」
神経質なこの警部は、胃痛が原因で退役し、スコットランド・ヤードに入庁したという経歴を持っている。いつもスーツのポケットに、胃薬を忍ばせているらしい。
「コーヒーは胃に悪いんじゃないの?」
ジャックが冷やかすが、フルハタは、
「マスターのコーヒーを飲まないで一日を終える方が、精神衛生上良くありません」
と、カップを口に運んだ。
「で、どうなんだ? あの死体の身元捜査は?」
「敵に塩を送るほど、私はお人好しではありませんよ」
と言いつつも、フルハタは大きく溜息を吐く。
「正直、参っています。不法移民を調べようにも、記録が残っていないから不法移民な訳で……」
「だろうな」
「他にも手を尽くしているんですがね。タワーブリッジ周辺の聞き込みに、彼が着ていたものの特定、犯罪歴……」
「司法解剖は?」
「事件性を確定できなければ許可は下りません」
「窮屈だな、警察ってのは」
「正直、あなたがたが羨ましいです。違法捜査も揉み消せるお墨付きが、私も欲しいです」
そこでジャックは、例の件を訊ねてみた。
「捜索願は当然、調べたんだろ?」
「もちろん。しかし、昨日の今日ですし、それらしいものはなかったです」
「…………」
沈黙するジャックを見て、フルハタは眉を上げる。
「こちらがこれだけ情報を出したんです。あなたも分かったことを出さなければフェアではありませんよ」
「そうだな……」
ジャックは考える素振りをして答えた。
「ピクルスだけのサンドイッチは、美味くない」
フルハタは唖然とした後、声を上ずらせた。
「そ、そんなこと、教えられるまでもありません!」
だがジャックはそれを無視して、
「ご馳走さん」
と立ち上がった。そのまま扉に向かう彼を、マスターの声が引き止める。
「ツケはいつ払うんだ?」
ジャックは気まずい顔で振り返った。
「明日だ。明日返すから、ちょっと待って。お願い、この通り!」




