第五章 辿り着いたその先に
王子に拒絶され、家からも追放された。行くあてなど、どこにもない。
雪巴は、王都の雑踏の中を、ただ当てもなく歩き続けた。着の身着のままのドレスは汚れ、道行く人々は、落ちぶれた貴族の娘に好奇と侮蔑の視線を向ける。老執事が握らせてくれた数枚の銀貨は、たった一晩の宿代と、硬いパンで消えてしまった。
何日も歩き続け、空腹と疲労が限界に達した時、彼女の足は貧民街の路地裏でついに動かなくなる。
(ああ、ここで終わるのだな……)
遠のく意識の中で、彼女はふと、どこからか漂ってくる、甘く、優しい匂いを嗅いだ。
それは、焼きたてのパンの香りだった。
次に雪巴が目を覚ましたのは、簡素だが清潔なベッドの上だった。窓からは明るい陽が差し込み、部屋は温かい空気に満ちている。
「おや、目が覚めたかい、お嬢ちゃん」
声をかけてきたのは、恰幅のいい、気の強そうな女主人だった。
「三日も眠りこけていたよ。うちの店の前で倒れていたんだ。パンの匂いにでも釣られたのかね」
ここは、「陽だまりの宿」という、パン屋を兼ねた宿屋だった。女主人は、雪巴が元貴族であることなど気にも留めず、代わりにこう言った。
「行くあてがないなら、ここで働きな。部屋と食事は保証してやる。その代わり、死んだような顔はするんじゃないよ!」
そのぶっきらぼうな優しさが、凍てついた雪巴の心に、じんわりと染み渡った。
雪巴の新しい生活は、皿洗いや配膳、客室の掃除といった、これまでの人生で経験したことのない仕事の連続だった。
公爵令嬢だった頃の、絹のように柔らかい手は、すぐに荒れて固くなった。けれど、不思議と心は穏やかだった。ここには、彼女を「出来損ない」と罵る者はいない。汗を流して働けば、女主人は「ご苦労さん」と温かい賄いをくれる。単純な労働と、ささやかな報酬。その繰り返しが、傷ついた雪巴の心を、少しずつ癒していった。
そんなある日、宿屋に一人の旅人が、雪巴を名指しで訪ねてきた。
女主人の訝しげな視線の中、雪巴が受け取ったのは、見覚えのある、祖父の家の紋章が刻まれた木箱だった。叔父からの贈り物だと、旅人は言った。どうやら、屋敷に残っていた老執事が、雪巴の居場所を知らせてくれたらしい。
自室に戻り、震える手で木箱を開ける。
中に入っていたのは、乳白色に淡く輝く、一つの**【スキルオーブ】**だった。
添えられた手紙には、叔父の文字でこう書かれていた。「祖父上の遺品整理で見つけたものだ。君の助けになるやもしれぬ」
オーブに手をかざすと、その名が脳裏に浮かんだ。
【浄化の氷細工】。
攻撃にも防御にも使えない、誰も見向きもしない生産スキル。
(……そうよね、私に戦う力なんて、あるはずないもの)
自嘲の笑みが浮かびそうになった。だが、それよりも強い感情が、雪巴の胸を満たした。
(おじいさま……)
叔父からの贈り物であるはずなのに、彼女が感じたのは、亡き祖父の温かさだった。「これからは自分の生活を守りなさい」と言ってくれた、あの優しい声。このオーブは、祖父からの最後の励ましのような気がした。
雪巴は、その冷たいはずのオーブを、ぎゅっと胸に抱きしめた。
その夜、雪巴は宿屋の厨房に一人立っていた。女主人が眠りにつき、静寂に包まれた厨房は、彼女だけの時間だった。
(試してみよう……おじいさまが、遺してくれた力を)
彼女は、スキルオーブをそっと握りしめ、目を閉じて魔力を込めた。
いつもなら、全身を駆け巡る、身を切るような冷たい感覚。しかし、その夜は違った。
ふわり、と手のひらが、温かくなった。
目を開けると、彼女の手のひらの上に、小さな光の粒が集まり、ゆっくりと形を成していく。それは、青白い氷の結晶だった。けれど、その氷は冷たくなかった。なぜか、どこか懐かしい、陽だまりのような温かさを持っていた。
(……温かい、氷?)
その不思議な感覚に導かれるまま、雪巴は氷の形を操っていく。やがて、彼女の手のひらには、淡い光を放つ、精巧な氷の薔薇が咲いていた。
その時だった。
「……すごい」
背後からの声に、雪巴は弾かれたように振り返った。
そこに立っていたのは、この宿屋のパンを一人で焼いているという、無口な青年だった。毎朝、誰よりも早く起きてパンをこねる彼は、いつも少し気難しそうな顔をしていた。
雪巴は、呪われた力を見られたことに、血の気が引いた。咄嗟に、氷の薔薇を隠そうとする。
しかし、青年は怯えも、侮蔑もしていなかった。彼の目は、雪巴が隠そうとする手のひらの上の光に、ただ、まっすぐに注がれていた。
「君は……なんて美しい魔法を使うんだ」
綺麗だ、と彼は言った。見惚れてしまう、と。
呪いだと思っていた力を、美しいと言ってくれた、初めての人。
その言葉と、彼の真摯な眼差しに、雪巴の心は、どうしようもなく震えた。
彼女の本当の人生は、この夜、この厨房で、ようやく産声を上げたのかもしれない。




