第三章 陽光の王子と蝕む影
王都にある王立魔導院での新しい生活は、雪巴の凍てついた心に、陽だまりのような温かさをもたらしてくれた。
「混沌の魂」という自らの特性を、まだ完全には受け入れられていなかったが、それでも、友と語らい、城下町で人気の「炎鳥の炙り焼き」を頬張る日々は、紛れもない幸福だった。
そして、その幸福の中心には、一人の青年がいた。
魔導院の首席にして、この国の第二王子、アレン。彼が石造りの回廊を歩けば、誰もが憧れの溜息をつく。その圧倒的な光の前で、雪巴は自分など、影の中に生きる存在だと思っていた。
しかし、雪巴の運命は、彼女自身の力によって動くことになる。
幼い頃から、唯一の逃げ場だった書庫で読みふけった知識は、彼女を古代魔術語の解読において、院でも随一の才能の持ち主へと押し上げていた。その才能を認められ、雪巴は院の重要文献を管理する「王家の学者団」への参加を推薦されたのだ。
彼と初めて言葉を交わしたのは、学者団だけが立ち入れる、禁書庫でのことだった。
二人きりの静寂の中、雪巴が探していた古の魔術書に手を伸ばした、その瞬間。同じ本に、彼の手が伸びてきた。指先が、ほんの少しだけ触れ合う。
「あ……失礼した」
そう言って微笑んだ彼の顔を、雪巴は真っ直ぐに見ることができなかった。心臓が、まるで凍った湖の氷が割れるように、大きな音を立てた。
それから、王宮の「収穫祭」の準備が始まる頃には、二人は自然と話すようになっていた。
夜遅くまで、二人で祭壇に飾るための魔法の氷像を彫ったり、古文書を調べて儀式の準備をしたり。その中で雪巴は、彼が「完璧な王子」ではないことを知る。時折見せる、年相応の少年らしい笑顔や、王族としての重圧に苦悩する横顔。
ある夜、疲れている彼のために、雪巴は故郷の北の地方に伝わる、心を鎮める**霊薬**を煎じて差し出した。
「ありがとう。……温かいな」
そう言って笑った彼の優しい笑顔を見た時、雪巴の心にあった最後の氷の壁が、音を立てて溶けていくのを感じた。
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けれど、屋敷の重い扉をくぐれば、そこには全く別の現実が待っていた。
母がいなくなり、父は雪巴を疎むどころか、まるで自らの所有物であるかのように、ねっとりとした視線を向けるようになっていた。
大理石の階段を上がってくる父の足音。その音を聞いただけで、身体は反射的にこわばり、心臓が跳ね上がった。重い扉が開く音、名を呼ぶ低い声。そのすべてが、見えない鎖となって彼女を縛った。
心の恐怖を押し殺すのが、一番安全な生き方だった。
父の振る舞いには、精神的な圧迫だけではなく、決して踏み込まれてはならない領域への影が混じり始めていた。けれど、公爵である父に、雪巴が抵抗する術はなかった。
やて、心と身体は限界を知らせる悲鳴を上げ始めた。
魔導院は楽しい。友と語らい、アレン王子と過ごす時間は、何よりも大切な救いだ。それなのに、屋-敷に帰る時間が近づくと、毎日決まって微熱が出た。楽しいはずなのに、ふとした瞬間に涙が頬を伝う。
私は静かに壊れていく。そう感じていた。
誰にも相談できなかった。父にはもちろん、王子にこんな醜い話ができるはずもなかった。私はたった一人で、父には内緒で、神殿区にいるという**「魂の癒し手」**の元を訪ねる決心をした。
癒し手の老婆は、雪巴の話を静かに聞き、そして言った。
「お嬢さん、それは『魂の熱病』じゃな。輝かしい光と、耐え難い闇。その二つの間で、魂が引き裂かれそうになっておるのじゃ」
そして、老婆との「魂の対話」の中で、あの言葉が生まれた。
「感情が溢れ出しそうな時は、どんな時ですかな」
「防波堤を、越えていくような……感じです」
そのイメージは、雪巴の心にすとんと落ちた。王子といる時の喜びは、穏やかな凪いだ海。けれど、父への恐怖と絶望は、すべてを飲み込む大時化の波。
「良いイメージじゃ。その防波堤を、祈りの力で高く、分厚くするのじゃ」
その言葉は、暗闇の中に差し込んだ一筋の光のようだった。ただ波にのまれるのではなく、自分を守る術がある。そう思えるだけで、少しだけ、息がしやすくなった。
けれど、防波堤をいくら高くしても、大荒れの波は必ず隙間から滲み込んでくる。
朝になると、身体がまるで鉛を仕込まれたかのように動かなかった。
魔導院という救いの場所に、たどり着くことさえ困難になっていく。その矛盾が、雪巴をさらに苦しめた。
騎士見習いや、神殿の侍祭として、親元を離れて暮らす同級生の話を聞くと、羨ましくてたまらなかった。私が求めていたのは、ただの自由ではなかった。それは「安全」だった。虐待のない場所で、一人の人間として尊重されながら、自立して大人になること。
その頃の私にとって、それは手の届かない夢物語だった。
防波堤は、確かに私を支えてくれていた。けれど、それだけではもう、立っていることさえ難しくなっていたのだ。




