第二章 呪いの正体
呪われた力が発覚してから数年、雪巴の「訓練」は続いていた。
心を凍らせ、感情を殺す日々。その一方で、彼女の身体は少女から大人へと、ゆるやかに変化を始めていた。かつて母に抱きしめられた記憶は、もう遠い昔の物語のようだ。
そんな日々は、彼女が十六歳になった年の秋、突然終わりを告げる。
きっかけは、母が「月の雫」を盗み、若さと美貌を永遠に保つという禁断の魔術に手を出したことだった。父にその儀式の現場を押さえられたのだと、後から使用人たちが噂しているのを耳にした。
劇的な夫婦喧嘩があったわけでも、涙の別れがあったわけでもない。
ある朝、母はただ、屋敷から忽然と姿を消していた。
その事実を知らされても、雪巴の心は不思議なほど静かだった。
もう、あの地下室の冷気の中で震えることはない。侮蔑の言葉に心を突き刺されることもない。そう思うと、体の芯から強張っていた何かが、ふっと解けていくような、確かな安堵感があった。
けれど、それだけではなかった。
母がいなくなった屋敷は、がらんとして、静かすぎた。食卓から、母の甲高い笑い声が消えた。廊下から、母のヒステリックな怒鳴り声が消えた。そして、風邪を引いた夜に、もう誰も甘い蜂蜜ミルクを持ってきてはくれないのだと気づいた。
呪いが発覚する前の、優しかった母の記憶。その断片まで、今の母と一緒に消えてしまった。
暴力からの解放という安堵と、言葉にできない喪失感。その二つが入り混じった複雑な感情に、雪巴はただ、胸の空白を抱きしめるしかなかった。
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母がいなくなり、父は雪巴の存在をますます疎むようになった。そんな折、王家から「若き魔術師の、魔力的特性の再鑑定」という通達が届く。父は厄介払いのように、雪巴を王宮の鑑定室へと送り出した。
そこで、白衣を着た老魔術師は、雪巴の魔力の流れを水晶に映し出し、静かに告げた。
「お嬢さん、あなたの一族がこれを『呪い』と呼ぶのは理解できます。感情の昂りに魔力が過剰に反応し、生命力すら削って暴走する。古来、そうした力は忌み嫌われてきましたからな」
雪巴は、また「出来損ない」の烙印を押されるのだと、唇を噛んだ。しかし、老魔術師の言葉は続いた。
「ですが、これは呪いではありません。『混沌の魂』と呼ばれる、極めて稀な魂の気質なのです。あなたの魂は、世界の魔力の根源たる『混沌』と、人一倍強く結びついている。感情の制御は難しいが、その分、その魔力は計り知れない可能性を秘めているのですよ」
呪いではない。計り知れない可能性を秘めた、魂の気質。
その言葉は、雪巴の心に深く染み渡った。父や母から「呪い持ち」「ハズレくじ」と蔑まれ続けてきた自分の性質に、初めて、希望の光が差した瞬間だった。
その翌年の春、氷雪公爵家は、長年治めていた北の領地を引き払い、王都へと引っ越すことが決まった。
母の暴力と、冷たい記憶が染みついたあの屋敷から、ついに出られる。本で読んで憧れていた「引っ越し」は、雪巴にとって希望そのものだった。
新しい屋敷の、自分の部屋。清潔で、静かで、息がしやすい。
そして、王立魔術学園への転入。北の地の紋章が刺繍された古い制服は、王都の華やかな制服の中ではひどく浮いていた。「北の呪い持ち」と、遠巻きに囁く声も聞こえる。
それでも、一人の女生徒が、雪巴に屈託なく声をかけてきた。
「その制服の刺繍、すっごく綺麗ね!」
その、何の裏もない、温かい一言。
胸の奥で硬く凍りついていた何かが、ほんの少し溶けるのを、雪巴は感じた。
日常の風景が、鮮やかに色づき始めた。
放課後、友達と連れ立って、学園都市で人気の「炎鳥の唐揚げ」を頬張る。食べると身体がぽかぽかして、少しだけ勇気が湧いてくる不思議な揚げ物だ。
「明日も食べに来ようよ」
その約束が、たまらなく嬉しかった。
外の景色は、驚くほど明るくなった。
けれど、心の奥の暗闇はまだ消えなかった。
母の暴力はなくなった。学校には、心を許せる友達がいる。それでも、「混沌の魂」がもたらす感情の波は、ふいに牙を剥く。
なぜ、こんなにも幸せなはずなのに、それが止まらないのか。その理由がわからないことが、何よりも不安だった。
だが、決定的に違ったことが一つだけあった。
「実は、私も、魔力の制御が苦手で……」
勇気を出して打ち明けた友達の何人かは、同じように悩んでいた。光の中だけでなく、暗闇の中にさえ、仲間がいた。
その事実は、雪巴にとって、何よりの救いだったのかもしれない。




