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第1章

落下しているような、浮かんでいるような――

身体の感覚が曖昧になり、蒼真はただ光の中を漂っていた。


耳鳴りのような風の音が、遠くで渦を巻く。

視界は白一色で、上下も前後も分からない。


(……夕奈)


その名前を思い浮かべた瞬間、胸の奥が熱くなる。

七年間、ずっと閉じ込めていた想いが、光に溶けていくようだった。


やがて、白が薄れ、色が戻り始める。

光の粒が舞い落ち、世界の輪郭がゆっくりと形を成す。


――そして。


「……っ!」


蒼真は勢いよく上体を起こした。

息が荒い。心臓が痛いほど脈打っている。


見慣れた天井。

けれど、それは“今”のものではなかった。


木目の古い天井板。

壁に貼られた、色褪せたバンドのポスター。

机の上には、当時使っていた黒いガラケー。


「……ここは……俺の、部屋……?」


声が震える。

手のひらを見つめると、そこには――

24歳の自分ではなく、17歳の自分の手があった。


「成功だよ、蒼真」


振り向くと、窓辺にココが浮かんでいた。

夕方の光を受けて、金色の瞳が柔らかく輝いている。


「ここは七年前。

 夕奈が亡くなる“数日前”の世界だよ」


蒼真は喉が詰まり、言葉が出なかった。

胸の奥がざわつく。

懐かしさと恐怖と期待が、ぐちゃぐちゃに混ざり合う。


そして――


「蒼真ー? 起きてるー?」


階下から、聞き慣れた声が響いた。


その声を聞いた瞬間、蒼真の全身が震えた。


(…夕奈)


七年間、夢でしか聞けなかった声。

もう二度と聞けないと思っていた声。


「……夕奈……?」


喉の奥から漏れたその名は、震えていた。


階段を駆け上がる足音。

ドアがノックされる。


「蒼真? 入るよ?」


そして――

ドアがゆっくりと開いた。


そこに立っていたのは、

七年前の夏の光をそのまま閉じ込めたような笑顔の少女。


「おはよ、蒼真。今日、約束してたでしょ?」


藤宮夕奈。

17歳のままの、蒼真が愛した少女。


そして、夕奈がドアの前に立っていた。

七年前の夏の光をそのまま閉じ込めたような、柔らかい笑顔で。


「ほら、早く準備してよ。今日、海行くって言ったじゃん」


その声を聞いた瞬間、蒼真の胸が締めつけられた。

七年間、夢でしか聞けなかった声。

もう二度と聞けないと思っていた声。


「……夕奈……」


名前を呼ぶと、夕奈は不思議そうに首をかしげた。


「どうしたの? なんか変だよ、蒼真。寝起き悪すぎ」


その仕草も、声の調子も、全部が懐かしくて、全部が愛しかった。

蒼真は言葉を失い、ただ夕奈を見つめる。


「……本当に……生きてるんだな」


思わず漏れたその言葉に、夕奈は目を瞬かせた。


「なにそれ。生きてるに決まってるじゃん。

 ……もしかして、まだ寝ぼけてる?」


夕奈は笑って、蒼真の額に手を伸ばした。

その手の温かさが、七年間の空白を一瞬で埋めていく。


(……触れられる。

 夕奈の手が……ちゃんと、ここにある)


胸が熱くなり、涙がこぼれそうになる。

だが、泣くわけにはいかなかった。

夕奈はまだ何も知らない。

この数日後に、自分が死ぬことも。


「……ごめん。ちょっと、夢見てた」


蒼真は必死に笑顔を作った。

夕奈は安心したように微笑む。


「ならよかった。

 ほら、早くしないと日が暮れちゃうよ?」


夕奈は軽く手を振って、階段を降りていく。

その背中を見送りながら、蒼真は深く息を吸った。


(……ここからだ。

 俺は、この数日で夕奈を救わなきゃいけない)


部屋の隅で、ココが静かに浮かんでいた。


「ねえ蒼真。

 “過去を変えられる回数”は、あと7回だよ。

 無駄遣いしないようにね」


蒼真は頷いた。


「分かってる。

 絶対に……夕奈を死なせない」


拳を握りしめ、蒼真は立ち上がった。


七年前の夏が、再び動き出す。

--------------------------------------------------------------------------------------------------------------

階段を降りると、夕奈は玄関でサンダルのストラップを直していた。

夏の日差しが差し込み、彼女の髪がきらきらと光る。


「遅いよ、蒼真。ほら、行こ?」


夕奈は振り返り、無邪気に笑った。

その笑顔を見ただけで、胸が痛くなる。


(……この笑顔を、絶対に失いたくない)


蒼真は喉の奥に込み上げるものを押し込み、ぎこちなく頷いた。


「……ああ。行こう」


二人は並んで歩き出す。

蝉の声が響き、アスファルトの匂いが夏を告げていた。


夕奈は歩きながら、ふと横目で蒼真を見た。


「ねえ、今日の蒼真、なんか変じゃない?」


「変って…どこが」


「んー……なんか、大人っぽいっていうか。

 いつもより落ち着いてる感じ?」


蒼真は一瞬、返事に詰まった。

24歳の意識を持ったまま、17歳の身体に戻っているのだから当然だ。


「……そうか?」


「うん。でも、なんかいいかも」


夕奈は照れたように笑い、前を向いた。

その横顔を見つめながら、蒼真は胸の奥が熱くなるのを感じた。


(……夕奈は、俺のことをどう思っていたんだろう)


七年前には気づけなかったことが、今なら分かる気がした。


やがて、海が見えてくる。

潮風が吹き抜け、夕奈の髪がふわりと揺れた。


「わあ……今日、すっごく綺麗!」


夕奈は駆け出し、波打ち際まで走っていく。

その姿は、まるで光そのものだった。


蒼真はゆっくりと歩きながら、ポケットの中で拳を握った。


(……この数日で、夕奈を救う方法を見つけなきゃいけない)


そのとき、肩に小さな重みが乗った。


「ねえ蒼真」


ココがいつの間にか現れ、蒼真の肩に座っていた。


「夕奈の“死因”は事故だけど、

 事故の“きっかけ”はまだ分かってないよね」


蒼真は小さく頷く。


「……ああ。だから探すんだ。

 あの日、何が起きたのか」


ココは金色の瞳を細めた。


「気をつけてね。

 過去は変えられるけど、変えた分だけ“歪み”も生まれる。

 それが、きみの未来にどう影響するかは……まだ分からない」


蒼真は海辺で笑う夕奈を見つめた。


「それでもいい。

 夕奈が生きてくれるなら、どんな未来でも構わない」


ココは小さくため息をついた。


「……ほんと、きみって不器用だね」


その声には、どこか優しさが滲んでいた。


波の音が寄せては返す。

夕奈が振り返り、手を振った。


「蒼真ー! 早く来なよー!」


蒼真はその声に応えるように歩き出した。


――この夏を、必ず変えてみせる。


波打ち際で夕奈が裸足になり、海水をぱしゃっと蹴り上げた。

水しぶきが陽光を受けて虹色に光る。


「ねえ蒼真、見て見て! 冷たくて気持ちいいよ!」


夕奈は子どものように笑いながら手を振る。

その笑顔は、七年前と何ひとつ変わっていなかった。


蒼真はゆっくりと近づき、波打ち際に立つ。

潮風が肌を撫で、胸の奥に懐かしい痛みが広がる。


(……この光景を、俺は二度と見られないと思っていた)


夕奈は蒼真の顔を覗き込んだ。


「ねえ、本当にどうしたの? 今日の蒼真、なんか変だよ」


「変って……そんなにか?」


「うん。なんか……優しい。

 いつも優しいけど、今日はもっと……なんていうか……」


夕奈は言葉を探すように視線を泳がせた。


「……大切にされてるみたいな感じ?」


その言葉に、蒼真の胸が強く締めつけられた。


(大切にしてるよ。

 ずっと……ずっと大切だったんだ)


だが、言葉にはできない。

この世界の夕奈は、まだ何も知らない。


「……そう見えるなら、悪くないだろ」


蒼真が照れ隠しのように言うと、夕奈は嬉しそうに笑った。


「うん。なんか、今日の蒼真、好きだな」


その一言が、心臓を撃ち抜いた。


(……夕奈。

 お前は、あの時……俺のこと、どう思ってたんだ?)


聞きたい。

でも聞けない。

聞いた瞬間、この時間が壊れてしまいそうで。


夕奈は波を見つめながら、ふと表情を曇らせた。


「……ねえ蒼真。

 もしさ、もしもだよ?」


「ん?」


「明日が最後の日だったら……

 蒼真は、何をしたい?」


蒼真は息を呑んだ。


(……最後の日?

 夕奈、お前……)


夕奈は笑っている。

けれど、その笑顔の奥に、微かな影があった。


「なんかね、最近思うんだ。

 “今”って、ずっと続くわけじゃないんだなって」


蒼真の心臓が冷たくなる。


(夕奈……何か、知ってるのか?

 事故のこと……未来のこと……?)


夕奈は波に足を浸しながら、ぽつりと続けた。


「だからね、後悔しないようにしたいんだ。

 ちゃんと、伝えたいことは伝えて……

 大切な人には、大切って言って……」


その言葉は、まるで“遺言”のように聞こえた。


蒼真は思わず夕奈の腕を掴んだ。


「夕奈……お前、何か隠してるだろ」


夕奈は驚いたように目を見開き、すぐに笑って誤魔化した。


「え? 隠してるって……そんなのないよ。

 ただ、ちょっとセンチメンタルになってただけ」


だが、その笑顔はどこかぎこちなかった。


(……夕奈は、何かを抱えている。

 俺が知らなかった“何か”を)


その瞬間、ココが蒼真の肩にひょいと乗った。


「ねえ蒼真。

 “前兆”は、もう始まってるよ」


蒼真は夕奈を見つめた。

夕奈は波の向こうで、遠くの空を見上げている。


(……絶対に、見逃さない。

 夕奈を救うためなら、どんな真実でも向き合う)


波が寄せては返す。

夏の風が吹き抜ける。


七年前の夏が、確実に動き始めていた。

----------------------------------------------------------------------------------------------------------------

夕奈は波打ち際に立ったまま、遠くの水平線を見つめていた。

その横顔は、夏の光に照らされているのに、どこか儚かった。


蒼真は、胸の奥にざわつく不安を押し殺しながら、そっと夕奈の隣に立つ。


「夕奈。さっきの……どういう意味だ?」


夕奈は一瞬だけ目を伏せ、すぐに笑顔を作った。


「深い意味なんてないよ。

 ただ……最近、時間が過ぎるのが早いなって思ってさ」


その笑顔は、蒼真が知っている“強がりの笑顔”だった。

七年前の自分は気づけなかった。

でも今の蒼真には分かる。


(夕奈……何かを隠してる)


夕奈は波に足を浸しながら、ぽつりと呟いた。


「ねえ蒼真。

 もしさ……もし、私がいなくなったら――」


「夕奈」


蒼真は思わず遮った。

声が震えていた。


「そんなこと、言うな」


夕奈は驚いたように目を見開き、すぐに柔らかく微笑んだ。


「……ごめん。変なこと言っちゃったね」


けれど、その目の奥にある影は消えていなかった。


(夕奈は……“自分が死ぬこと”を予感していた?

 それとも――知っていた?)


蒼真が考え込んでいると、夕奈がふいに手を伸ばしてきた。


「ほら、行こ。

 せっかく海に来たんだし、楽しまなきゃ損だよ」


その手は温かくて、確かに“生きている”温度だった。

蒼真はその手を握り返す。


「……ああ。行こう」


二人は波打ち際を歩き始めた。

夕奈は時折笑いながら、水を蹴り上げる。

その姿は、七年前と何ひとつ変わらない。


だが――


蒼真の視線は、夕奈の足元に落ちた。


(……歩き方が少しおかしい)


夕奈は気づかれまいとするように、右足をかばっている。

ほんのわずかだが、確かに“痛み”を隠していた。


「夕奈。足、どうした?」


夕奈は一瞬だけ動きを止め、すぐに笑って誤魔化した。


「え? なんでもないよ。

 ちょっと捻っただけ。すぐ治るって」


その言い方が、逆に不自然だった。


(……夕奈の死因は“事故”。

 でも、本当にそれだけなのか?

 もしかして――身体に何か抱えていた?)


蒼真が問い詰めようとしたその瞬間。


「――っ!」


夕奈が急に胸元を押さえ、苦しそうに顔を歪めた。


「夕奈!?」


蒼真が駆け寄ると、夕奈は必死に笑顔を作った。


「だ、大丈夫……ちょっと、息が苦しくなっただけ……」


「大丈夫じゃないだろ!」


夕奈は首を振る。


「ほんとに平気。

 ほら、もう治ったから」


そう言って立ち上がるが、足元はふらついていた。


(……夕奈は“事故”だけじゃない。

 何か、もっと深い問題を抱えている)


そのとき、蒼真の肩にココが現れた。

声は小さく、しかし真剣だった。


「蒼真。

 夕奈の“死”には、まだきみが知らない要素がある。

 事故は“結果”であって、“原因”じゃない」


蒼真は息を呑んだ。


「じゃあ……夕奈は――」


ココは静かに言った。


「夕奈は、きみが思っているよりずっと“危うい”状態にいるよ」


夕奈は波の向こうで、無理に笑って手を振っていた。


蒼真は拳を握りしめる。


(……絶対に見逃さない。

 夕奈を救うためなら、どんな真実でも向き合う)


夏の風が吹き抜ける。

波が寄せては返す。


夕奈は波打ち際から戻ってくると、

さっきの苦しそうな表情が嘘のように、いつもの明るい笑顔を浮かべていた。


「蒼真、行こ。

 そろそろ日が暮れちゃうよ」


その声は軽やかで、海風に溶けていくようだった。


蒼真は夕奈の歩幅に合わせながら、横目で彼女を見つめる。

夕奈は右足を少し気にしているように見えたが、

本人はまったく気にしていない様子で歩いている。


「ほんとに大丈夫なのか?」


「大丈夫だってば。

 ちょっと転んだだけだよ。海来る前にね」


夕奈は笑って、軽く足を振って見せた。

その仕草は自然で、無理をしているようには見えない。


(……俺が気にしすぎなのか)


蒼真は胸の奥のざわつきを押し込んだ。


夕奈は海を振り返り、目を細める。


「今日の海、綺麗だったね。

 なんか……久しぶりにゆっくりできた気がする」


「そうだな」


「蒼真とこうして歩くの、好きだよ」


夕奈は照れたように笑った。

その笑顔は、七年前と何も変わらない。


蒼真の胸がじんわりと熱くなる。


「……俺もだよ」


夕奈は嬉しそうに頷き、歩き出した。


「ねえ、帰りに寄りたい場所があるんだ。

 ちょっとだけ、思い出の場所」


「思い出の場所?」


「うん。

 蒼真なら、行けば分かると思う」


夕奈はそう言って、前を向いた。

その声は穏やかで、どこか懐かしさを含んでいた。


蒼真は首をかしげながらも、夕奈の後を追う。


(思い出の場所……どこだ?

 夕奈と一緒に行った場所なんて、たくさんあるけど)


夕奈は振り返り、にこっと笑った。


「楽しみにしててね」


その笑顔は、ただの“少女の笑顔”だった。

不安も、影も、覚悟も――

何ひとつ感じさせない。


蒼真はその笑顔に安心し、胸の奥の不安が少しだけ和らいだ。


(……夕奈は大丈夫だ。

 俺が守る。

 今度こそ)


夏の風が吹き抜け、二人の影が並んで伸びる。


七年前の夏は、静かに、しかし確実に動き始めていた。

-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

夕奈は波打ち際から離れ、海沿いの遊歩道へと歩き出した。

夕暮れの光が二人の影を長く伸ばし、夏の風がそっと背中を押す。


「ねえ蒼真、帰り道さ……ちょっと寄り道してもいい?」


夕奈は振り返り、いつものように無邪気に笑った。


「寄り道?」


「うん。

 ちょっとだけ行きたい場所があるんだ。

 昔、二人でよく行ったとこ」


蒼真は少し考え、首をかしげた。


「昔って……どこだ?」


「ふふっ、内緒。

 行けば思い出すよ」


夕奈はそう言って、軽く手を振った。

その仕草は自然で、どこにも影はない。


蒼真は歩きながら、夕奈の横顔を盗み見る。

さっきまでの苦しそうな表情は完全に消え、

今はただ、楽しそうに海風を受けている少女の顔だった。


(……本当に大丈夫そうだな)


胸の奥の不安が、少しだけ和らぐ。


夕奈は歩きながら、ふと空を見上げた。


「今日、来てよかったね。

 なんか……夏って感じがした」


「そうだな。

 久しぶりに、こういう時間を過ごした気がする」


「でしょ?

 蒼真、最近ずっと忙しそうだったもんね」


夕奈は軽く笑う。

その言葉に、蒼真は一瞬だけ胸が痛んだ。


(……七年前の俺は、夕奈の気持ちに気づけなかった)


だが今は違う。

今度こそ、守ると決めた。


「夕奈」


「ん?」


「……今日はありがとう。

 楽しかった」


夕奈は目を丸くし、すぐにふわっと笑った。


「なにそれ。

 急にどうしたの?」


「いや……なんとなく」


「ふふっ。

 でも、そう言ってくれて嬉しいよ」


夕奈は足を止め、海を振り返った。

夕陽が水平線に沈みかけ、空がオレンジ色に染まっている。


「ねえ蒼真。

 この景色、覚えててね」


「景色?」


「うん。

 今日のこと、ちゃんと覚えててほしいの」


夕奈はそう言って、優しく微笑んだ。

その笑顔は、ただの“少女の笑顔”だった。


蒼真は頷く。


「忘れるわけないだろ」


「……そっか。

 ならよかった」


夕奈は満足そうに頷き、再び歩き出した。


「じゃあ行こ。

 寄りたい場所、案内するね」


蒼真はその背中を追いながら、

胸の奥に小さな温かさが広がるのを感じていた。


(夕奈と一緒に歩く時間が……こんなに大切だったなんて)


夏の風が吹き抜け、二人の影が寄り添うように揺れる。


夕奈は海から離れ、住宅街へ続く坂道を軽やかに歩いていく。

夕暮れの光が背中に差し込み、髪がふわりと揺れた。


「こっちだよ、蒼真」


振り返る夕奈の笑顔は、どこまでも自然で、

さっきまで体調を崩していたとは思えないほど明るかった。


蒼真はその後ろ姿を追いながら、胸の奥に温かいものが広がるのを感じていた。


(……こうして並んで歩くの、久しぶりだな)


七年前の自分は、こんな時間の尊さに気づけなかった。

今は違う。

一歩一歩が、かけがえのない瞬間に思えた。


「ねえ蒼真、覚えてる?」


夕奈がふいに言った。


「何を?」


「この道。

 昔、二人で競争したことあったでしょ?

 ほら、小学校の帰りにさ」


蒼真は思わず笑った。


「ああ……あったな。

 夕奈が転んで、俺が背負って帰ったんだっけ」


「そうそう!

 あの時、蒼真すっごく焦ってたよね」


夕奈は楽しそうに笑う。

その笑顔は、あの頃と何も変わらない。


「だって、お前泣くから……」


「泣いてないもん」


「泣いてた」


「泣いてないってば!」


二人の声が、夕暮れの坂道に響く。

そのやり取りは、まるで時間が巻き戻ったかのようだった。


やがて、坂を登りきると、小さな公園が見えてきた。


夕奈は足を止め、静かに言った。


「――着いたよ」


蒼真は目を見開く。


「ここ……」


夕奈は頷いた。


「うん。

 “秘密基地”にしてた公園」


小さな滑り台と、古いブランコ。

夕方の光に照らされて、どこか懐かしい匂いが漂っていた。


「覚えてる?

 ここでさ、よく二人で話したよね。

 将来のこととか、好きなものとか……」


夕奈はブランコにそっと触れた。


「私ね、この場所……ずっと好きだったんだ」


蒼真は胸が熱くなる。


「夕奈……」


夕奈はブランコに腰を下ろし、軽く揺れながら空を見上げた。


「今日、ここに来たかったのはね……

 なんとなく、思い出したかったから」


「思い出したかった?」


「うん。

 昔のこと、ちゃんと覚えておきたいなって」


夕奈は微笑む。

その表情は穏やかで、どこにも影はなかった。


蒼真は隣のブランコに座り、夕奈と同じ空を見上げる。


「……俺もだよ。

 忘れたくない。

 夕奈と過ごした時間、全部」


夕奈は驚いたように蒼真を見つめ、

そして――ふわりと微笑んだ。


「……そっか。

 なら、よかった」


風が吹き、二人のブランコがゆっくり揺れる。


夕暮れの公園に、

二人だけの静かな時間が流れていった。


夕奈はブランコを軽く揺らしながら、空を見上げていた。

夕暮れの光が彼女の横顔を照らし、どこか懐かしい雰囲気をまとわせている。


「ねえ蒼真。

 ここでさ、よく話したよね」


「……ああ。

 放課後に寄り道して、夕奈が帰りたくないって言って」


「言ってないよ」


「言ってた」


「言ってないってば!」


二人の声が重なり、自然と笑いがこぼれる。

その笑い声は、まるで七年前の夏に戻ったようだった。


夕奈はブランコを止め、足を地面につけた。


「ねえ蒼真。

 あの頃の私たちって、なんか無敵だったよね」


「無敵?」


「うん。

 怖いものなんて何もなくて、

 明日も明後日も、ずっと同じ日が続くって思ってた」


蒼真は静かに頷く。


「……そうだな。

 あの頃は、そんなふうに思ってた」


夕奈は少しだけ目を細めた。


「でもね、今は違うんだ。

 “今日”って、すごく大事なんだなって思う」


「今日が大事?」


「うん。

 だって、今日って……二度と来ないでしょ?」


夕奈の声は穏やかで、どこにも影はなかった。

ただ、今この瞬間を大切にしている少女の声だった。


蒼真は夕奈の横顔を見つめる。


「……そうだな。

 今日があるから、明日が来るんだよな」


夕奈はふっと笑った。


「蒼真、なんか大人っぽいね。

 ちょっとびっくりした」


「そうか?」


「うん。

 でも……そういう蒼真、好きだよ」


その言葉に、蒼真の胸が跳ねた。


「……夕奈」


夕奈は照れたようにブランコから立ち上がり、

砂場の方へ歩き出す。


「ねえ、覚えてる?

 ここでさ、昔“宝物”埋めたよね」


「宝物?」


「そう。

 ほら、二人で拾ったガラスの石とか、

 秘密のメモとか……」


蒼真は思い出して、思わず笑った。


「ああ……あったな。

 夕奈が“絶対掘り返しちゃダメ”って言ってたやつ」


「そうそう!

 あれ、まだ残ってるかなぁ」


夕奈はしゃがみ込み、砂を指で軽く掘る。

その姿は、あの頃のままの無邪気さだった。


「……掘るのか?」


「掘らないよ。

 だって“秘密”だもん」


夕奈は笑って立ち上がった。


「でもね、思い出すだけで十分なんだ。

 ここに来たら、なんか安心するから」


蒼真はその言葉に、胸がじんわりと温かくなる。


「……夕奈。

 また来ような。

 何度でも」


夕奈は目を丸くし、

そして――ふわりと微笑んだ。


「うん。

 また来よう。

 何度でも」


夕暮れの風が吹き抜け、

二人の影が寄り添うように揺れた。


その瞬間だけは、

世界が優しく包んでくれているように感じられた。

---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

夕奈はブランコから立ち上がり、砂を軽く払った。

夕暮れの光が彼女の髪を照らし、金色の縁取りをつくる。


「そろそろ帰ろっか。

 暗くなる前に帰らないと、お母さんに怒られちゃうし」


「そうだな」


蒼真も立ち上がり、夕奈の隣に並ぶ。

二人の影が寄り添うように伸びていた。


公園を出ると、夏の風がふわりと吹き抜ける。

夕奈のワンピースが揺れ、どこか懐かしい匂いがした。


「ねえ蒼真」


「ん?」


「今日、すごく楽しかったよ」


夕奈は歩きながら、少し照れたように笑った。


「海も綺麗だったし、公園も懐かしかったし……

 なんか、全部が特別に感じた」


「特別?」


「うん。

 こういう日って、そんなに多くないからさ」


夕奈はそう言って、空を見上げた。

夕焼けが夜に溶けていく境目が、淡い紫色に染まっている。


「蒼真と一緒にいると、落ち着くんだよね。

 昔からずっとそうだったけど……

 今日、それを改めて思ったの」


蒼真は胸が熱くなる。


「……俺もだよ。

 夕奈といると、なんか安心する」


夕奈は嬉しそうに微笑んだ。


「そっか。

 ならよかった」


二人は並んで歩き続ける。

住宅街に入ると、どこからか夕飯の匂いが漂ってきた。


「ねえ蒼真」


夕奈がふいに立ち止まった。


「手……つないでもいい?」


蒼真は驚いて夕奈を見る。

夕奈は少しだけ頬を赤くして、視線をそらした。


「なんか……今日、ずっとつないでたかった気がして」


蒼真はゆっくりと手を伸ばし、夕奈の手を握った。


「……いいよ。

 帰るまで、ずっとつないでよう」


夕奈はぱっと顔を上げ、嬉しそうに笑った。


「うん!」


二人の手が重なり、温かさが伝わる。

その温度は、七年前と何も変わらなかった。


(……この時間が、ずっと続けばいいのに)


蒼真はそう思いながら、夕奈の家へと歩き出した。


夕暮れの道を、二人の影が寄り添うように揺れながら進んでいく。


夏の夜が、静かに始まろうとしていた。

-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

夕奈の家へ続く道は、夕暮れの色から夜の青へと変わりつつあった。

街灯がぽつりぽつりと灯り始め、二人の影が長く伸びる。


「ねえ蒼真」


夕奈が手をつないだまま、少しだけ歩幅をゆるめた。


「今日みたいな日って……なんか、いいよね」


「そうだな。

 なんか、落ち着く」


「うん。

 ずっとこうして歩いてたいなって思っちゃう」


夕奈は笑った。

その笑顔は、いつも通りの夕奈の笑顔だった。


だが――

遠くで、救急車のサイレンが小さく鳴り始めた。


ピーポー、ピーポー――

夏の夜の空気を切り裂くように響く。


夕奈は一瞬だけそちらに視線を向けたが、

すぐに何事もなかったように前を向いた。


「ねえ蒼真、あそこの角、覚えてる?」


夕奈が指さしたのは、

二人が小学生の頃、よく駆け抜けた十字路だった。


「覚えてるよ。

 夕奈が自転車で突っ込んで、俺が怒られたとこだろ」


「そうそう!

 なんで蒼真が怒られるのか、今でも謎だよね」


二人は笑い合う。

その笑い声は、夏の夜に溶けていった。


サイレンの音は、いつの間にか遠ざかっていた。


夕奈の家まで、あと数分。

その道は、いつも通りの静かな住宅街だ。


「ねえ蒼真」


夕奈がふいに立ち止まった。


「ん?」


「……手、もう少しだけつないでていい?」


「もちろん」


蒼真は夕奈の手を握り直す。

その温かさは、確かに“生きている”温度だった。


夕奈は安心したように微笑んだ。


「ありがと」


二人は再び歩き出す。


そのとき――

遠くの交差点で、車のブレーキ音がかすかに響いた。


キィッ――


蒼真は一瞬だけそちらに目を向けたが、

すぐに音は消え、何事もなかったかのように静寂が戻った。


「どうしたの?」


夕奈が首をかしげる。


「いや……なんでもない」


蒼真は笑ってみせた。


(……気のせいだよな)


そう思いながらも、胸の奥に小さなざわつきが残る。


だが夕奈は、そんな蒼真の不安に気づくことなく、

ただ穏やかに歩き続けていた。


「ほら、もうすぐ家だよ」


夕奈が指さした先には、

見慣れた白い家の門灯が、ぽつりと灯っていた。


夏の夜は、静かに深まっていく。


そして――

運命の影は、まだ誰にも気づかれないまま、

ゆっくりと近づいていた。

--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

夕奈の家の門灯が、ぽつりと温かい光を落としていた。

夏の夜の匂いが漂い、どこか懐かしい静けさが広がっている。


「もうすぐだね」


夕奈が微笑む。

手はまだ蒼真の手を握ったまま、少しだけ力が入っていた。


「送ってくれてありがと。

 なんか……今日は帰りたくない気分だったから」


「俺もだよ。

 もっと一緒にいたかった」


夕奈は照れたように笑い、視線をそらした。


「……じゃあ、また明日ね」


「うん。明日」


二人は手を離し、ほんの少しだけ距離ができる。

その瞬間、風が吹き抜け、夕奈の髪が揺れた。


「気をつけて帰ってね、蒼真」


「お前こそ。

 暗いし、家に入るまで見てるから」


「ふふっ、心配性だなぁ」


夕奈は軽く手を振り、家の前の横断歩道へ向かう。

家の前の道は、普段は車通りが少なく、

この時間帯はほとんど静まり返っている。


蒼真は少し離れた場所から、夕奈の背中を見守っていた。


(……今日は本当に楽しかったな)


夕奈が振り返り、笑顔を見せる。


「じゃあね、蒼真!」


「おう、また明日!」


夕奈は横断歩道の前で立ち止まり、

信号機のボタンを押した。


カチッ。


夜の静けさの中で、その音だけが小さく響く。


信号はまだ赤。

夕奈は両手を後ろに組み、リズムをとるように足を揺らしていた。


蒼真はその姿を見て、思わず笑みをこぼす。


(……変わらないな、夕奈は)


そのとき――


遠くの道の向こうから、

ひときわ明るいヘッドライトが近づいてくるのが見えた。


ブォォォ――


夜の静寂を破るようなエンジン音。

普段この道では聞かない、少し荒い音だった。


蒼真は何気なくそちらに視線を向ける。


(……スピード出しすぎじゃないか?)


だが、まだ距離はある。

危険だとは思わない。

ただの通りすがりの車だと、そう思った。


信号が、青に変わる。


ピッ、という電子音。


「じゃあ、また明日ね!」


夕奈が軽く手を振り、横断歩道へ一歩踏み出す。


蒼真は笑顔で手を振り返す。


「おう、また明日――」


その瞬間。


――風が変わった。


車のエンジン音が、急に大きくなる。


ブォォォォッ!!


蒼真の心臓が、嫌な音を立てた。


(……え?)


夕奈はまだ気づいていない。

ただ、青信号に従って歩き出しただけ。


車は――

まっすぐ、こちらへ向かってくる。


蒼真の背筋に、冷たいものが走った。


「夕奈――!」


声が喉から飛び出した。


だが、まだ間に合うのか、間に合わないのか――

その境界線に、世界が静かに揺れていた。


「夕奈――!」


蒼真の叫びが、夜の住宅街に響いた。


夕奈は青信号を渡り始めたばかり。

その横を、猛スピードの車が――

まるで時間を無視するように――

一直線に突き進んでくる。


蒼真は走り出した。

全力で。

足がもつれそうになりながらも、ただ夕奈へ向かって。


(間に合え――!)


心臓が破裂しそうなほど脈打つ。

視界が揺れる。

呼吸が荒れる。


だが、距離が――遠い。


「夕奈、止まれ!!」


夕奈が振り返る。

驚いたように目を見開き――

その瞬間。


――世界が、白く弾けた。


眩しい光。

風を切る轟音。

タイヤが地面を滑る音。


蒼真の手は、夕奈に届かなかった。


「……っ!」


次の瞬間、蒼真は地面に膝をついていた。

息ができない。

胸が締めつけられる。


視界の先で、車が急停車し、

運転手が慌てて外へ飛び出してくる。


「うそ……だろ……」


蒼真は震える手で地面を掴み、立ち上がろうとする。

だが、足が震えて動かない。


(なんで……

 なんでだよ……

 俺は……助けるために戻ってきたのに……)


喉が焼けるように痛い。

叫びたいのに声が出ない。


「夕奈……!」


ようやく立ち上がり、ふらつきながら横断歩道へ駆け寄る。


そのとき――

蒼真の肩に、小さな手がそっと触れた。


「蒼真……」


ココだった。

その表情は、いつになく静かで、悲しげだった。


「……ごめん。

 今回は……間に合わなかったね」


蒼真は歯を食いしばり、声を震わせた。


「なんで……

 なんでだよ……

 俺は……絶対に助けるって……!」


ココは小さく首を振る。


「過去はね、強い力でできてるんだよ。

 一度で変えられるほど、弱くない」


蒼真は拳を握りしめ、地面を殴った。


「ふざけるな……!

 そんなの……そんなの認められるかよ……!」


涙がこぼれ、地面に落ちる。


ココは静かに言った。


「……でも、まだ終わりじゃない。

 “やり直すチャンス”は、あと6回残ってる」


蒼真は顔を上げた。

涙で滲んだ視界の中で、ココの金色の瞳が揺れている。


「蒼真。

 きみが諦めない限り、未来は変えられる」


蒼真は震える唇を噛みしめ、

ゆっくりと立ち上がった。


「……もう一度……

 もう一度やる。

 何度でも……夕奈を救うまで……!」


ココは小さく頷いた。


「うん。

 その覚悟があるなら――

 次の“時間”へ行けるよ」


蒼真は夕奈が倒れている方向を見つめ、

拳を強く握りしめた。


(絶対に……救う。

 今度こそ……必ず)


夜の風が吹き抜ける。

世界がゆっくりと歪み始める。


そして――

蒼真の視界は、再び白く染まった。

次回更新日は6月2日です。

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