第九話 穀倉の敵は湿気
先送りされた湿気は、朝になると麻袋の底だけ先に冷える。
夜明けの井戸は、昨日までより静かだった。
中庭の縁石へ一杯目の水を捨てる。灰色の粒はまだ少し回ったが、桶の底へ沈む速さが違う。二杯目を白布へ通すと、布目に残ったのは泥ではなく、細い石粉だけだった。鼻を寄せても、土のぬるい臭いが上がってこない。
私は布の端を絞り、点検簿へ線を引いた。
飲用再開。朝の確認つき。東門の湧き水は、今日いっぱい薬用と腹痛明けへ残す。
「戻せるか」
振り向くと、アルノルトが井戸縄を巻き直していた。昨日よりも近い位置で、桶の縁を自分で確かめている。
「はい。ただし、今朝の鍋を通してからです。夕方までは、東門の樽も空にしません」
彼は頷き、井戸の前にいた二人へ言った。
「水運びは午前だけ一組減らす。空いた分は穀倉だ」
それだけで足りた。東門へ向かうはずだった兵が、樽ではなく肩当てを締め直して穀倉の方へ向きを変える。井戸端の列が短くなったぶん、炊事場の前を塞いでいた空桶も半分へ減った。
私はそのまま穀倉へ向かった。
扉を開けると、昨日より先に湿った甘さが当たった。通気口は掘り起こしたままなのに、空気が床の高さで止まっている。下段を持ち上げたはずの木枠の上でも、麻袋の底はまだ冷たい。爪先で床板を押すと、昨夜吐ききれなかった湿りが裏から返ってきた。
兵站係の兵が、袋の札を握ったまま立っていた。
「下段十八袋、朝まで置きました。持ち直した袋もありますが……」
言い終える前に、彼は口をつぐんだ。言わなくても分かる顔だった。全部を無事とは言えず、全部を捨てるとも言えない。
私はいちばん壁際の袋へ手を入れた。表面は乾いているのに、底の縫い目だけが重い。袋を少し返して耳を寄せる。乾いた麦なら、粒が一斉に流れて細く鳴る。これは途中で音が途切れた。中ほどで湿りが引っかかっている。
「扉は閉めてください」
兵站係が怪訝そうに眉を寄せる。
「干すなら開け放した方が」
「朝靄が入ります。いま欲しいのは外の湿気ではなく、中の息の出口です」
私は見上げた。
梁の上、壁の高い位置に、横長の板が見える。ほこりと蜘蛛の巣に埋もれ、外から打ちつけた釘の頭だけが二つ光っていた。昨日は下ばかり見ていて気づかなかったが、あれは飾り板ではない。壁の下に開けた通気口と、ちょうど同じ幅だ。
古い点検簿を思い出す。井戸の逆流と一緒に拾った、困ったように細かい字。
冬入り前、上風抜きを閉じる。雪明け三日で開ける。
開けた印は、どこにもなかった。
「梯子を借ります」
穀倉の隅から穀袋用の短梯子を引きずり出し、壁へ掛ける。三段目で止まり、私は指先で板の縁を押した。動かない。釘だけではない。内側から、湿気を吸った布まで詰め込まれている。
「塞いだまま春を越したんですね」
「冬に風を入れるなと言われて、そのままになったんだろう」
アルノルトがいつの間にか梯子の下に来ていた。私は板の脇を払った。木枠の片側が割れ、外へ開けようとすれば、そのまま落ちそうだった。
「開けます。ただし、このまま引くと枠ごと外れます」
「支える」
彼は返事と同時に槍柄を一本受け取り、板の下へ差し込んだ。私は銀の筆を抜き、割れた枠の節目へ細い魔力を通す。濡れて膨らんだ木は、石より縫いづらい。けれど一朝だけ保てばいい。あとで木釘を打ち直せる。
一筋、二筋。
割れの口が戻り、槍柄へ掛かっていた重みが少し軽くなる。
「いまです」
アルノルトが槍柄を押し上げる。兵二人が外側へ回り、釘を抜く。最後の一本が抜けた途端、詰め込まれていた古布がもこりと膨らんで、埃を吐きながら床へ落ちた。
上風抜きが半分だけ開く。
最初の風は弱かった。けれど床下から這っていた湿りの匂いが、ゆっくり天井へ引かれていく。通気口のそばに垂らした糸が、下から上へ揺れた。
「出口は作れました。次は道です」
私は床の上へ木炭で三本線を引いた。
今日炊く。
乾かして戻す。
捨てる。
兵站係の兵の喉が鳴った。
「捨てる、まで要りますか」
私は最初の袋の口を開いた。上の粒はまだ淡い色だ。けれど底に近いひと掴みを掌へ受けると、粒同士が薄く張りつき、鼻先に甘い酸みが残る。
「悪いところを混ぜると、上まで傷みます。救う数を減らさないために、分けます」
アルノルトがそこで兵たちを見回した。
「この線はそのまま命令だ。迷った袋はリネットへ回せ」
異論は出なかった。昨日までなら、穀倉の中身は兵站係だけの仕事として閉じていたはずだ。いまは袋一つの行き先が、そのまま昼の鍋の濃さになると皆が知っている。
作業は、音で進んだ。
持ち上げた袋を軽く返し、乾いた流れ音が最後まで続くか聞く。
底を叩き、鈍い塊が残るものは横へ除く。
口を開け、粒が掌で離れるか、指へ貼るかを見る。
下段十八袋のうち、三袋は最初に捨てる側へ出た。底の縫い目まで熱を持ち、酸い匂いが抜けない。五袋は今日炊く側へ回した。そこまで傷んではいないが、今日の火を逃せば明日には悪くなる。残り十袋は、袋を替えて風の通る場所へ戻せる。
「十八が、十に戻るのか」
兵站係の兵が、札を握ったまま言った。
「五は昼と夜で使い切ります。三だけ切り捨てです」
私は壁際を指した。
「昨日の木枠は床から離すだけでした。今日は積み方を変えます」
壁には、板が外された古い棚の痕が残っていた。膝の高さ、腰の高さ、太腿の高さ。昔は二段で積んでいたのだろう。私はその痕に合わせ、槍箱の空き木枠を交互に組み、上へ細い横桟を渡していく。昨日まで一面で受けていた袋底が、今度は三本の線で乗る形になる。
「ぴたりと付けないで、拳ひとつ空けてください」
兵が袋を壁へ寄せすぎたので、私は自分で半歩戻した。
「風が通る隙間を、先に置きます。見た目は悪くても、この隙間が今夜の分を守ります」
アルノルトが上風抜きの下へ立ち、開き具合を見ていた。
「王都の査閲なら怒られそうだな」
「ええ。でも鍋番は怒りません」
答えると、彼の口元がほんの少しだけ動いた。笑ったと言うには短すぎるが、昨日までの無表情とも違った。
昼に近づくころ、穀倉の匂いが変わった。
朝は床の近くで溜まっていた湿った甘さが、いまは梁のあたりへ薄く残るだけだ。通気口へ垂らした糸はさっきより真っ直ぐ立ち、上風抜きの隙間から外の乾いた光が細く差している。袋を積み直した壁際へ手を差し入れると、朝のような冷たさがない。粒をひと掴みして落とせば、今度は途中で詰まらず、ざらりと音が続いた。
私は点検簿の余白へ数字を書いた。
下段十八袋。
廃棄三。
即日使用五。
積み直し十。
そのまま紙を兵站係へ見せる。彼は数字を二度読み返し、それからようやく肩を落とした。
「全部捨てる覚悟でした」
「その覚悟を毎回していたら、冬の前に砦が先に空になります」
私は札を書き直し、五袋の口へ今日炊く印を結んだ。
穀倉を出る前、アルノルトが点検簿の端を指で叩いた。
「この数字は当番板へ出せ」
「穀倉の中身までですか」
「今朝、井戸の列が減った。昼には鍋の中身が変わる。なら同じだ」
彼はそこで一度、上風抜きの割れた枠を見上げた。
「木釘の打ち直しは夕刻だ。お前の応急が切れる前に終わらせる」
任せきりではなく、任せた先の保ち時間まで数えている言い方だった。
炊事場へ五袋を運び込むころには、鍋の湯も井戸の水で立ち直っていた。袋口から落ちる麦粒は朝より軽く、鍋番の兵が杓で回すたび、湿った酸い匂いではなく、麦と骨の甘い湯気がまっすぐ上がる。
私は穀倉へ戻る前に、その湯気を一度だけ吸い込んだ。
明日は、数字ではなく椀の重さで返ってくるはずだった。




