第八話 排水路の主
先送りされた排水路は、石板を開けた瞬間に息の腐り方で居場所を教える。
炊事場裏の石板へ棒を差し込み、二人がかりで持ち上げた途端、ぬるい泥の臭いが足元から噴いた。
昼の日差しの中なのに、穴の下だけ暗い。四角い縦穴の壁には、昔の点検用だろう、靴半分ほどの踏み段が残っていた。灯りを下ろすと、三段目から先の石が黒く濡れている。雨上がりの井戸口より、もっと古い水の色だった。
「水位が高い」
私が言うと、横に立ったアルノルトが穴の縁へ膝をついた。
「井戸の真下まで来ているのか」
「来ていました。まだ戻り切っていません」
縦穴の内壁を指でなぞる。爪の高さで、ぬめりの線が途切れていた。そこまで逆流した跡だ。井戸の北側目地が冷えていた高さとほとんど同じだった。
私は点検簿を閉じ、肩紐を締め直した。
「先に下ります。流れの向きを見たいので」
「灯りは俺が持つ」
反対されると思っていたのに、返ってきたのはそれだけだった。私は短く頷き、踏み段へ足を掛けた。石は湿っていたが、崩れるほどではない。下へ降りるほど、足首にまとわりつく空気が重くなる。
通路は、大人が二人並ぶには狭かった。腰をかがめれば進める程度の高さで、右手が中庭井戸、左手が炊事場の床下へ続いているらしい。中央には黒い水が細く走っていたが、流れは外へ向かっていない。灯りの反射で揺れる脂の膜が、こちらへ、つまり井戸の下へゆっくり戻ってくる。
「逆です」
私は水面へ折った藁を落とした。藁は一度だけ揺れ、それから私の靴先へ寄ってきた。
「本来は外堀側へ抜けるはずです。どこかで堰き止められて、溜まった分が押し返しています」
アルノルトが背後の兵へ声を掛けた。
「鉤棒を寄こせ。縄もだ」
さらに奥へ進むと、通路が折れる手前で水深が急に増した。脛までだった泥水が、膝下まで上がる。灯りを低く向けた瞬間、黒い水面の奥で何かがふくれた。
ぼこり、と音を立てて泥が盛り上がる。
最初は流木だと思った。だがそれは、灯りの円へ入った途端、袋の口みたいに裂けた。腐った藁と布切れを絡めたような体の中央で、灰色の核が脈を打っている。泥を吸って膨らんだそれが、水から半分起き上がった。
後ろの兵が息を呑んだ。
「泥喰いだ。まだいたのか」
泥喰いは跳ねる代わりに、前へ崩れるように伸びた。泥ごと這い寄り、先頭の兵の脛当てへ貼りつく。兵が鉤棒で振り払うと、粘った糸が棒へ残った。
私は泥喰いではなく、その向こうを見た。
折れ角の先に、古い格子があった。青錆びた金具へ、布、藁屑、骨、漆喰片が何層にも引っかかっている。その手前に泥が溜まり、泥喰いの体を支えていた。さらに格子の脇では、石の継ぎ目が拳ひとつ分開き、そこから細く濁った水が井戸側の壁へ染みている。
「主はあれです」
私は銀の筆を抜いた。
「泥喰いを切ってもまた溜まります。格子を外して、横の裂け目を塞ぎます」
アルノルトは一度だけ泥喰いを見て、それから私の指先を見た。
「どちらからだ」
「先に裂け目です。そこが開いたままだと、流れを戻しても井戸側へ染みます」
私は水へ片膝をついた。泥が裾から入り、冷たさより重さがまとわりつく。裂けた継ぎ目へ指を差し込むと、石と石のあいだに古い陶板の端が残っていた。本来なら水を外へ導く返し板だったのだろう。割れて傾いたまま、逆流した水を井戸側へ逃がしている。
「鉤棒をここへ。押さえてください」
アルノルトが私の隣へ踏み込み、鉤棒の先で割れた陶板を起こした。泥喰いが気づいたように脈を速め、こちらへもう一度伸びる。後ろの兵が槍の柄で受けたが、泥に足を取られて壁へ肩を打ちつけた。
「灯りを下げないで」
言いながら、私は銀の筆先を裂け目へ差し入れた。細い魔力を糸みたいにほどき、割れた陶板の縁と石の継ぎ目へ渡す。濡れた場所ほど継ぎ縫いは嫌う。けれど裂けたまま戻せば、また同じ水が井戸へ回る。
一針目で、陶板が震えた。
二針目で、アルノルトの鉤棒へ掛かっていた重みが少しだけ変わる。
三針目を引いたところで、私の手首を泥が叩いた。泥喰いの細い端が袖口へ伸びていた。アルノルトの短剣がその先を石へ縫い止める。刃ではなく、柄頭で叩き潰したのは、切れば飛び散ると読んだからだろう。
「続けろ」
短い声のまま、彼は鉤棒を離さなかった。
私は息を詰め、最後の一線で返し板の端を元の角度へ戻した。筆先が石を離れた瞬間、継ぎ目の漏れが細くなり、井戸側へ伝っていた濁りが止まる。
「今です。格子を」
後ろの二人が縄を掛けた鉤棒を、錆びた格子の奥へ差し込む。最初の一引きでは動かない。二度目で、詰まりの奥から骨の砕ける音がした。三度目に全員で引いた途端、格子ごと泥の塊が剥がれた。
黒い水が、膝の横を音を立てて走った。
それまで足首へまとわりついていた重さが、一気に外堀側へ吸われる。泥喰いの体も支えを失い、膨らんだ袋みたいな輪郭が崩れた。核の灰色だけが一瞬残り、それも流れへ巻かれて格子の向こうへ消える。壁に貼りついていた小さい塊まで、次々に剥がれていった。
通路の奥から、長く止まっていた水が一斉に息を吐くような音がした。
私は立ち上がり、井戸側の壁へ手を当てた。さっきまで冷え切っていた石の継ぎ目に、じわじわと温度が戻る。漏れていた濁りが止まり、足元の水位も指二本ぶん下がった。
「もう一度、井戸を汲みます。最初の二桶は捨ててください」
地上へ戻ると、中庭の北側目地から黒い湿りが引き始めていた。石板の縁へ溜まっていたぬるい泡も消えている。
兵たちはすぐに井戸縄を下ろした。一杯目はまだ灰色だった。二杯目は濁りが薄くなる。三杯目を木椀へ取って光へかざすと、底で回る粒がずっと小さい。鼻を寄せても、朝まで残っていた土臭さではなく、濡れた石の匂いしかしなかった。
鍋番の兵が椀を受け取り、慎重にひと口だけ唇をつける。
「臭わない」
「飲み水に戻すのは明日の朝です」
私は先に言った。
「でも洗い場と掃除には戻せます。東門の湧き水は、今夜から鍋と薬だけで足ります」
炊事場の前で、空桶を抱えていた兵たちの列が半分に減った。さっきまで東門へ向かうはずだった二人が、そのまま洗い桶を井戸のそばへ下ろす。鍋番の兵は火の前へ戻り、蓋つき樽を飲み水の線へ寄せたまま、別の桶だけを洗い場へ回した。
アルノルトが石板の縁へ靴を掛け、まだ開いたままの入口を見下ろす。
「今夜は見張りを置く。もう一度逆流したらすぐ呼べ」
それから、炊事場前の桶の並びへ目をやった。
「東門の往復が一往復減るな」
「そのぶん、穀倉の下段を持ち上げられます」
答えたとき、ちょうど穀倉の方から、湿った麻袋をひっくり返す鈍い音がした。乾いた水場が戻ると、次は別の傷みの匂いが前へ出てくる。
私はまだ泥のついた銀の筆を布で拭った。
明日は、麦の下に溜まった湿気を持ち上げる番だった。




