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辺境修繕結界師 ~「地味な保全部は不要です」と婚約破棄された宮廷結界師、雨漏り砦を直したら最強の防衛都市になっていました~  作者: 小竹X


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第七話 汚れた井戸と黙る兵士

先送りされた腹痛は、朝の列ほど静かに増える。


炊事場の裏を回ったところで、私は足を止めた。


厠の前に、靴が七足並んでいる。見張り明けには早すぎる数だった。扉板の節穴から、咳ではない息の詰まる音が短く漏れる。外で順番を待つ兵は、誰も腹を押さえていないふりをしていた。腰帯を締め直し、空を見て、壁の苔を靴先で削る。具合の悪さより、待っているところを見られる方が嫌らしい。


「申告はまだ上がっていません」


後ろから来た当番長が言った。手には空の板札だけがある。


私は札を見たあと、厠前の泥を見た。朝露ではない、急いで洗った水の染みが何本も扉から外へ伸びている。


「上がらないのではなく、上げていません」


炊事場へ戻ると、鍋番の兵たちが火を細くして待っていた。昨夜止めた中庭井戸の桶は、いまは口に木札が渡され、縄が柱へ巻かれている。けれど誰も近寄らないわけではない。洗い桶を持った兵が井戸の縁で立ち止まり、使っていいのか悪いのか、木札の字と私の顔を見比べていた。


私は炊事台の上へ点検簿を開いた。


腹痛。吐き気。下痢。雨のあと。


書いたところで、鍋番の兵が困ったように眉を寄せる。


「そこまで書きますか」


「寝台の滴は数えるのに、お腹の回数だけ数えない理由がありません」


兵は口を閉じた。火に掛ける前の鍋から、まだ何の匂いも立っていない。


アルノルトが炊事場の入口で止まった。朝より近い位置だった。彼は点検簿を覗き込み、空欄のままの人数欄へ目を落とす。


「出ないか」


「弱ったからではなく、水で減った人数だと通れば出ます」


私は厠の方を顎で示した。


「今は、具合が悪い兵が黙っているのではなく、壊れた井戸のせいで持ち場の人数が削れている状態です」


アルノルトはそれだけで足りたらしい。入口の柱へ背を向け、外へ声を飛ばした。


「腹を下した申告は休みの願い出ではない。中庭井戸の被害報告だ。当番長は小隊ごとに人数を拾え。黙って持ち場で倒れたら、その分だけ水汲みを増やす」


外で短く靴音が散った。


私は炊事場の床へ木炭で三本の線を引いた。


井戸水。雨樽。飲み水。


それぞれの前に桶を置く。井戸水は洗い場へ。昨夜、南兵舎の導き板が落としていた外壁の雨樽二つは、布で濾して火を通したうえで鍋へ回す。飲み水だけは別にする。


「別って、どこから持ってくる」


鍋番の兵が訊く。


「東門の見張り道に、岩肌から落ちる細い湧きがあります」


昨日の巡回で一度だけ見た場所だった。石の割れ目へ桶を差し込んで、見張り兵が喉を湿らせていた。


「量は多くありません。でも半日なら足ります。腹を壊した人と、薬を飲ませる分を優先しましょう」


鍋番の兵はまだ渋い顔をしていたが、アルノルトが先に空の樽を持ち上げた。


「東門へ二人。蓋つきの桶を持て。最初の一杯は捨て、二杯目から取れ」


司令官が自分で樽を肩へ乗せたのを見て、炊事場にいた兵たちの手が一斉に動いた。誰かが布蓋を探しに走り、誰かが昨日替えたばかりの新しい縄を持ってくる。鍋番の兵は、私が引いた三本線の上へ、間違えないよう桶の底をきちんと合わせた。


そのあいだに当番長が戻った。板札の裏に、木炭で数字が走っている。


南兵舎三。西兵舎二。門楼一。炊事場二。夜番明け四。


「これで十二です」


言い切ったあとも、彼は声を潜めた。札を持つ手の親指が、炭で黒くなっている。


私は数字の横へ、今朝どの水を飲んだかを書き足した。中庭井戸。昨夜の残り鍋。東門の湧き。そこで初めて、一本だけ線が割れた。門楼の一人だけは、夜明け前に東門の湧き桶から飲んでいて、腹を壊していない。


「もう少しいるはずです」


厠前の靴数と合わない。


私は自分で板札を持ち、南兵舎へ向かった。


中央六床はまだ閉鎖のままだったが、他の寝台は乾いている。その乾いた板の端で、若い兵が丸めた毛布に肘をついていた。顔色は悪く、靴も履いたままなのに、こちらを見ると背を起こす。


「報告は」


「していません」


「なぜ」


兵は閉鎖札の掛かった六床を見た。


「寝台を六つ閉じたばかりです。次は水で人数を減らすと言ったら、あんたの紙がまた重くなる」


私は一歩だけ近づいた。


「重くなるのは紙ではなく桶です」


兵の足元には、朝から手をつけていない水差しがあった。口をつけた跡だけが残っている。


「黙ったまま見張りへ出て、途中で厠に走れば、槍が一本減ります。鍋番が倒れれば、昼の湯気が消えます。報告は弱音ではなく、壊れた場所の印です」


兵は返事をしなかった。ただ、しばらくしてから指を一本立てた。


「昨夜から三度」


私は点検簿の余白へ、その数を書いた。


南兵舎を出るころには、同じような申告が四つ増えていた。言葉より先に、水差しの減り方、厠へ向く靴の泥、朝の粥を半分残した椀が教えてくれる。


昼前、炊事場の板には十七人分の印が並んだ。


東門から戻った兵が、冷えた湧き水の樽を下ろす。蓋を開けると、井戸のぬるい土臭とは違う、石の匂いがした。鍋へ落とした最初の一杓は澄んでいて、底で濁りが返らない。鍋番の兵が湯をひと口含み、それから無言で二杯目をよそい始めた。


椀を受け取った年嵩の兵が、湯気の向こうで眉を寄せる。


「味が違う」


「泥の後味がしません」


答えると、兵は椀をもう一度傾けた。今度は途中で厠の方を見ない。


私は古い中庭図を点検簿へ挟み直し、炊事場の裏へ回った。北側目地の先、捨て水が消えていた石の列を靴先でなぞる。三歩目で、音が変わった。詰まった土の下ではなく、薄い石板の下で水が鈍く返る音だ。


膝をついて泥を払う。角に、指一本が入る鉄の輪が埋まっていた。長く開けられていないせいで、輪の周りだけ苔が切れている。


古い図の太くなっていた場所と、ぴたり重なった。


アルノルトが樽を下ろし終えてこちらへ来る。


私は鉄の輪へ指を掛けたまま見上げた。


「入口がありました」


彼は図と石板を見比べ、すぐに周囲の兵へ声を飛ばした。


「棒を二本。槌。灯り。午後はここを開ける」


炊事場の前では、さっきまで空だった飲み水の桶に、東門の澄んだ水が順に移されていく。木札の前で立ち止まる兵は、もう字を読み間違えなかった。

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