第六話 乾いた朝と濁った井戸
先送りされた水の傷みは、乾いた朝ほど匂いでばれる。
南兵舎の扉を開けた瞬間、私は足を止めた。
冷たい滴の音がしない。
昨夜、中央六床の下へ置いた桶は、底に薄い丸い跡をひとつ残しただけで乾いていた。閉鎖札を掛けた寝台はまだ使えないままだが、一列目と三列目の毛布は端まで乾いている。壁際に寄せて寝ていた若い兵が、起き抜けの指で寝台板を撫で、それから自分の掌を何度も返した。
「濡れてない」
声が小さすぎて、報告というより確認だった。
私は梁の下へ立ち、昨夜抱かせた板の釘頭を順に押した。浮きはない。耳を寄せても、雨のたびに混じっていた軋みが今日は奥で鳴らない。
「今朝は中央六床以外、寝具を干し直さなくて済みます」
振り返ると、入口にアルノルトがいた。兵たちより先に桶を見て、次に梁、最後に私の点検簿へ目を落とす。
「乾いたな」
「はい。ただし、戻すのはまだです。今夜もう一晩見ます」
彼はそれ以上急がせなかった。
「次は」
「井戸を見ます。雨漏りは止まっても、水は遅れて傷みます」
中庭へ出ると、朝の鍋番がちょうど桶を二つ運んでいた。井戸蓋は昨夜重ねた板できちんと半分以上が塞がり、縁へ泥筋も増えていない。見た目だけなら、昨日よりずっとましだった。
けれど炊事場の前で足を止めた瞬間、鼻の奥に薄い臭いが残った。
湿った藁とも違う。腐った布とも違う。煮立つ前の水から立つ、ぬるい土の匂いだった。
私は鍋番の兵が注ごうとした桶を受け取った。表面は澄んでいる。縁を揺らすと、底から遅れて灰色の糸のような濁りが上がった。
「今朝の一杯目ですか」
「三杯目だ。最初の二杯はもう鍋に入れた」
兵は困った顔もせずに答えた。慣れた言い方だった。
私は桶へ鼻を寄せた。井戸口で汲み上げた直後より、少し時間を置いた水の方が臭う。底の方に重いものが沈んでいる匂いだ。
「飲んだあと、腹を下す人は」
鍋番の兵は肩をすくめた。
「雨のあとは何人か。ここじゃ珍しくない」
横で椀を洗っていた年嵩の兵が笑いもせずに言った。
「腹が鳴るのは冷えた日と井戸の日だ。二、三度厠へ走れば終わる」
私は桶の取っ手を握り直した。
「それ、いつからですか」
「前からだ。濁る日はある。煮ればましになる」
誰も声を潜めない。隠しているというより、報告するほどのことに入れていない顔だった。
昨日までの南兵舎も同じだったのだろう。寝台が濡れるのは仕方ない。桶を置けば眠れる。そうやって、壊れた基準だけが砦に残る。
私は鍋へ入る前の水を木椀に一杯取り、朝の光へかざした。澄んで見える。けれど椀を傾けた縁へ、細い黒い粒が二つ貼りついた。
「今朝の鍋は待ってください」
鍋番の兵が眉をひそめる。
「司令官殿の朝食もある」
「だからです」
アルノルトが私の後ろで止まった。
私は椀を渡した。
「表面はきれいです。でも底が死んでいます」
彼は椀を受け取り、匂いを確かめた。すぐに顔色は変えない。ただ、もう一度だけ浅く吸い込んでから、炊事場の鍋を見た。
「今朝だけか」
「昨夜の雨で増えた可能性があります。井戸口の流れ込みは昨日止めました。でも臭いは外からではなく、下に溜まっていたものが動いた匂いです」
私は井戸へ戻り、縄を深く下ろした。二度、三度と水面を打たせ、底をさらうように引き上げる。上がってきた桶の内側には、薄い灰色の膜が一周ついていた。石の縁へ空けると、最初の一筋だけ粘り気のある濁りが混じる。
「底泥だけではありません」
井戸の縁石、その外側の石畳、そのさらに外の排水目地へ視線を落とす。今朝は雨が止んでいるのに、井戸の北側だけ石の継ぎ目がまだ黒い。指を押し当てると、冷たい湿りが残っていた。
私は炊事場の洗い場まで歩き、捨て水の流れを目で追った。流された白い泡が石畳の低い筋を伝い、途中で消える。井戸口へは来ない。けれど消えた場所は、さっき井戸の北側で触れた黒い目地へ繋がっていた。
地下だ。
見えないところで、水が戻っている。
「旧記録室へ行きます」
私はそのまま踵を返した。アルノルトも止めなかった。
古い点検簿は、湿気を吸って角が丸くなっていた。補給控えの束を二冊どけ、排水や井戸の文字を拾っていく。新しい帳面ほど大雑把で、古い帳面ほど困ったように細かい。
三年前の冬の頁で、ようやく手が止まった。
中庭井戸、降雨翌日に濁り強し。
北側目地冷えあり。
地下排水溝、逆流の疑い。
予算未認可、春に再申請。
春に再申請、の横には細い線が引かれたまま、その先がない。
さらに前の頁には、もっと古い中庭図が挟まっていた。井戸の北側から食堂裏へ抜ける細い線。排水溝。墨が掠れて、途中に小さく補修保留と書かれている。
私は紙を持って炊事場へ戻った。
鍋はまだ火に掛けられていなかった。アルノルトが、兵たちに別の桶を使わせたのだろう。朝のざわめきが半歩ぶんだけ遅れている。
私は帳面を開き、井戸水の椀をその横へ置いた。
「前から記録はありました。読まれなかっただけです」
アルノルトの視線が、古い文字から椀の黒い粒へ移る。
「止めるなら代わりがいる」
「飲み水だけ先に止めます。洗いと掃除は雨樽を回す。昼までに腹を下した兵の人数を拾って、炊事場の残り水も見ます」
鍋番の兵が息を詰めた。
「そこまでやるのか」
「寝台六床を閉じたときと同じです。お腹は梁みたいに音を立ててくれません」
誰も笑わなかった。年嵩の兵が、さっきまで当たり前の顔で持っていた椀を静かに置く。
アルノルトは帳面を閉じず、そのまま頁を押さえた。
「半日やる」
短い言葉のあと、彼は炊事場の外へ向けて命じた。
「中庭井戸の水は、飲み鍋へ入れるな。腹を下した者は当番長へ申告しろ。黙っていた分もだ」
兵たちの肩が、今度は乾いた寝台を見た朝とは別の硬さで止まった。
私は井戸図の細線へ指を置いた。北側目地の下を通り、食堂裏へ抜けるはずの排水溝。その線は井戸の真下で一度だけ、不自然に太くなっている。
次に潜る場所が決まった。




