第十話 最初の報酬は温かいスープ
先送りされた食事は、配る前から湯気が痩せる。
炊事場の大鍋は夜明け前から火に掛かっていたが、普段は煮えるより先に人が並ぶ。薄い麦粥は腹へ入っても昼前に消える。椀の底を打つ杓の音だけがやけに軽い。
今日は違った。
井戸から汲み上げた水を白布へ落とす。布目に残るのは細い石粉だけで、昨日まで指に絡んだ黒いぬめりはない。桶の底を覗いても、土臭い膜が揺れなかった。
私は布を絞り、炊事場の床へ視線を移した。昨夜穀倉から運び出した五袋が、火の近くで口を開けている。札には私が結んだ赤糸。今日炊く側だ。
鍋番の兵が袋の口へ手を入れ、顔だけこちらへ向けた。
「本当にこれを全部、朝と昼で回すんですか」
「回します。明日に持ち越す方が減ります」
「湿りは」
「底を残さず広げれば飛びます。悪い粒はここで落とします」
私は板盆を二枚並べ、麦を薄く広げた。掌で撫でると、昨夜より粒離れがいい。まだ少し重い粒だけを指で弾き、色の濃いものを別椀へ落とす。井戸水を少し打つと、表面の細かい粉だけが浮き、すぐ引いた。濁りを吸っていた頃のように、洗った水まで茶に濁ることはない。
「骨はありますか」
「昨日の塩漬け肉の端なら」
「全部入れてください。湧き水は腹痛明けの列へ残します。こっちは戻った井戸で煮切る」
鍋番の兵は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに頷いた。昨日までは、井戸水を鍋へ戻す話だけで顔が曇っていた。いまは白布を通した桶を自分で覗き込み、黙って火口の薪を寄せている。
大鍋へ水が落ちる音は、雨樽の鈍い音より軽い。骨を沈め、刻んだ根菜を放り込み、広げていた麦を少しずつ入れる。杓で底をさらうたび、粒が鍋肌に貼りつかず、丸く巡った。
いつもの朝なら、ここで兵が列を詰め始める。湯気が立つ前から椀を叩き、薄い粥を急かす。今日はまだ誰も声を荒げない。鍋の匂いが先に外へ出たからだ。湿った酸みではなく、骨の塩気と炙れた根の甘さが、戸口をくぐって流れていく。
最初に入ってきた兵が、鍋を覗いて足を止めた。
「……底が見えない」
鍋番が鼻で笑う。
「見えた方がおかしいんだ」
私は木椀をひとつ借り、杓の先で表面をすくった。骨から出た脂が薄く光り、その下で麦粒が沈みきらずに揺れている。椀を傾けても、水ばかり先に流れない。昨日救った五袋は、ちゃんと今日の濃さになった。
「配れます」
そう言うと、鍋番が戸口へ声を張った。
「腹痛明けは右、他は左だ。右は湧き水で薄める。左は先に一杯ずつだ」
並び方まで変わるとは思っていなかった。けれど列は崩れなかった。右へ寄った兵は文句を言わず、左の列も椀を持ったまま鍋の中を見ている。自分の取り分があるかを疑う顔ではなく、今日は何が入ったのかを確かめる顔だった。
アルノルトがその列の後ろにいた。
司令官が先に割り込めば早いのに、壁際で一番重い外套のまま順番を待っている。私は思わず口を開いた。
「司令官の分は先に」
「並べているなら並ぶ」
短い返事のあと、彼は鍋の脇に置いた板札へ目を落とした。私が朝のうちに書き足したものだ。
本鍋。
井戸水。
救済穀五袋使用。
腹痛明け用は別鍋。
「読まれる紙になりましたね」
口をついて出た言葉に、自分で少し驚いた。王都では、貼る前から諦める方が早かった。
アルノルトは札を指で押さえ、ずれないよう火鉢の脇へ立て直した。
「読まないと、昼に歩けなくなる」
それだけだった。けれど、そのまま列は進んだ。
一杯目を受け取った兵が、戸口の明るい場所で椀を持ち直す。いつもなら木目の見える湯を一息で流し込むのに、今日は口をつけたあとで目を落とした。匙を差し入れ、底から麦をすくい直す。二口目が早い。三口目では、肩の力が抜けた。
「温かい」
誰に言ったのでもない声が、鍋の湯気の向こうから聞こえた。
鍋番の兵は忙しなく杓を動かしながら、こちらへ顎をしゃくった。
「保全部の技師殿、ぼさっとしない。最初に線を引いた人間が最後まで立ってると、こっちが落ち着かん」
「まだ上風抜きの木釘が」
「椀一杯の間に砦は崩れん」
言い返す前に、アルノルトが自分の順番で受け取った椀を私へ差し出した。
「これはお前の分だ。俺は次でいい」
「司令官」
「夕刻まで保たせる継ぎ縫いだろう。手を震わせるな」
断る理由が、そこで切れた。
木の縁は熱く、両手で持つと指先の冷えが一度にほどけた。湯気が頬へ当たり、骨と麦の匂いが顔のすぐ下で混ざる。恐る恐る口をつけると、塩気のあとに根菜の甘みが来て、その後ろに砕けきらない麦の重さが残った。飲んだのではなく、食べた感触だった。
炊事場の隅では、腹痛明けの兵向けに別鍋へ湧き水が足されている。右の列は薄めでも湯が澄み、左の列は椀の底が見えない。昨日まで同じ鍋でごまかしていた差が、今日は分けて残せている。
私は椀を半分まで空けたところで、鍋番が空の袋口を束ねる手つきを見た。五つ。朝からもう二つ目が沈んでいるのに、慌ただしさに嫌な痩せ方がない。救えた数が、ちゃんと腹の足しに変わっていく速度だった。
戸口の外で、食べ終えた兵が木椀を返しに来る。昨日までなら、朝粥のあとに水を求めて井戸端へ戻る足音が重なっていた。今日は返したあと、そのまま肩紐を締め直し、南兵舎の方へ散っていく。腹を押さえる手がない。
私は最後の一口を飲み込み、椀の底へ残った麦を指先で集めた。木目はまだ見えないくらい、粒が残っていた。
報酬なんて言葉は、王都では帳場の印や式典の褒章でしか使われなかった。けれど、いま掌に残っている熱は、どの印章より先に体へ入る。
「夕刻までに上風抜きの木釘を替えます。その前に、返し板の本補修へ回す材も見ます」
椀を返すと、アルノルトが短く頷いた。
「西庭の資材箱を開けてある。必要数を書け」
「今度は読まれるよう、大きく書きます」
「盗まれないようにもな」
最後のひと言に、私は眉を寄せた。
炊事場を出て西庭へ回ると、査閲台を崩した板束の脇で、釘箱の蓋が半分ずれていた。朝、鍋へ運ぶ前には閉まっていたはずだ。箱の縁には泥の薄い指跡が二つ。地面には、小さな靴とも裸足ともつかない細い足跡が、石畳の切れ目を選ぶように続いていた。
温かさの残る掌で、私は釘箱の中を数え直した。
次に直すべきものは、どうやら屋根の上だけではなかった。




