第十一話 釘を盗んだ少女
先送りされた資材箱は、蓋を持ち上げた瞬間に軽い。
西庭の釘箱を膝へ引き寄せる。昨日の夕方、上風抜きの木釘打ち直しと地下排水路の返し板本補修ぶんを分けておいたはずなのに、指を差し入れると底板へ早く触れた。
私は箱を傾け、朝の光へ釘を流した。長釘、屋根板用の細釘、曲がったまま戻されたもの。分けて置いた山のうち、いちばん使いやすい長さだけが薄い。
箱の縁に、昨日と同じ泥の指跡が残っていた。今朝は露が浅い。石畳の切れ目へ細く残った足跡も、昨夜より拾いやすい。
私は釘箱の蓋を閉じ、足跡を追った。西庭の板束の脇を抜け、洗い場裏の細い通路へ入る。壁際には、使い終わった炭桶と折れた柄の箒が積まれ、その奥に古い毛布置き小屋が寄りかかるように建っていた。
屋根の端が一枚、浮いている。
その下で、小さな背中が動いた。
しゃがみ込んだ少女が、石の上へ釘を並べている。左手で曲がりを押さえ、拾ってきたのだろう平たい鉄片で、一本ずつ叩き戻していた。足元には盗まれた細釘が八本。脇には、もう使えないほど錆びたものと、まだ打てるものが分けてある。
私は声を掛けた。
「その釘、返してもらいます」
肩が跳ねた。少女は振り返り、釘を掴んだまま立ち上がろうとして、頭を軒へぶつけた。乾いた音がして、唇がきつく結ばれる。
「叩かないで」
「叩きません。まず手を見せて」
逃げるかと思ったが、少女は右手を差し出した。指先の皮が薄く剥け、親指の腹に新しい血豆がある。釘を真っ直ぐにしようとして潰した手だった。
「名前は」
「……ミア」
「いくつ?」
「たぶん十」
たぶん、という言い方に、私はそれ以上の問いを飲み込んだ。王都でも辺境でも、数えられない子はいる。
代わりに、石の上の山を指した。
「これは自分で分けたの」
「赤錆が深いのは折れる。曲がりが腹のところだけなら打てる」
返事が早い。視線も釘から逸れない。私は一本拾い上げた。確かに、曲がりの位置が浅い。屋根板を留めるだけならまだ使える。
「どうして盗んだの」
ミアは黙ったまま、小屋の中を顎で示した。
戸板を押し開けると、毛布の匂いより先に湿った木の匂いが鼻へ入った。棚の上段に積んだ予備毛布の端が、斜めに濃くなっている。見上げると、屋根板を留める釘が一本抜け、浮いた板の隙から昨夜の雨筋が垂れた跡が走っていた。
「ここ、次の雨でまた濡れます」
ミアの声が背中側から来た。
「洗い場のおばさんは、兵舎が先だって。毛布は干せばいいって。でも夜番の人、昨日やっと乾いたの取っていった」
先送りされた場所の匂いだった。誰かが困るのは明日で、その明日が来る前に別の穴が開く。
私は屋根板の端へ指を掛けた。板はまだ生きている。必要なのは新しい板ではなく、合う長さの釘と、打つ位置をずらすことだけだ。
「八本全部はいりません。三本あれば留まる」
「でも、箱から三本だけ抜くと、見つかる」
「八本抜いた方がよほど見つかります」
ミアが口をつぐんだ。叱られ慣れた子の顔だったが、目だけは逸らさなかった。
私は釘箱を足元へ置いた。
「盗んだぶんは返す。その代わり、使える釘を分ける手を貸して」
「返したら、追い出される」
「追い出す前に、覚えてもらう名前があります」
小屋を出ると、西庭の入口で靴音が止まった。アルノルトだった。朝の巡回へ出る前なのか、まだ外套の前を留めたままこちらを見ている。視線は私ではなく、開いた釘箱とミアの手へ落ちた。
「見つけたか」
「はい。釘を持ち出した子です」
ミアの肩が固まる。私は続けた。
「でも、使い道は毛布置き小屋の屋根でした。罰を与えるより、この子を資材置き場に入れた方が減りません」
アルノルトは小屋の濡れた毛布の端を見て、それから足元の釘の山を見た。ミアが分けた、使える山と折れる山だ。
「名前は」
「ミア」
「字は」
「少しなら」
ミア本人が答えた。震えは残っていたが、声は落ちなかった。
アルノルトは短く息を吐いた。
「半日、お前預かりで使え。飯は食堂へ回す」
「ありがとうございます。まず箱の中身を数え直します」
「昼までに戻り数がわかる形にしろ」
命令が落ちる速さに、ミアの方が目を丸くした。
私は板束の横へ空の木箱を三つ並べた。一本ずつ釘を移しながら口に出す。
「これは長釘。梁や厚い板を留める」
「ながくぎ」
「これは細釘。屋根板と薄板」
「ほそくぎ」
「こっちは曲がり。すぐ捨てない。戻せるものだけ別」
ミアは復唱しながら、指先で長さを揃えていった。見分けが早い。私は炭で木札へ名前を書き、箱の前に立てる。次に、資材小屋の壁へ細い板を打ちつけ、金槌、釘抜き、錐を掛ける場所を三つ作った。
「これは金槌」
「かなづち」
「これは釘抜き」
「くぎぬき」
「これは錐。穴を先に開ける」
ミアは錐を受け取ると、先をむやみに触らず、柄の根元だけを持った。危ない道具の扱いを、失敗で覚えてきた手だった。
昼前までに、釘箱の中身は戻り数まで見える形になった。長釘二十七、細釘四十二、曲がり戻し待ち十三。箱の蓋裏には私が炭で本数を書き、ミアには一本抜いたら縦線、戻したら横線を重ねる印の付け方を教えた。
「読めなくても、減り方は見える」
「増えたら?」
「増えたら、誰かが戻した」
ミアは蓋裏の線を指でなぞった。盗んだ釘を隠す目ではなく、減った数を先に拾う目つきに変わっていた。
数が済むと、私は毛布置き小屋の屋根へ梯子を掛けた。下ではミアが選び直した細釘を三本、掌に載せて待っている。
「一本目」
「そこじゃ割れる。穴の古い横」
言われた通り、私は浮いた板の古釘跡から指二本ぶん外して錐を立てた。小さな穴を開け、細釘を打ち込む。二本目で板が鳴きを止め、三本目で隙間に挟んだ古布が押し潰された。
下から見上げていたミアが、ようやく息を吐いた。
小屋へ戻ると、棚の上段へ新しい雨筋は落ちていなかった。濡れた毛布だけを干し場へ回し、乾いている束はそのまま残せる。夜番へ渡すぶんを、また雨のたびに減らさなくて済む。
洗い場から戻ってきた老婆が、戸口で立ち止まった。
「あら、滴が落ちてない」
私は棚の上を見たまま答えた。
「落ちる前に止めました。次から釘が要るなら、西庭で数を書いてから持っていきます」
老婆は私ではなく、ミアを見た。ミアは少しだけ胸を張り、釘抜きを抱え直した。
西庭へ戻ると、アルノルトが壁に掛けた道具の並びを見ていた。私は蓋裏の本数と印の付け方を説明し、最後にミアの掌を見せた。血豆は潰れているが、もう盗み隠す握り方ではない。
「午後は何を覚えさせる」
「返し板の補修材拾いと、木釘の束ね方を」
「明朝は負傷兵小舎を見る。あそこも風を食っている」
私は頷いた。すると隣で、ミアが顔を上げた。
「南の角の寝台、壁側だけ冷たい」
昨日の私みたいなことを言う。
アルノルトは一瞬だけ黙り、それからミアへ目を向けた。
「見ていたのか」
「眠る前に、息が白いから」
西庭の風が、壁の道具板を軽く鳴らした。金槌も釘抜きも、さっき掛けた位置で揺れが止まる。
私は釘箱の蓋を閉じた。今度は軽さより先に、中で揃った鉄の音がした。
明日直す場所が、またひとつ増えた。




