第十二話 無口な司令官
先送りされた寝台は、昼より夜の方が人を削る。
朝いちばん、ミアに袖を引かれて南の角の負傷兵小舎へ入ると、火鉢の炭はまだ赤いのに、壁際だけ空気の重さが違った。
戸口から三つ目と四つ目の寝台へ近づく。毛布をめくる前に、足首へ冷えが絡んだ。外気の冷たさではない。板の継ぎ目を抜けた風が、床石を撫でて這い上がってくる冷えだ。
私は膝をつき、寝台の脚へ指を当てた。木の表面がしっとりしている。壁の下端へ手を滑らせると、ひとつ目の隙間で指先が止まった。古い詰め物が痩せ、板と板の合わさりが爪の幅だけ開いている。そこへ今朝の風が細く通っていた。
「ここだけじゃないです」
ミアが壁沿いを歩き、三歩先でしゃがみ込む。
「この寝台の足も冷たい。夜、ここだけ毛布の下が重くなる」
見れば、四つの寝台が同じ壁に寄せられていた。頭側の窓板は閉まっているが、留め具が痩せて、風が吹くたび下端が鳴いている。負傷兵は身体を動かしにくい。壁際へ押し込まれた寝台は、冷えから逃げることもできない。
奥の寝台では、肩を吊った兵が毛布の内側で唇を噛んでいた。
「夜半になると傷が固まるんだ」
「息が白いほどですか」
「白い。火鉢を寄せると、今度は片側だけ熱い」
私は点検簿を開き、寝台の位置と風の通り道を書き込んだ。壁際四床。下端目地の痩せ。窓板留め具のずれ。床石からの冷え返り。
「動かせる人から中央へ寄せます。昼のうちに壁を詰め直さないと、今夜も同じです」
小舎を出ると、ちょうど伝令の兵が司令部の方から駆けてきた。
「司令、窓板がまた開きました。机の紙が飛んで、夜番表まで濡れています」
南の角から司令部は遠くない。見上げれば二階の小窓が半開きで、布が一本、応急に結ばれているのが見えた。
私は舌の先で計算した。乾いた板は西庭の板束から六枚。細釘と長釘はある。けれど今日は返し板の本補修へ回すぶんも残さなければならない。窓板と外壁目地を両方いっぺんにやるなら、持ち上げる手も、板を切る手も足りなかった。
司令部へ入ると、アルノルトは机の端を押さえながら濡れた紙束を重しの下へ滑り込ませていた。外套は着たまま、窓板の隙間から入る風で蝋燭の火が細くなっている。
「南の角を見たな」
「はい。負傷兵小舎の壁際四床が死んでいます」
「こっちも表が飛ぶ」
短い言葉のあと、彼は濡れた夜番表を机へ広げた。字が滲み、今日の交代線だけが読みにくい。
「兵を出せば直るか」
「三人で日が高いうちに。けれど、両方は無理です」
アルノルトの視線が窓板と私の点検簿を行き来する。
「北門詰めの交代が細い。いま修繕へ三人回すと、昼の見張りが削れる」
「今夜、負傷兵小舎の四床をまた冷やせば、手当の布と湯が余計に要ります。痛みで眠れない人間が増えれば、夜に呼ばれる当番も増えます」
「司令部の表が読めなければ交代線が乱れる」
「表は重しで押さえられます。あの寝台は、人が乗ったままでは持ち上げられません」
言ってから、私は点検簿の端へ新しい行を足した。
負傷兵小舎。優先一。
壁際四床復旧。
司令部窓板。優先二。
紙を机の前へ置くと、伝令の兵が一瞬だけ目を上げた。王都なら、こういう順番は嫌われる。司令の机より先に、兵の寝台へ板を回す紙だ。
アルノルトは何も言わず、その行を読んだ。読んだまま、指先で紙の端を整える。
「司令部を後にするのか」
「外套を着て座れる場所より、寝返りも打てない場所が先です」
窓の布が一度だけ強く鳴った。
アルノルトは顎を引き、伝令へ向き直った。
「南の角に三人。西庭から板六枚、灰桶ひとつ、古麻袋を持て。司令部は布で縛って保たせる」
それで決まった。
負傷兵小舎へ戻るころには、ミアがもう寝台の下へ潜り込み、どの脚が石へ直接当たっているかを見ていた。
「この二つ、下に板を噛ませた方がいい」
「どうして」
「床の冷たさが上がってくる。朝、毛布の裏がここだけ重いから」
私は頷き、運ばれてきた板のうち薄い二枚を寝台脚の台木に回した。残りは壁へ使う。兵たちに寝台を中央へずらさせ、古い詰め物を釘抜きで掻き出す。痩せた麻くずと土が、指で押しただけでぼろぼろ落ちた。
「ミア、古麻袋を裂いて」
「細く?」
「指二本幅。詰めたとき、奥でほどけるくらい」
火鉢の灰へ少しだけ水を打ち、掻き出した土と混ぜる。重くしすぎず、板の合間へ留まる固さにする。私は裂いた麻袋を目地へ押し込み、その上から灰混じりの泥をへらで詰めた。最後に細い板を当て、錐で下穴を開けてから細釘を打つ。
一打ちごとに、壁の鳴き方が変わる。風が通る隙間は、高い音で鳴く。そこが塞がると、金槌の返り音が短くなる。
「一本目」
「もう少し右」
下からミアが言う。私は錐を立て直した。彼女は寝台の影から窓板を見上げ、風で動く端を追っている。
「そこだと留め具に近すぎる。割れる」
「見えてるのね」
「昨日、屋根板で割れたから」
二本目をずらして打つと、窓板の下端が鳴きを止めた。戸口近くでそれを見ていた兵が、肩の包帯を押さえたまま呟く。
「静かだ」
壁際四床のうち、最初の二床を戻したところで昼を回った。火鉢の炭は朝と同じ量なのに、床を這う冷えが足首へ来ない。私は最後の一床へ毛布を敷き直し、兵へ手を向けた。
「足を乗せてみてください」
脚を引きずる兵が、恐る恐る寝台へ腰を下ろす。しばらく黙って、毛布の端を膝へ寄せた。
「……背中が壁に引かれない」
その言い方が、いちばん正確だった。壁際の寝台は、ただ冷たいのではない。熱を外へ持っていかれていたのだ。いまは毛布の内側のぬくもりが、背へ貼りついたまま逃げない。
三床目、四床目まで終えたのは、陽が西へ寄るころだった。窓板の留め具は革紐で仮に締め直し、夜風で跳ねないよう板留めを足す。寝台は壁から拳ひとつぶん離し、脚の下へ薄板を噛ませた。火鉢の煙は真っ直ぐ上がり、朝のように床を舐めない。
アルノルトが小舎へ入ってきたのは、その最後だった。
彼は何も褒めず、ただ壁際の寝台を順に見て、窓板へ手を当てた。それから火鉢の横へ置いた湯桶を持ち上げ、いちばん奥の寝台脇へ自分で運ぶ。
「今夜の湯はここへ先に回す」
肩を吊った兵が目を上げる。アルノルトはもう次の寝台を見ていた。
「壁際四床、使用再開。夜番へはそう回せ」
戸口の兵が慌てて復唱し、走っていく。紙へ書くより早い命令だった。
私は工具を集め、ミアに残り釘を数えさせた。細釘五本。長釘九本。曲がり二本。蓋裏へ印が一本ずつ増えていく。
小舎を出ると、司令部の窓はまだ布で縛られたままだった。夕方の風が吹くたび布端が鳴く。二階の明かりの前を、アルノルトの影が横切った。直した寝台を見たあとで、自分の机へ戻ったのだろう。
西庭へ戻る途中、北柵の方から低い軋みが届いた。木ではない。結界杭が風を食うときの、乾いた鳴き方だった。
ミアも足を止める。
「あれ、昨日より長い」
私は釘箱の蓋を閉じた。中で揃った鉄が、短く触れ合う。
今夜眠れる人は増えた。だから次は、起こされる前に見に行かなければならない。




