第十三話 夜襲と魔物避け結界
壊れかけの結界杭は、夜になると鳴き方が長い。
負傷兵小舎の残り釘を数え終え、旧記録室へ戻って点検簿を閉じかけたときだった。
北柵の方から、乾いた弦を爪で弾いたような音がひとつ伸びた。昼に聞いたときより長い。風が木を鳴らす音ではない。結界線が杭の腹で擦れているときの、嫌な鳴き方だ。
私は立ち上がり、壁に立て掛けた外套を掴んだ。
「ミア、灯り」
「もう持ってる」
返事が早い。振り向くと、ミアは油灯を胸の前で抱え、昼のうちに束ねた細紐と小さな槌まで腰へ差していた。
「司令官のところへ」
「さっき北の鐘が一回だけ鳴った。たぶん、もう出てる」
廊下へ出ると、案の定、北門へ走る靴音が石壁に跳ねていた。半鐘ほど大きくない、見張りだけを集める短い鐘だ。砦じゅうを叩き起こす前の段階で止めたい合図でもある。
夜気はまだ湿っていた。昼の補修で使った灰の匂いが手に残っている。その指先へ、北側から別の冷たさが差し込んだ。獣臭だ。雨上がりの泥と、濡れた毛皮の匂いが混じっている。
北柵にはすでにアルノルトがいた。胸当てだけを付けた軽装で、見張り三人を柵沿いへ散らしている。外の闇では、低い唸りがいくつも重なっていた。
「来たか」
「鳴いている杭はどれですか」
「右から四本目。さっきから長い」
私は柵へ寄り、油灯を低く持たせた。魔物避け結界の杭は、等間隔に埋めた黒木へ細い銅線を渡し、その上を薄い術式で繋いでいる。派手な壁を立てる結界ではない。近づいた獣へ、ここは嫌だと覚えさせるための細い線だ。
右から四本目の杭へ触れる。表面の刻線が半分潰れ、根元の土が痩せていた。昼のうちに見た西庭の釘箱みたいに、中身だけ抜かれた軽さだ。そこへ隣の杭から張る銅線が斜めに食い込み、風のたびに術式の端を削っている。
「根元が浮いてます。雪解けで土が流れて、そのまま踏み固めただけだ」
「保つか」
「裂け目だけなら一晩。けど杭を起こし直して巻き線を替える間、線が切れます」
外の唸りが一段近づいた。柵の向こうの闇で、低い影が二つ、三つと横へ走る。目だけが湿った石みたいに光った。
見張りのひとりが槍を握り直す。
「灰牙だ。数が多い」
私は杭から指を離し、アルノルトを見た。
「板一枚、細い楔が二つ、古い巻き線が欲しいです。あと三呼吸ぶん、ここを空けない時間」
「三呼吸で足りるか」
「縫うのは裂け目だけです。杭そのものを新しくする時間はありません」
アルノルトは振り返りもせず命じた。
「見張り小屋の外し杭置きから巻き線を持て。板は雪囲いの余りを一本。二人は柵前、ひとりは右へ回れ。飛び込ませるな」
「あたし、巻き線の場所わかる」
ミアが先に走りかけた。私は咄嗟にその肩を掴む。
「柵の外へ出ないで」
「出ない。炉の脇」
アルノルトが一度だけミアへ目をやり、短く頷いた。
「行け。戻ったら技師の手を空けろ」
ミアは灯りを私へ押しつけるように渡し、見張り小屋へ駆けた。小さい足音がすぐ闇に溶ける。
その間にも、灰牙の爪が柵下の石を掻いた。結界線へ鼻先を寄せ、嫌うように退く影と、苛立って前脚で地を打つ影がいる。薄い線はまだ効いている。だからこそ、ここで裂ければ一度に寄られる。
私は銀の筆を抜き、杭の刻線に沿って空気を探った。右三本目までは呼吸がある。問題は四本目から五本目へ渡る短い区間だ。擦り切れた術式が、糸の端みたいに夜気へ浮いている。
「左じゃない」
声がして、ミアが戻ってきた。腕の中に、黒ずんだ銅線の束と細い板切れを抱えている。息は上がっていたが、言葉は途切れなかった。
「鳴いてるの、ここだけじゃない。右五本目も、さっきから短く引っかかる」
私は五本目へ手を伸ばした。確かに、こちらの刻線も浅く欠けている。いま縫うべきなのは四本目の傷だけではない。ここを飛ばすと、縫い直した負荷が五本目へ逃げる。
「見えています」
「昼の窓板と同じ。鳴く前に、端っこが震えてた」
教えた名前が、もう別の場所で使われていた。
私は板切れを杭の根元へ差し込み、槌を受け取った。土の抜けた隙間へ楔を打ち、傾きを半指ぶんだけ戻す。銅線の古い巻きを解こうとしたところで、外から甲高い咆哮が上がった。
一匹が結界線へ体をぶつけたのだ。
薄い青が走り、灰牙が弾かれる。だが同時に、四本目の杭がぎしりと沈む。
「早くしろ」
アルノルトの声と同時に、剣が抜かれた。もう一匹が柵の切れ目へ回り込もうとしたらしい。左で槍の石突きが鳴り、右で誰かが短く息を呑む。
私は古い巻き線を切り、擦り減った部分だけ外した。完全に新しくする余裕はない。生きている線を残し、死んだところだけ継ぐ。
「ミア、押さえて。灯りは低く」
「こっち」
ミアが両膝を泥へつけ、板切れの端を押さえる。灯りは私の手元だけを照らす高さで止まった。昼の屋根板のときより、手の震えが少ない。
私は銅線を四本目へ三巻き、五本目へ二巻き戻し、切れた術式の縁へ銀の筆を置いた。
継ぎ縫いは、壊れていない線を強くする魔法ではない。
裂けたところだけを見つけ、そこへ細く通す。
一筆目で、夜気に浮いていた青が杭の腹へ吸い戻される。
二筆目で、擦り切れた端が銅線の巻きに沿って寄り合う。
三筆目を引こうとした瞬間、柵の向こうから影が飛んだ。
結界の嫌悪を押し切って、一匹が半歩だけ内へ頭を差し込んだのだ。牙の白さが灯りを弾いた。
ミアが息を止める。
その前へ、アルノルトが横から入った。
剣の腹で鼻先を払い、踏み込みの足で柵際へ泥を蹴り返す。獣は悲鳴を上げて退いたが、別の影がすぐ後ろへ詰めた。
「まだか」
「あと一筆」
答えながら、私は筆先を切れ端へ押し込んだ。細く、深く、古い線の呼吸へ合わせる。杭から杭へ渡る青が、濁ったままではなく一本の糸として伸びる場所を探す。
見つけた。
最後の一筆を引く。
次の瞬間、四本目から五本目へ薄い青が走り、途切れていた結界線が柵沿いに滑った。光は高く立ち上がらない。ただ、地面すれすれの暗い帯が外へひと押し返す。
灰牙たちの足が揃って止まった。
最前の一匹が耳を伏せ、低く唸ったあと、鼻先を逸らす。続いた二匹も柵へ寄れず、泥を蹴って横へ流れた。外で回っていた影が少しずつばらけ、闇の向こうへ退いていく。
槍を構えていた兵が、そこで初めて息を吐いた。
「下がった……」
私はその場に片膝をつき、筆を持つ手を膝へ押しつけた。三筆で済むはずのところを、五本目まで拾ったせいで指先が痺れている。けれど杭は立っていた。さっきまで腹を擦っていた嫌な鳴きも、短い脈へ戻っている。
ミアが泥だらけの手で、蓋裏に印を付けるみたいに空中を数えた。
「巻き線、残り四。楔、ひとつ」
「覚えておいて。明日、昼に本数を書きます」
「うん」
返事のあとでようやく、彼女の肩が小さく震えた。怖くなかったわけがない。それでも灯りは最後まで揺らさなかった。
アルノルトが剣の血を払って戻ってくる。外套の裾へ泥が跳ね、左の籠手に浅い爪痕が一本走っていた。
「怪我は」
「浅い。お前は」
「指が痺れただけです。杭は夜明けまで保ちます。ただし明日、根元の掘り直しと巻き線の替えが要る」
「書けるか」
「いま書きます」
点検簿を開き、北柵右四、五本目、根元痩せ、巻き線摩耗、夜襲時応急再縫合、と走り書く。ミアが灯りを寄せると、紙の上へ落ちる影がさっきより落ち着いていた。
アルノルトはその行を読んだあと、見張りへ向き直った。
「今夜の角笛は鳴らすな。負傷兵小舎と南兵舎はそのまま寝かせる。北柵は二刻ごとにこの二本を触って報せろ」
砦じゅうを叩き起こさずに済む。
それがいちばん大きかった。せっかく戻した寝台も、温い湯も、夜のたびに総崩れしては積み上がらない。
北柵の内側を見回す。泥は跳ねているが、獣の足跡は柵の外で途切れていた。見張り小屋の灯りも消えていない。炊事場の煙突からは、夜番用の薄い湯気がまっすぐ上がっている。
守れたのは柵だけではなかった。
アルノルトが私の点検簿を指で押さえる。
「三呼吸と言ったな」
「少しはみ出しました」
「その分、起こさずに済んだ」
言葉は短いのに、今夜はそれで充分だった。
ミアが北柵の杭を見上げたまま、ぽつりと言う。
「昼のうちに、ここの土も見た方がいい。人が歩くところばっかり固めると、外側だけ痩せる」
私は頷き、点検簿の余白へもう一行足した。
歩く場所の外側から痩せる。
たぶん砦は、そういう先送りであちこち削れてきたのだ。
夜明け前の空が、北の端から少しだけ薄くなる。長く鳴いていた杭はもう鳴かず、かわりに遠くの食堂側で、朝の火を起こす薪の音がした。
次に直す場所が、今度は温かい方からこちらを呼んでいた。




