第十四話 雨の止んだ食堂
先送りされた食堂の床は、湯気より先に人を外へ押し出す。
北柵から戻って点検簿へ四本目と五本目の行を足し、朝の火が入る音に引かれて食堂へ向かうと、戸口の前で兵たちの足が妙に詰まっていた。
鍋の匂いはいい。骨と麦の湯気が外まで出ている。けれど中へ入った兵は椀を受け取っても壁際へ広がらず、火鉢の近くで半身のまま食べて、二口三口で外へ出る。北側の長卓だけ、誰も座っていなかった。
ぽたり、と卓の真ん中へ滴が落ちた。木目に丸い染みが広がり、そのすぐ下の床石では泥水が靴裏を待っている。
「またそこだ」
鍋番の兵が杓を動かしながら顔をしかめた。
「昨日の夕方は止んでたんだが、夜の雨で戻った。椀を置くと薄まるんで、皆立って食ってる」
立って食べれば回転は早い。けれど温い汁を片手で抱えたままでは、パンも裂きにくいし、話す前に出ていく。せっかく戻った鍋が、喉へ流し込むだけのものに戻る。
私は戸口の敷居へしゃがんだ。板の端が黒く、靴先で押すとわずかに沈む。外の石樋へ目をやると、洗い場から来る灰水が樋口の手前で溜まり、麦殻と骨片が薄い膜を作っていた。
「ミア、濡れた足跡を見て」
「あそこから曲がってる」
ミアが長卓の手前を指す。
「みんな戸口から三歩で右へ寄る。ここ、床がつるつる。壁の椅子も四つ空いたまま」
椅子の数まで見ている。私は北側の壁を見上げた。滴は天井の真ん中からではない。軒に近い梁の腹を伝い、最後に卓へ落ちている。雨そのものより、外へ逃がすはずの水が内へ寝返っている筋だ。
食堂の裏へ回る。洗い場の石桶から流れたぬるい灰水が、外壁沿いの浅い樋で止まっていた。樋口を棒で突くと、麦殻、骨片、灰の固まりがどろりと崩れる。それでもまだ流れが鈍い。見上げた軒裏では、細い導き板の片端が釘抜けで下がり、屋根を流れた雨をそのまま梁側へ舐めさせていた。
「二つです」
私は点検簿の余白へ書いた。
樋口詰まり。
軒裏導き板ずれ。
そこへアルノルトが来た。籠手の爪痕はそのままで、まだ夜の湿りを肩へ残している。
「北柵は二刻ごとに触らせてます」
「先にこっちです。樋が死んで、導き板が寝ています。このままだと敷居も腐る」
彼は戸口の方を一度だけ見た。椀を持った兵が、濡れた床を避けて身を捻っている。
「何人要る」
「樋をさらう手が二人。梯子を押さえる人が一人。長すぎない板が一本あれば足ります」
「板は西庭の棚板を外せ。昼の北柵掘りはそのあとだ」
返事が早い。私は頷き、ミアへ手を向けた。
「細釘と錐。あと、椀を四つ借りて」
「椀?」
「どこまで滴が来るか、下で受ける」
ミアはすぐ鍋番のところへ走った。戻ってきたときには、空椀四つと細釘、錐、それに昨日数えた釘箱の蓋裏の印まで覚えている顔をしていた。
外では兵二人が樋口を掘り返し、詰まりを掻き出した。灰混じりの泥が途切れた瞬間、溜まっていた水が一気に外庭の石溝へ走る。戸口下へ回っていたぬめりも、音を立てて引いた。
私は梯子へ上がり、軒裏の導き板を持ち上げた。板そのものはまだ生きている。ただ留めていた細釘が痩せ、片端が落ちたせいで水が梁へ沿っていた。
「下穴」
「ここ」
「もう半指右。古い穴に寄せない」
下からミアが言う。私は錐をずらし、新しい位置へ穴を立てた。一本目で板が起き、二本目で軒裏の隙間が揃う。最後に裂けた端だけへ継ぎ縫いを細く入れると、板の腹を伝っていた濡れ色が止まった。
「椀、置いて」
中へ戻り、長卓の上と床へ空椀を並べる。洗い場の老婆に頼んで、桶一杯ぶんの水を屋根へ流してもらった。
外では、さっき開いた樋がごぼりと鳴る。私は長卓を見た。椀の縁は乾いたまま。梁の腹を伝っていた一筋も、途中で止まり、軒の外へ切り替わっている。
ミアが最初に息を吐いた。
「落ちない」
「椀を片づけましょう。今度は人の分」
昼の鍋が出るころには、北側の長卓へ最初の四人が座った。ひとりは肩を吊った負傷兵で、昨夜まで壁際四床のどれかで眠っていた顔だ。彼は椀を卓へ置き、両手で黒パンを裂いてから、滴の来ない木目を一度だけ撫でた。
「今日は急がなくていいぞ」
鍋番が杓を振りながら言う。
「卓が逃げないからな」
その言い方に、向かいの兵が鼻ではなく喉で笑った。つられてもう一人が椀を置き、木椅子を引く音が続く。立ったまま食べていた者たちが、今度は自分から奥へ入っていく。
戸口の敷居も乾き始めていた。さっきまで三歩目で避けていた靴跡が、まっすぐ中へ伸びる。洗い場の老婆は濡れ布巾を絞りながら、誰にも言い訳せず北側の卓を拭き直していた。
アルノルトは遅い朝食の椀を受け取ると、戸口脇の石を靴先で確かめた。もう滑らない。
「昼のあと、北柵へ戻る」
「はい。その前に、食堂の樋口は毎朝さらう印を残します」
「誰がやる」
「洗い場と鍋番の間で回せるよう、板札に書きます。ミア、字は追える?」
「短いなら」
私は戸口脇の乾いた柱へ、小さな板を一本留めた。
朝いちばん。
樋口さらい。
卓下ぬめり確認。
ミアがその字を指でなぞる。鍋番の兵は椀を配り終えた合間に一度だけ読み、今度は自分で板札の下へ骨殻を捨てる桶を寄せた。流す前に止めるつもりになった顔だった。
食べ終えた兵が椀を返し、戸口の外で立ち止まる。乾いた石の上へ、小さな干し肉の包みを置いた。
「塩と替えるやついるか」
すぐ横で、別の兵が笑いながら根菜の端を掲げる。
「半分なら出す」
さっきまで泥水しかなかった場所に、声が留まった。
食堂の中では、まだ鍋の湯気が切れていない。




