第十五話 砦に灯る売り声
壊れかけの広場は、売り声より先に荷車の車輪を泥へ沈める。
食堂の戸口脇の石が乾いて二日目の朝、鍋の湯気に混じって、干し果と油の匂いが外から流れてきた。
外へ出ると、食堂前には昨日より人がいた。鍋番へ椀を返した兵がそのまま石の上へ残り、干し肉の包みを広げている。洗い場の老婆は戸口脇へ小さな籠を出し、割れの少ない根菜を並べていた。そこまではよかった。
問題は、その先だった。
食堂前から広場へ出る三間ほどのところで、石畳が沈み、夜の雨を吸った泥が深く残っている。旅商人の荷車がそこへ片輪を取られたまま止まり、牝馬が耳を振っていた。荷台の上では布巻きと油瓶の箱が揺れ、女商人は降ろすにも広げるにも場所がない顔で、手綱を握ったまま舌打ちを飲み込んでいる。
「ここ、いつもこうなの?」
私が泥へしゃがむと、女商人が苦笑した。
「前はもっとひどかったよ。食堂の前まで水が来てた日は、そのまま門の外で売って帰った。今日はましだから寄ってみたんだが」
まし、でこの深さだ。
靴先で泥を押す。表面だけ柔らかいのではない。下で水が逃げず、踏むたび鈍く揺れる。石畳の継ぎ目を追うと、広場の中央から食堂脇へ向かって、ごく浅い勾配が残っていた。けれど流れの終わりにあるはずの排水口は、泥と麦殻で完全に塞がっている。片側の敷石もひとつ沈み、荷車の輪がそこで必ず噛む。
「みんな、ここで止まる」
ミアが、食堂の戸口から広場を斜めに横切る足跡を指した。
「乾いた石から、あの籠の前までは来る。でも荷車の後ろへ回れない。さっきも二人、見て帰った」
振り向けば、確かに村の女がふたり、荷台の布だけ眺めて引き返すところだった。乾いた場所が戻っても、その先で泥に沈むなら、人も物も広がらない。
私は泥の縁へ釘抜きを差し込み、詰まった排水口の口を探った。金属が石ではないものへ当たる。古い鉄格子だ。ここに水の逃げ道はある。ただ、長く掘られず埋まったまま死んでいる。
「半刻で乾いた線を一本、作れます」
顔を上げると、ちょうど北柵から戻ったアルノルトが広場の端に立っていた。朝の見回り帰りらしく、靴には北側の乾いた土が付いている。
「何が要る」
「角棒一本、鋤ふたつ、浮いた敷石を起こす手が二人。あと、西庭の余り板を三枚」
「北柵四本目と五本目は昼からだ」
「それまでに荷車が帰ります。売り声が残れば、昼のあとも人が戻る」
アルノルトは荷車、食堂前の石、泥にはまった輪を順に見た。
「二人出す。板は好きに使え」
それで足りた。
兵が鋤を持ってくる間、私は排水口の口を掘り出した。麦殻、馬糞、灰の固まりが、釘抜きの先で層になって剥がれる。ミアは脇で泥を掻き寄せ、まだ沈まない土と沈む土を足裏で分けていく。
「こっちは詰まってるだけ。こっちは下が空っぽ」
「輪が噛むのは?」
「この石の角。ぐらぐらする」
兵ふたりが来ると、浮いた敷石へ角棒を差し込み、てこの要領で持ち上げた。下からは黒い水と腐った藁が一気に湧いた。排水口へ棒を突き込むと、奥で詰まりが抜ける音がして、広場の泥がひと息に吸われた。
水は生きている。逃がし道さえ開けば、自分で低い方へ走る。
私は沈んでいた石の下へ砕けた瓦片を噛ませ、兵に合図した。
「ここで一度、止めて」
石の高さを合わせ、食堂前の乾いた石から荷車の後ろまで、板を三枚だけ渡す。完全な石畳ではない。けれど泥へ膝まで取られず、人が荷台の後ろへ回れる線になる。
ミアが最初にその上を走った。細い足が沈まないのを確かめ、くるりと振り返る。
「行ける」
女商人は半信半疑で手綱を引き、牝馬を一歩だけ前へ出した。さっきまで噛んでいた車輪が、起こし直した石を越え、板の脇で止まる。荷台が傾かずに済む場所まで入ったところで、彼女の肩から力が抜けた。
「助かったよ。ここで降ろせるなら、針も油も見せられる」
箱が開き、布巻きが広がる。糸束、塩袋、干し林檎、灯油の小瓶、骨針、古鍋の留め金。さっき引き返しかけた女たちが戻り、兵も椀を持ったまま荷台を覗き込んだ。
売り声は大きくない。けれど、乾いた石の上で値を聞き返す声と、瓶を日へ透かす声が交じると、食堂前の空気が朝食だけの場所ではなくなっていく。
私は荷車の後ろで、もう一度板の端を踏み直した。まだ半日保てばいい線だ。恒久の敷き直しはあとでやる。いま必要なのは、濡れた袋を抱えたまま帰る人を出さないことだった。
「リネットさん、これ」
ミアが袖を引いた。女商人が開けた木箱の脚がひとつ短く、下へ丸めた厚紙のようなものを噛ませている。紙ではない。羊皮紙だ。しかも表へ、水で滲んだ青線が走っていた。
私は屈み込み、その端をそっと引いた。
巻きは固い。油染みと古い黴の匂いがある。けれど表へ押された印は、見覚えのある形だった。第七砦の古い印章。いまの槍盾紋ではなく、その前の波形が入っている。
「これ、売り物ですか」
女商人が箱の向こうから覗き込み、肩をすくめた。
「そんなものまで欲しいのかい? 去年、北街道の古物屋から箱ごと買った。瓶の底敷きにちょうどよくてね。字はほとんど死んでる」
死んではいなかった。
滲んだ青線は三本。一本は食堂脇の勾配と同じ向きで走り、途中で折れ、見覚えのある角印へ繋がっている。炊事場裏の石板で見た刻みと同じ印だった。さらにその先で、線は砦の中央を抜け、井戸の印と重なっている。
地下排水路の入口だけを描いた紙ではない。
「アルノルト」
私が呼ぶと、彼は人の肩越しにすぐ来た。市場を見る顔ではなく、私の指先を見る顔だ。羊皮紙の端へ視線を落とし、短く眉を寄せる。
「古い砦印か」
「ええ。排水路より広い線です。井戸の下まで入っている」
ミアが反対側から地図を覗き込む。
「この曲がるところ、炊事場裏の石の下と同じ」
女商人は話が大きくなってきたのを見て、慌てて手を振った。
「お役人ごとなら困るよ。あたしは拾ったんじゃない、金を出して買ったんだ」
「取り上げません」
私は羊皮紙を丸め直し、泥で濡れていない袖で包んだ。
「買います。塩一袋と針束、あとこの紙の値」
女商人は目を瞬いた。値踏みしている。けれどここで広げられた荷の分だけ、今日はいつもより売れるはずだ。食堂前の乾いた石と、いま通した板の線が、そのぶんの客を止めている。
アルノルトが先に腰の革袋を外した。
「砦で持つ。売れ」
私は顔を上げたが、彼はもう女商人へ銀貨を一枚見せていた。
「ただの古紙なら高い」
「ただの古紙なら、お前は呼ばんだろう」
短い声のあと、女商人が銀貨を受け取り、羊皮紙をこちらへ押し出した。
「なら持っていきな。代わりに、その板、昼まで借りるよ」
「夕刻まででよければ」
「充分だ」
交渉が終わるころには、荷台の前で塩袋が二つ減っていた。洗い場の老婆は根菜を干し果と替え、兵のひとりは留め金を握って食堂裏の桶へ走っていく。さっきまで泥へ取られていた広場に、人の足が同じ場所を行き来し始めていた。
私は羊皮紙を抱えたまま、食堂脇の乾いた柱へ背を寄せる。広場の売り声の下で、地図の端をほんの少しだけ開いた。
青線は、炊事場裏の入口からそこで終わっていなかった。砦の下へ、もっと細かく、もっと深く入り込んでいる。井戸の印の先には、見たことのない角囲みが三つ。鍛冶場の位置に近い印もある。
水を捨てるためだけの線じゃない。
上では、誰かが油瓶の値を聞き返していた。乾いた石を踏む足音が、そのたび広場の真ん中へ寄っていく。
私は地図を巻き直し、点検簿の間へ差し込んだ。
広場の真ん中で、誰かが塩袋の口紐をほどき、別の誰かが油瓶を日に透かしていた。
その足元のずっと下で、まだ誰にも読まれていない水の線が、紙の中で静かに続いていた。




