第十六話 地下導水路の地図
壊れかけの羊皮紙は、濡れた机へ置くと、朝のうちに線から先に死ぬ。
旧記録室へ入った瞬間、私は窓を見た。
昨夜の冷えがまだ壁へ残っている。北側の石壁は薄く汗をかき、棚のいちばん奥に差した帳面の角が、どれも少しだけ波打っていた。食堂前の広場からは、干し果の値を聞き返す声がもう聞こえているのに、ここだけ時間が湿っている。
机の上へ羊皮紙を広げる。端がすぐ丸まった。重しにした釘箱の蓋の下で、滲んだ青線がじわりと浮き、消えかける。
「だめですね」
ミアが机へ頬を寄せ、すぐ顔をしかめた。
「棚の裏、まだ濡れてる。昨日よりぺたぺたする」
指で石壁を触る。冷たい。奥へ押しつけた帳面ほど湿気を吸っている。これでは地図を見つけても、照らす前に紙が負ける。
私は部屋を見回した。高い位置に小さな通し窓がある。木枠へ布が詰め込まれ、その上から薄板まで打ちつけられていた。隙間風を嫌って塞いだのだろうけれど、いまは空気が死んでいる。
「先にここを開けます」
背後で靴音が止まった。振り返ると、朝の巡回を終えたアルノルトが戸口にいた。
「地図より先か」
「読む場所が先です。湿ったままだと、古い字が剥がれます」
私は高窓を指した。
「梯子ひとつ。細板一枚。棚の脚に噛ませる欠け瓦も要ります」
アルノルトは机の上の羊皮紙、波打つ帳面、北壁の濡れを順に見た。
「二人出す。司令部の窓板はあとでいい」
その言い方が、妙にこの部屋に合った。
兵が梯子を運ぶあいだ、私は棚の帳面を手前へ出した。湿った順に分ける。ミアは古布を裂き、帳面の間へ細く挟んでいく。
「こっちは字がにじんでる」
「擦らないで。風へ当てて待つ」
「待つの、嫌い」
「私もです」
けれど紙相手は、急がせると破れる。
高窓の薄板を剥がすと、詰め込まれていた古布の奥から、冷たい朝の空気が細く落ちてきた。二年か三年ぶんの埃が舞い、湿った黴の匂いが少しだけ引く。棚の脚へ欠け瓦を噛ませて壁から半指離し、机は窓の真下へ引いた。
ミアが灰皿の灰をひとつまみ上へ投げる。白い粉が窓へ吸われ、石壁にへばりつかず外へ逃げた。
「流れた」
「それでいい」
乾くまでのあいだ、私は昨日の羊皮紙と古い点検簿、それにもっと奥から出てきた補給控えを並べた。新しい帳面ほど雑で、古い帳面ほど困ったように細かい。その並びは、王都でも同じだった。
三十年前の日付の入った帳面で、ようやく手が止まる。
北辺第七砦水配図附記。
春雪解け後、第一水門を二指開。
沈砂槽満ちれば、中庭井へ落とす。
余流は鍛冶冷し槽、西洗い場、冬囲い床へ。
私はもう一冊めくった。
こちらは補修控えではなく、当番の引き継ぎらしい。
北脈雪解け強き年は、南吐き口閉め過ぎるな。
鍛冶冷し遅れれば、釘の焼き戻し乱れる。
冬囲い床は薬草と青菜を先に回せ。
排水ではなかった。
水を捨てる線ではなく、配る線だ。
「アルノルト、見てください」
彼は机の向かいへ来た。私は羊皮紙の青線へ古帳面の細線を重ねる。炊事場裏で見つけた入口の曲がり。井戸の印。その先で二股に分かれる太い線。帳面の端には、いまは存在しない文字が残っていた。
鍛冶冷し槽。
西洗い場。
冬囲い床。
「第七砦は、井戸だけで水を回していたんじゃありません」
「導水路か」
「ええ。しかも排水のついでじゃない。北から引いて、沈めて、分けていた」
ミアが机の端へ肘をつき、文字を指で追う。
「かじ、ひやし、そう」
前より遅くない。短い札の字だけではなくなっている。
「鍛冶場で使う冷たい水。鉄を冷ます」
「じゃあ、釘が増える?」
その問いが先に出るのが、いかにもミアだった。私は頷き、別の行を見せる。
「こっちは西洗い場。いま桶で運んでる洗い水を、前は別に流してたかもしれない」
「桶、減る」
減る。運ぶ手も、こぼす水も、ぬかるむ石も。
私は帳面をさらに遡った。角の擦れた一枚の図が落ちる。中央の丸印に「沈砂槽」、その北に「第一水門」、外堀寄りに「南吐き口」。そして第一水門の横へ、墨で強く書き足された二文字があった。
閉鎖。
時期は二十二年前。理由欄には、北斜面崩れとだけある。そのあとに再開の記録がない。
だから井戸だけが残り、地下排水路だけがかろうじて生き残り、洗い水も鍛冶場も全部が人の肩へ戻った。
「場所は」
アルノルトの声が落ちる。
私は羊皮紙と図面の角を揃えた。炊事場裏の入口。そこから井戸下を抜ける太線。第一水門の印は、さらに北へ寄っている。いまは空の資材置き場になっている、旧洗い場倉の床下だ。
「ここです。北壁沿いの、石床が一枚だけやけに冷たい場所」
ミアがすぐ顔を上げた。
「あそこ、雨の日じゃなくても靴裏が冷える」
「覚えてたの」
「桶置くと、片っぽだけ底がびしゃってなる」
人の足と桶の底から拾うのは、もう癖になっているらしい。
私は帳面の端へ新しく書いた。
旧洗い場倉床下、第一水門。
開閉不明。北斜面崩れ以後閉鎖。
再開で沈砂槽、中庭井、鍛冶冷し槽、西洗い場へ通水見込み。
書いているあいだに、机の上の羊皮紙がさっきより平らになっていた。高窓から入る風で、端の巻きが少し緩んでいる。棚の奥に押し込まれていた帳面も、壁へ張りつかず背が立った。
部屋の湿りは消えていない。それでも、読める部屋にはなった。
戸口の外から、広場の声が一段高く聞こえた。昨日の女商人がまた来たのだろう。干し果の籠を置く音に混じって、油瓶を日に透かす兵の笑い声が入る。半刻で通した板の線が、今日も朝を止めている。
アルノルトはその声を聞きながら、私の書いた行を読んだ。
「北柵四本目と五本目は昼までに掘り直す」
「はい」
「そのあと、旧洗い場倉を開ける」
決めるのが早い。
私は顔を上げた。彼はもう次の人数を数えている顔だった。
「二人じゃ足りません。石床を上げるなら、梃子棒が要る」
「三人出す。ミア、お前は今日もこっちだ」
ミアはすぐに返事をしなかった。机の上の文字をもう一度見ている。
「とうがこい、どこ」
「冬囲い床」
私は図面の南端を指した。食堂前広場のさらに先、いまは草だけの空き地に近い。
「冬でも苗を死なせないための床。たぶん余った温い水を回してた」
ミアの目が丸くなる。外からは、根菜と塩を替える声がまだ続いていた。
この砦は、濡れた場所を我慢して守るためだけの場所ではなかったのかもしれない。水を逃がし、水を分け、水で人を留めるための形が、まだ下に残っている。
私は羊皮紙を巻き直し、乾いた布で包んだ。今度は机へ直に置かず、壁から離した棚のいちばん上へ乗せる。
その下で、開いたままの帳面が風に一枚だけめくれた。第一水門の印は、古い墨なのにまだはっきり黒い。
昼には北柵。終われば、次はあの床石の下だ。
まだ誰にも使われていない水の音が、紙の向こうで先に待っていた。




