第十七話 閉ざされた水門
先送りされた旧洗い場倉の床石は、桶の底より先に靴裏を冷やす。
北柵四本目と五本目の掘り直しを終えた昼、私は点検簿の端へ杭の深さを書き足してから、旧洗い場倉へ向かった。司令部の窓板はまだ布留めのままなのに、今日はこっちが先だ。戸を開けた瞬間、干した布も置いていない倉の中で、石床の一角だけが薄く曇っていた。
「雨、降ってないのに」
ミアが先にしゃがみ、掌を床へ当てる。
「ここだけ冷たい。桶置くと、底の輪が残るやつ」
古帳面の図で第一水門が打ってあった場所と、ほとんどずれていない。アルノルトが後ろの兵へ顎を振った。梃子棒三本、縄一本、灯りひとつ。昨日決めたものがそのまま揃っている。
「上げるぞ。石を割るな」
兵が床石の鉄環へ縄を通し、梃子棒を差し込む。最初のひと息では動かない。二度目で、石の継ぎ目から黒い水が糸のように滲み、三度目でようやく石が半指浮いた。底から、ずっと閉じ込められていた冷気が頬へ当たる。湿った土と鉄錆の匂いが、倉の古い木壁を押しのけるように上がってきた。
石を外すと、床下に四角い竪穴があった。腰ほどの深さの先で、横向きの石口が暗く開いている。その前に、錆びた横桿のついた分厚い板戸が噛んでいた。板戸の縁には泥と砂が固まり、左の石枠には古いひびが一本走っている。
「二十二年ぶんですね」
「開くか」
アルノルトが問う。私は帳面の走り書きを思い出した。春雪解け後、第一水門を二指開。
「いきなり全部はだめです。沈砂槽が生きていれば受けますけど、死んでいたら倉ごと泥を食います。まず二指だけ」
「二指だ」
声が落ちると、兵三人が竪穴の縁へ膝をついた。ひとりが灯りを下ろし、私は石枠のひびへ銀の筆を当てた。まだ裂けきっていない。けれど、水が走ればここから先に鳴く。
「ミア、左の継ぎ目を見て。白く泡立ったら言って」
「うん」
アルノルトと兵ふたりが横桿へ梃子棒を掛ける。最初は錆が噛んで、骨のような音しかしない。二度、三度と力をかけたとき、奥のどこかで低く水が鳴った。地の下で、長く寝ていたものが身じろぎした音だった。
次の瞬間、ミアが叫んだ。
「左、鳴いた!」
ひびの先が、針一本ぶんだけ開く。私はそこへ魔力を細く流し込んだ。継ぎ縫いは、壊れたものを誤魔化して固める術ではない。いま割れようとしている力の向きを変える。銀の線をひびの端で交差させると、石枠の震えが半歩ぶん外へ逃げた。
「いまです。半分じゃなく、ひと息だけ」
アルノルトが押し切る。横桿がずれ、板戸の下に指二本ぶんの暗がりが開いた。
黒い水が噛みつくみたいに吹いた。
兵の脛へ泥がかかり、灯りの火が揺れる。けれど水は竪穴へ溢れ上がらない。奥で一度うねり、すぐ脇の低い石口へ吸われていく。沈砂槽は死んでいなかった。ただ、二十二年ぶんの泥を腹に溜めて苦しんでいる。
「受けてる。けど遅い」
私は竪穴の右手へ身を乗り出した。石口の先、さらに浅い溝の格子へ、藁屑と砂が団子みたいに詰まっている。
「そこです。格子を開ければ落ちます」
「俺が行く」
アルノルトが先に膝を折った。肩まで穴へ入れ、短剣の背で格子をこじる。錆が割れ、固まっていた泥がひとかたまり落ちた。つづいて兵が鉤棒を差し入れる。次の瞬間、さっきまで噛みつくようだった水が、行き先を思い出したみたいに奥へ走った。
ごぼ、と深い腹の音がする。
竪穴の水位が半目盛りぶん下がった。板戸の下から出る濁りも、真っ黒ではなくなっている。私は石枠から筆を外し、今度は板戸の縁を見た。右下が痩せている。このままさらに開けば、戸が斜めに噛む。
「今日はここまでで止めます」
「まだ流せるぞ」
「流せます。でも板戸が死にます。まず洗い場の枝が生きているか見たい」
アルノルトは一息だけ私を見たあと、すぐ兵へ指示を飛ばした。
「ミアと西洗い場へ走れ。石槽を見ろ。濁りが来たら声を返せ」
言い終える前に、ミアがもう戸口へ消えていた。軽い足音が倉の外を抜ける。私は竪穴の縁で水を見つづけた。濁りはまだ強い。けれど砂の重い色から先に沈み、水の表面だけが少しずつ薄くなる。
遠くで、誰かの声が跳ねた。
「来た!」
倉の外から、兵の笑いまじりの返しが重なる。西洗い場の方角だ。アルノルトが顎を上げる。
「行くぞ」
西洗い場の石槽は、ずっと桶置き場の陰みたいな顔をしていた。いまは底の吐き口から、泥を抱いた冷たい水が細く走っている。洗い場の老婆が、濡れていないはずの石縁を両手で掴み、目を細めていた。
「桶を持ち上げなくていい」
その声は、驚いたときのものだった。
水は最初こそ茶色かったが、ひと桶ぶんも流れないうちに、濁りの芯が沈み始めた。老婆は手桶を差し込み、流れを受ける。いままで井戸や東門から運んでいた洗い水が、石槽の口から自分で落ちてくる。背で運ぶ重さが、その場でひとつ消える。
洗い場の脇には、まだ空の桶が三つ並んでいた。いつもならこの時刻にはもう誰かが抱えて中庭井へ向かい、残りは東門の細道へ回されている数だ。今日は誰も持ち上げない。老婆は受けた桶を足元へ置くと、そのまま濡れ布の束を石槽の縁へ引き寄せた。水を取りに行く往復が消えただけで、洗う手が先に動いている。
ミアが石槽の下へしゃがみ、流れの向こうを指した。
「こっち、まだ続いてる。床の下、少しだけあったかい」
西洗い場の南側、草の薄い空き地へ続く石縁が、一本だけ濡れ色を引いていた。地図の南端で見た枝だ。冬囲い床。まだ水は届いていない。ただ、止まっていた線が、下で目を覚まし始めている。
私は点検簿を開いた。
第一水門、二指開。
沈砂槽通水。
西洗い場、細流復帰。
板戸右下痩せ。石枠左ひび、継ぎ縫い保持。
次回、板戸座金と南枝確認。
書き終える前に、アルノルトが洗い場の老婆へ向いた。
「本鍋へは回すな。今日は洗い場だけだ」
「わかってるよ。こんな泥混じり、鍋に入れたら殴られる」
「殴られる前に止める」
そのやり取りの横で、兵が空の桶をひとつ地面へ置いた。もう運びに行くためではない。流れがどれだけ保つか、溜まり方を見るためだ。
倉へ戻ると、床下の水音はさっきより落ち着いていた。暴れていたものが、石の中で道を思い出した音だ。開けた床石の穴から上がる冷気も、もうただの嫌な湿りではない。洗い場へ続く線を持った冷たさだった。
私は外した床石の端へ手を当て、次に持ち上げる位置へ印を付けた。板戸をもう少し開くには、右下の痩せた座を先に噛ませ直さなければいけない。南枝が温まるなら、冬囲い床も死んではいない。鍛冶場の枝は、その先だ。
倉の外では、食堂前の売り声が昼のぶんだけ細く続いていた。洗い場では桶の底を石へ打ちつける音が、もう井戸へ向かう足音を混ぜていない。
先送りされていた水は、まだ二指ぶんしか戻っていない。
それでも西洗い場の石槽では、止まっていた口から、冷たい線が絶えず落ち続けていた。
石縁の脇では、さっきまで空だった桶の木肌が薄く濡れ、老婆の手がもう次の布束を迷わず浸していた。
洗い水を取りに走る足より、洗う音の方が先に残っている。
今日だけでも、井戸へ向かう桶の列はできなかった。




