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辺境修繕結界師 ~「地味な保全部は不要です」と婚約破棄された宮廷結界師、雨漏り砦を直したら最強の防衛都市になっていました~  作者: 小竹X


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第十八話 温室計画

先送りされた冬囲い床は、草より先に名前から消える。


第一水門を二指だけ開けた翌朝、私は西洗い場の石槽をのぞき込んだ。昨日より濁りは薄い。石縁の下を落ちる水はまだ冷たいけれど、桶で運ばれていたときの死んだ水音ではなくなっていた。洗い場の老婆は、空の桶を並べずに済んだだけで、背を伸ばして布をすすいでいる。


「今日は東門へ走らなくていいねえ」


言いながら、老婆は石槽の南側へ顎を振った。


「でも、あっちはまだぬかるむだけだよ」


南側の空き地には、低い草と崩れた石の縁しか残っていない。昨日ミアが見つけた薄い濡れ色は、朝の霜の中でそこだけ線のように黒かった。私はしゃがみ込み、手袋を外して土へ触れた。表は冷たい。けれど指を半節ぶん沈めると、その下だけわずかにぬるい。


「ここ、下は死んでません」


ミアもすぐ隣へ膝をつく。


「ほら、草の根が白い。霜でやられたやつ、もっとぐずぐずする」


言われて見れば、崩れた石縁の内側にだけ、去年の枯れ草に混じって細い青が残っていた。踏まれて寝ているけれど、芯までは黒くなっていない。私は土の上を払った。半ば埋もれた木の弓なりが出る。腐りかけた細い枠だ。さらに脇から、割れた薄板と、油の抜けた古布の端。


古帳面の字が頭の中で重なる。


冬囲い床は薬草と青菜を先に回せ。


「温室の跡ですね」


私が口にした途端、後ろで水を汲んでいた女たちが笑った。


「おんしつ?」

「王都の貴族屋敷じゃあるまいし」

「この風で冬に青いものなんて、腹を空かせる夢しか育たないよ」


笑い声は軽かった。馬鹿にするというより、聞き慣れないものを寒さごと払いのけるような笑いだった。この砦では、育たないものを数える余裕がなかったのだろう。


私は立ち上がり、石縁の長さを歩幅で取った。


「ガラス張りの家を建てる話じゃありません。低い床へ覆いをかけて、導水路のぬるみで苗を殺さないようにするだけです」

「苗?」

「炊事場の青みです。あとは薬草。根菜と干し肉だけの鍋に、ひとつでも青い葉が戻れば、塩の当たりが変わります」


また小さく笑われた。けれど、今度は少し短かった。


ミアが石縁の端で何かを引き抜いた。泥まみれの細い板札だった。角は腐っているが、字がまだ残っている。


「りねっと、これ」


受け取って泥を拭う。


冬囲い床

北より二枚目、薬草

南は青葱


笑っていた女のひとりが、札を見て目を細めた。


「ほんとにあったのかい」

「名前だけじゃありませんでした」


私は札を点検簿へ挟んだ。残っているなら、線も残っている。


石縁の南端を掘ると、薄い石板がすぐ当たった。持ち上げると、その下に親指二本ぶんほどの浅い溝があり、昨夜戻した水が細く泥を引いていた。流れは弱い。途中で砂が噛み、ほとんど土へ吸われている。それでも、底は凍っていない。


「詰まりは二つです」


私は洗い場の老婆とミアへ見せた。


「入口の砂溜まり。それからこの先の割れ目。流れを床の下へ広げる前に、ここで逃げています」


老婆は腕を組んだまま、溝へ指を差し入れた。


「たしかにあったかいね」


そのとき、靴音が三つ近づいた。アルノルトが兵をふたり連れて洗い場へ入ってくる。私は溝の脇から立ち上がった。


「西洗い場の流量は落ちていません。南枝も生きています」

「生きている先が、この草地か」

「ええ。冬囲い床の跡です。低い覆い床を戻せれば、薬草と青葱を先に守れます」


アルノルトは崩れた石縁、腐った弓枠、私の手の泥を順に見た。


「要るものは」

「割れた窓枠が二つ。細釘。破れた雨除け布。砂を掻く平鍬。西洗い場の流量は今のまま、二刻だけ借ります」

「増えるのは何だ」

「今夜の鍋の色です」


ミアが先に吹き出した。後ろの女たちまで肩を震わせる。けれど私はそのまま続けた。


「明日すぐ山ほど採れる話ではありません。ただ、死んでいない根を今日の霜から守れます。薬草の苗も、外で黒くせずに済む。春まで待つより、今の寒さで残るものを増やした方が早いです」


アルノルトは空き地の向こう、食堂前へ伸び始めた朝市の声を一度だけ聞いた。それから兵へ向く。


「西庭の壊れた窓枠を持ってこい。司令部の予備じゃなく、物置の割れた方だ」

「司令」

「失敗しても困らん方から使う」


それだけで十分だった。


笑っていた女たちのうち、ひとりが桶を置いた。


「土運びくらいなら手を貸すよ。どうせ今日は水を背負って走らなくていい」


笑い声の使い道が変わる瞬間は、いつも手がひとつ増える音とよく似ている。


兵が窓枠を運んでくるあいだに、私はミアと溝の砂溜まりを掻き出した。指先ほどの石がごろごろ出る。二十二年、誰も踏み返さなかった流れは、泥より先に名前から埋まっていたらしい。南端の割れ目には、銀の筆を細く差し入れて継ぎ縫いを入れる。大きく固めない。水が逃げたがる向きだけ縫い返す。


ミアは掻き出した泥の中から、白い根の束を拾った。


「これ、死んでない」


泥を落とすと、細い葱だった。根元はくしゃくしゃだが、中心に巻いた青がある。石縁の奥にも同じ株が三つ、枯れ草に伏せて残っていた。洗い場の老婆が目を丸くする。


「去年、全部やられたと思ってたよ」

「全部ではありませんでした」


私は株を寝かせないよう並べ直した。上から覆いがあれば、今夜の霜は直接刺さらない。


窓枠は片方の角が欠けていたが、低い石縁へ渡すにはちょうどいい。兵が枠を置き、女たちが古布を広げ、ミアが細釘を拾い直す。布は破れた雨除け布を二枚重ね、欠けた角には洗い場の空桶の底板から取った細板を噛ませた。見栄えは悪い。王都なら笑われる。けれど、ここでは風が抜けなければそれでいい。


「持ち上げられるように、こっちは打ち切らないで」


私は西側の留めだけ緩く残した。


「昼に熱がこもりすぎたら逃がします。蒸らし過ぎると根が腐る」


老婆が鼻を鳴らす。


「おんしつってのは、温めりゃいいってもんでもないのかい」

「水と同じです。止めどころがあります」


その言葉に、アルノルトがわずかにこちらを見た。昨日、水門で言ったことと同じだった。


覆いを掛け終えるころには、石縁の下を流れる水音がさっきより揃っていた。洗い場の石槽を削らないよう、南枝へ回すのはわずかな流れだけ。それでも覆いの内側へ手を差し入れると、外気よりひと息ぶん柔らかい。


ミアがしゃがみ込み、布の端から顔を寄せる。


「くもった」


内側に、小さな曇りがついていた。人の吐く息ほどではない。けれど、朝の風へむき出しだったさっきにはなかった白さだ。私は石縁の端へ、さっきの板札を立て直した。


冬囲い床

北は薬草

南は青葱


ミアがその字を指でなぞる。


「今日はほんとに、青葱」

「夜の鍋へ少しだけ借ります」


炊事場へ寄ると、鍋番が昼の根菜を刻んでいた。私は泥を落とした青葱を四株だけ差し出す。


「これを」

「どこにあった」

「冬囲い床の下です」


鍋番は半信半疑の顔で受け取ったが、包丁を入れた途端に匂いが立った。乾いた根菜と塩の匂いばかりだった釜場へ、青い辛みが一本通る。たった四株で、湯気の顔つきが変わる。


夕方、もう一度覆い床を見に行くと、朝より風が強くなっていた。それでも布はばたつかず、石縁の内側だけ霜が降りていない。寝かせ直した株は潰れずに立ち、北側へ寄せた薬草苗の葉も黒く縮れていなかった。


洗い場の老婆が、夕刻の布束を抱えて足を止める。


「今夜死ななけりゃ、明日も使えるね」

「ええ」

「じゃあ、夢物語ってほどでもないか」


私は点検簿を開いた。


冬囲い床、南枝通水確認。

入口砂溜まり除去。南端割れ目、継ぎ縫い保持。

仮覆い床設置。青葱四株生存。薬草苗移設。

明朝、霜確認。二日保てば面積拡張可。


書き終える前に、食堂から椀を置く音が聞こえた。昼より先に、葱を刻む軽い音が混じっている。


西洗い場へ戻った水は、まだ本鍋には使えない。

冬囲い床も、割れた窓枠と破れ布をかぶせただけの仮の床だ。

それでも、夕方の風の中で布の下へ手を差し入れると、土は朝より確かにやわらかい。

さっきまで枯れ草に埋もれていた青葱は、細い葉先をまっすぐ上へ向けていた。

食堂の戸が開いたとき、鍋の湯気には、乾いた根菜の甘さだけでなく、刻まれた青い匂いがひとすじ混じった。

それを運ぶ兵の椀の縁には、緑がほんの少しだけ浮いていた。

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