表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
辺境修繕結界師 ~「地味な保全部は不要です」と婚約破棄された宮廷結界師、雨漏り砦を直したら最強の防衛都市になっていました~  作者: 小竹X


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

19/42

第十九話 鍛冶場に冷たい風

先送りされた鍛冶場の冷し槽は、赤い釘の頭から先に丸くなる。


明け方、私は冬囲い床の布端を持ち上げた。外の草は白く立っているのに、覆いの下の土はまだ黒い。昨夜寝かせ直した青葱は潰れておらず、北へ寄せた薬草苗の葉先にも黒い縮れが出ていなかった。


「死んでない」


ミアが布の内側へ顔を寄せ、すぐに息を引っ込める。内側の布へ薄く曇りがついた。


「なら次、鍛冶場だね」

「ええ。朝の霜を越えたなら、昼まではこっちが保つ」


点検簿の端へ、冬囲い床、霜なし、とだけ書き足したとき、西の鍛冶場から鎚の音が跳ねた。三つ打って、長く止まる。もう三つ打って、また止まる。火は生きているのに、手が待たされている音だった。


鍛冶場へ入ると、熱より先に焦げた鉄の匂いが鼻へ刺さった。炉の前では鍛冶番の男が、赤い釘材を短く切っては頭を打ち、脇の桶へ突っ込んでいる。けれど桶の水はもう白く湯気を持ち、次の一本を沈めたところでふつりと勢いを失った。引き上げた細釘の先は真っ直ぐでも、頭の裏が少し甘い。足元には、曲がり直し待ちの山が昨日より高い。


壁際では、南兵舎から来た兵が樋受け金具を抱えたまま待っていた。食堂の鍋番も、戸口の留め金を一枚持っている。どちらも急ぎの顔なのに、鍛冶番の手だけが桶の水待ちで止まる。


「井戸水を三桶替えても、すぐぬるくなる」


鍛冶番は火箸の先で桶を鳴らした。


「冷めるのを待つ間に、火の方が先へ行く。待たせた鉄は首から甘くなる。曲がった釘を打ち直してるうちに、次の金具が溜まる」


私は壁際へ目をやった。炉の北側に、低い石槽が半分灰に埋もれている。いまは火箸と折れた鎚の柄が放り込まれていたが、縁の欠け方がただの物置ではない。しゃがみ込んで灰を払うと、底だけがひやりと冷たい。


「これ、昔は水を受けていた槽ですね」


ミアがすぐ隣へ膝をつく。


「床もここだけ冷たい。雨の日じゃないのに」


古帳面にあった鍛冶冷し槽、という字が重なった。私は石槽の外側をなぞる。北壁の際を細い石溝が通り、最後にこの槽へ落ちる形になっている。その口だけが、鍛え鱗と灰で真っ黒に塞がっていた。


戸口で靴音が止まる。アルノルトだった。朝の巡回から戻ったばかりらしく、外套の肩へまだ白い土が残っている。


「増えるのは」

「長釘、細釘、樋受け金具、蝶番の留めです」


私は待っている兵と鍋番を指した。


「いま止まっている修繕の半分が、ここで詰まっています」


アルノルトは石槽、桶の湯気、曲がり直し待ちの釘の山を順に見た。


「要るものは」

「灰掻き。細い鉄棒。古布。西洗い場の流れが落ちすぎないか見る目をひとつ」


返事は短かった。


「出す」


兵が灰掻きと鉄棒を持ってくるあいだ、私は石槽の中の灰を掻き出した。鍛え鱗が層になって剥がれ、底から細い水垢の筋が出る。死んだままの設備は、壊れる前にまず用途を忘れられる。


ミアが鍛え鱗をより分けながら、石槽の口を指した。


「ここ、詰まりが固い。泥じゃない」

「熱を食った錆と灰です。水より火に近いぶん、固まります」


鉄棒を差し込み、少しずつ回す。最初は石を突いているみたいに動かなかった。三度目で、奥のどこかが鈍く欠ける。四度目で、詰まりの芯がひとつ奥へ落ちた。


その瞬間、石槽の口から黒い水が咳みたいに吐き出された。


ミアが身を引く。私はすぐ槽の縁へ手を置いた。流れは細い。けれど死んではいない。黒かった筋は二息ぶんで薄まり、底へ白い泡だけを残した。


「兵をひとり、西洗い場へ」

「行け」


アルノルトの声で、待っていた兵のひとりが走る。私は石槽の内側へ身を寄せた。右の縁に古い欠けがあり、ここから少しずつ外へ逃げている。桶へ張るなら無視される傷だが、流し続けるなら持たない。


銀の筆を出し、欠けの内側へ細く魔力を落とす。継ぎ縫いは大きな穴を埋めるより、逃げ道を決める方が先だ。縁の力をひと筋だけ内へ返すと、外へ滲んでいた水が石槽の底へ戻った。


「いまはこれで足ります。鍛冶番、一本」


男が無言で頷き、真っ赤な長釘を火箸で掴んだ。頭を打ち、石槽へ沈める。


じゅっ、と短い音が立った。


桶のぬるい水とは違う。冷たい流れが赤い鉄の周りだけをさらい、次の一本を待たせない音だった。鍛冶番はすぐ引き上げ、石床へ打ち当てる。首が逃げない。頭裏が甘く潰れない。そのまま二本目、三本目が続く。


「まだいける」


男の声が初めて前へ出た。


私は流れの落ち口を見ながら頷く。


「打つ刻だけ、ここへ寄せてください。飲み水じゃありません。冷えていれば足ります」


そこへ、洗い場へ走った兵が息を切らして戻った。


「石槽、細ってません。老婆が、まだ桶いらんって」


それで十分だった。アルノルトはその場で戸板の裏をひっくり返し、炭で受け取り順を書いた。


南兵舎 樋受け金具

食堂戸口 留め金

冬囲い床 覆い留め細釘

広場仮台 吊り金具


「怒鳴った順じゃない。これで渡せ」


鍛冶番が頷き、待っていた兵と鍋番が持ち場を空ける。代わりにミアが石槽の脇へ板切れを置き、打ち上がった釘を長さごとに並べ始めた。一本抜けば戻り数、ではなく、一本増えれば印を足す顔になっている。


昼前には、鍛冶場の床に残る足跡が変わった。待っている者の靴跡より、受け取って戻る者の土の方が多い。長釘の箱底は見えなくなり、細釘は小皿ではなく布包みで渡せる数になった。南兵舎の兵は新しい樋受け金具と長釘を抱えて走り、鍋番は食堂戸口の留め金を胸へ押さえて戻る。冬囲い床にも、布の端を押さえる細釘が回った。


私は石槽の落ち口へ手をかざした。朝より少しだけ温い。鍛冶番の手が止まっていない証拠だ。炉の前では、打ち直し待ちだった曲がり釘の山がもう半分以下になっている。


「次は広場の吊り金具だ」


アルノルトが最後の一行を指で叩く。


食堂前広場へ戻ると、午の光が敷石の乾いた線をそのまま照らしていた。昨日までは荷台へ寄せていた布束が、今日は食堂の軒先で待っている。鍛冶場から上がったばかりの吊り金具が四つ、まだ熱を残した色で板の上に並んでいた。


兵がそれを軒裏へ打ち込む。金具が入るたび、布束を掛ける位置が地面から持ち上がる。村から来た女が籠を胸へ抱えたまま、その手元を見上げた。


「明日は風が回っても、地べたへ広げなくて済むかい」


私は打たれたばかりの金具へ手を触れた。もう素手で持てる温度まで落ちている。


「布を掛ける場所が増えれば、人も増えます」


女は籠を抱え直し、乾いた敷石の奥を見た。食堂の戸口では、さっき戻った留め金がもう打たれている。戸が風に戻されず、鍋の湯気がまっすぐ外へ抜けた。


夕方、鍛冶場へ最後に寄ると、石槽の流れはまだ細く続いていた。鍛冶番は炉の前で、昼より短い間で鎚を打っている。脇の箱には、明日朝に回すぶんの長釘と細釘が、もう束ねて並んでいた。


私は点検簿を開いた。


鍛冶冷し槽、通水復帰。

石槽口の鍛え鱗詰まり除去。縁欠け、継ぎ縫い保持。

長釘、細釘、樋受け金具、留め金の当日生産増。

西洗い場流量維持。広場仮台へ吊り金具回送。


書き終える前に、外から布を引く音がした。食堂前広場の仮台へ、新しい金具がもうひとつ掛かったらしい。


朝まで地べたへ置くしかなかった籠が、今日は軒下の高さで止まっている。

南兵舎へ走った兵の腕には、曲がり直し待ちではない長釘の束が見えた。

鍛冶場の石槽では、赤い鉄を待たせる無音がさっきより短い。

次に直せる場所が、火の前で増えている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ