第二十話 市場再開の日
先送りされた広場の仮台は、荷より先に人の居場所をなくす。
朝の鐘がまだ二つしか鳴っていないのに、食堂前広場には荷車が三台並んでいた。白くなった敷石の上で、馬の鼻息だけが先に湯気を吐く。前の二台は昨日までと同じ顔ぶれだ。塩と油を持ってくる旅商人と、干し果を籠で抱えてくる女。けれど三台目は違った。北の畑村から来たらしい小さな荷車で、荷台には藁へくるんだ卵と、豆袋と、毛糸玉を入れた浅籠が積まれていた。
「地べたへ置くなら帰るよ」
荷車の女は、荷台から降りる前にそう言った。怒鳴っているわけではない。指先が卵籠の縁を押さえたまま、下の凍りきらない土を見ている。
昨日打った吊り金具は四つ。軒下へ布束を掛けるぶんには足りても、荷車が三台、籠が十いくつも集まると足りない。食堂戸口の乾いた石まで籠があふれ、鍋番が椀を持って出るたび、人の足が左右へ割れていた。せっかく戻した戸口の乾いた線が、また荷で詰まりかけている。
ミアが私の袖を引く。
「りねっと、後ろまで人が行けてない」
言われて見ると、客は最初の荷車の前で止まり、二台目と三台目の後ろへ回れていなかった。乾いた敷石の線はできたのに、荷を置く高さと、人がよける幅が足りない。通れる場所が狭いと、物は来ても売り声が前へ進まない。
私は広場の南側へ目を向けた。食堂の軒から少し離れた石壁際は、十五話で掘り起こした排水口のおかげで、朝露のあとも黒く沈みにくい。そこへ昨日、鍛冶場から回した吊り金具を二つだけ試しで打ってある。まだ何も掛かっていない。板が足りなかったからだ。
「ミア、仮台の空き、何枚あるか見て」
「西の物置の戸板なら三枚。査閲台の残り板は細いのが四つ」
「細いので足ります。籠を持ち上げられればいい」
私は荷車の女へ近づいた。
「卵、何籠ありますか」
「大籠が二つ、小籠が三つ。割れたら終わりだよ」
「終わらせません。壁際へ仮台を伸ばします。藁ごと持ち上げれば、昼まで冷えと泥を避けられます」
女は半信半疑の顔のまま、荷台から飛び降りた。
「昼まで持つなら、豆も下ろせる」
そこへアルノルトが広場へ出てきた。朝の見回りの途中らしく、まだ外套を脱いでいない。戸口前の籠、止まった客足、荷車の並びを一息で見て、私のところへ来る。
「増えたな」
「ええ。品より先に置き場が足りません」
「要るものは」
「長釘。吊り金具をあと六つ。査閲台の残り板。炭で書ける戸板が一枚」
「増えるのは」
「帰らずに置いていく荷です。あと、鍋番の通り道」
アルノルトは戸口の椀運びを見た。鍋番が籠の脇を体半分で抜け、汁をこぼさないよう肘を上げている。
「出す」
それだけで話は済んだ。
兵が鍛冶場へ走るあいだ、私はミアと南壁際の石を踏んで回った。沈まないところへだけ印を付ける。昨日のうちに打たれた吊り金具の位置へ板を渡し、その下へ短い脚を噛ませれば、地べたより半腕ぶん高い棚になる。売り物は高く置ければ泥を吸わないし、客の目も下を向きすぎずに済む。
ミアは足跡を追いながら言った。
「みんなここで止まる。戸口が見えるから」
「じゃあ、止まる場所をこっちへずらします」
私は炭を受け取り、戸板へ三行だけ書いた。
南壁 荷下ろし
戸口前 鍋の列
鍛冶預かり 奥
書き終える前に、鍛冶場からまだ熱の残る吊り金具が届いた。昨日通水を戻したばかりの鍛冶冷し槽が、もう今日の広場を支える金物を吐き出している。兵ふたりと私は、南壁へ順に金具を打ち、査閲台の残り板を渡した。板の端は揃っていない。ひとつは巡察台の名残で角が丸く、ひとつは戸板の蝶番跡が残っている。それでも、藁束と卵籠を地面から離すには十分だった。
卵を運んできた女が、最初の籠をそっと仮台へ置く。藁が土へ触れずに済んだだけで、肩の力がひとつ抜けるのが見えた。
「豆はその隣へ。毛糸は吊るせます」
私が言うと、ミアがすぐ空いた金具へ縄を渡した。毛糸玉の浅籠が地べたから離れる。朝の湿りを吸わない高さへ上がると、色が少しだけ明るく見えた。
「次、鍛冶預かりって何」
干し果の女が戸板の三行目を指した。ちょうどそのとき、別の村男が荷車の後ろから欠けた鎌を二本持って現れた。昨日までの広場なら、そのまま通り過ぎていた顔だ。
「刃欠けしたやつ、ここで預けられるって聞いた」
「今日からです」
私は戸板の奥側を指した。
「名前の代わりに村の印で構いません。夕方返せない分は、鍛冶場の戸板へ残します」
男は少し黙ってから、鎌を差し出した。
「じゃあ、石畑の二本だ」
ミアが戸板の裏へ炭で小さく書く。石畑、鎌二。指先が迷わない。前は落ちる釘の数を追っていた手が、今日は預かりの数を残している。
戸口前の流れも変わり始めた。鍋の列だけを食堂前へ残したので、湯気を目当てに来た兵と村人が同じ向きで並ぶ。売り物を見る者は南壁へずれ、籠の前へしゃがむ。奥へ回れなかった客足が、二台目、三台目の荷車まで届き始めた。
昼前、広場の音がもうひとつ増えた。鈴ではない。木箱を下ろす音だ。東の小村から来た荷車が、干し豆ではなく根つきの薬草苗と、藁束でくるんだ蕪を積んで入ってきた。
「青い匂いがしたから寄った」
荷を下ろしながら、年嵩の女が言う。
「この前の鍋、葱が入ってただろ。あれ見て、苗を捨てずに持ってきた」
私は思わず荷台を見た。細い苗束の根はまだ白い。冬囲い床へ寄せれば、外で凍らせるより長く持つ。
「全部は買えません」
「売りに来たんじゃないよ。塩と、針と、割れてない鍋蓋が欲しい」
旅商人の女がすぐ横から口を挟む。
「針ならある。塩は半袋だけど」
言葉が荷台の上ではなく、仮台の高さで交わされる。地べたへしゃがみ込んで拾う取引ではなくなっただけで、声が前より遠くまで飛ぶ。
アルノルトが門側から戻ってきて、南壁の並びを見た。
「門前、まだ詰まらん」
「荷下ろしの列が流れています。午後も一台は入れます」
「なら、北見張りへ伝える。七の日は荷を止めずに通せ」
その言葉で、卵を運んできた女がこちらを見た。
「次も開くのかい」
「排水口を詰まらせなければ」
「じゃあ、来るよ。卵だけじゃなく、干し豆も増やせる」
私は頷いて、排水口の脇へ短い板札を立てた。
広場排水 朝いち確認
見つけたミアがすぐ読み上げる。
「あさいち、かくにん」
「市場の日だけじゃ足りません。毎朝です」
昼の鍋が運ばれるころには、食堂前広場の見え方が朝と変わっていた。戸口前は椀を持つ列だけが残り、南壁の仮台には卵、豆、毛糸、針、干し果、蕪、薬草苗が高さを揃えて並ぶ。奥の戸板には、石畑の鎌二本と、蝶番ひと組、欠けた鍬先が預かりの印つきで掛かっていた。
鍋番が戸口をまっすぐ出て、湯気をこぼさず列の先頭へ椀を渡す。広場へ来た村人は、そのまま帰らず、南壁の前で塩を選び、預けた道具の返り時刻を聞き、鍋の匂いへ顔を向ける。荷車の後ろは、通り過ぎるための空きではなく、次の荷を待つ場所になっていた。
私は点検簿を開いた。
食堂前広場、定期市対応。
南壁へ仮台三、吊り金具六増設。
荷下ろし、鍋列、鍛冶預かりを分離。
卵籠、豆袋、毛糸籠を地離れ。
近村二台増。薬草苗、蕪、刃欠け鎌流入。
広場排水、朝いち確認札を立てる。
書いているあいだにも、炭で書いた「鍛冶預かり」の下へ、もうひとつ古い蝶番が掛けられた。食堂の湯気には、昨日の青葱の青さがまだ少し残っている。南壁の仮台では、卵籠の藁が泥を吸わずに昼を越え、毛糸玉は風へ触れても地べたへ転がらない。
通り過ぎるだけなら、敷石が乾いただけで足りる。
けれど、荷を置く高さができて、鍋の列と売り物の列が分かれると、人は広場へ用事を増やす。
塩を買うだけだった手が、刃欠けした鎌を預ける。
豆を置くだけだった荷台が、薬草苗を置いていく。
帰るつもりで握っていた手綱が、昼の鐘までほどかれたままだった。




